内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第二章(十)

2014-03-30 00:00:10 | 哲学

3.2 自覚と行為的直観との方法論的差異
 行為的直観と自覚とは、「矛盾的自己同一の世界に於て一つの事である」が、両者それぞれの経験を可能にする関係性の違いによって相互に区別されうる。行為的直観は、私たちの自己の世界に対する原初的関係を示すのに対して、自覚は、世界の自己自身に対する根本的関係を示す。

私の行為的直観と云うのは、我々の自己が、世界を映すことによって働き、働くことによって映すと云うことに外ならない。矛盾的自己同一的世界に於ての自己と世界との関係である。自覚と云うのは、矛盾的自己同一的世界が自己の内に自己を映すと云うことである。世界が世界自身に対する関係である。

 私たちの自己が世界を映すということは単に世界が私たちの自己に対して対象として現れるということだけではなく、逆に私たちの自己が世界の内部における行動する一つの観点であることを意味している。行為的直観は、世界が世界自身を自らその内部そのものにおいて私たちの自己に対して現れさせるという原事実にほかならない。私たちの自己は、そこにおいて世界を構成する諸々の形の受容者でありかつ贈与者あるいは創造者である。無数の個物である私たちの自己が世界を映す、言い換えれば、ライプニッツ的な意味で「表現する」とき、世界は自己形成的世界として自らに現れるのである。
 それと同時に、行為的直観の事実が私たちの自己に世界を直接的に経験することを可能にしているまさにそのことゆえに、その世界に内属する私たちの自己の世界に対する関係とは区別されるべきもう一つの原関係があることが私たちの自己において直接感得されうる。それは、その世界に内属する私たちの自己おいて世界の世界自身に対する関係がそれとして直接把握されるときである。

我々の自己の自覚と云うのは、自己が何処までも世界を映す、自己が全世界を表現する、自己が世界となるという立場に於て成立するのである。

 西田はここで、自らの内部に自己自身を映す世界として私たちの自己がそれ自身によって把握される経験の構造に表現を与えようとしている。西田は、私たちの自己においてその自己によって内的に経験されるこの二つの関係性の区別、つまり私たちの自己の世界に対する関係と世界の世界自身に対する関係との区別に基づいて、科学の基礎としての行為的直観と哲学の営為そのものである自覚とを区別しつつ、この両者それぞれに固有の規定を与えようとする。

科学と云うのは、[…] 我々が現実に、歴史的身体的に、即ち行為的直観的に、自己自身を形成する形を見ると云うに基づく。

 世界を構成する諸々の形は、私たちの歴史的身体において現実化される行為的直観によって、そのような諸々の形として私たちに現れる。私たちの自己は、一つの種としてまた身体的に限定された存在として世界に属しつつ、世界に対する個物として、この種的に限定された次元を超えていくことができる。行為的直観は、この内在と超越の間の弁証法的関係が私たちの行為的身体的自己において生きられているときの現実形態にほかならない。私たちの自己は、世界を一なるものとして〈映し〉つつ、その内部において世界に対立し、世界をある一定の〈形〉において表象し表現することができる。ここに科学の立場が成立するための可能性の条件がある。このような視野に立つとき、科学的認識は、自己形成的な世界をその内部におけるある点から対象として見て、それをある一定の形の記号的体系において概念的に表現することにほかならないと言うことができる。

哲学と云うのは、之に反し世界が自己の内に自己を映すという立場に於て成立するのである。世界自身の自覚である。[…] 世界が自己の内に自己を記号的表現面的に、即ち概念的に表現する。哲学とは、かかる世界の概念的自覚ということができる。

 この定義によれば、哲学とは、私たちの個別的自己の個人的自覚ではなく、私たちの有限の自己において経験され、その自己によって概念を通じて表現された、世界そのものの自覚なのである。この自覚において、世界は、対象として自己に対して現れるのではなく、自己の自己による自己における直接的な経験として内的に生きられる。












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