内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

ストラスブールからパリに「上京」した日本人おのぼりさんの写真日記(下)

2016-02-29 00:18:00 | 写真

 独自のスタイルを築いた哲学者にしてレジスタンスの闘士だったジャンケレヴィッチ。天来の類稀な美貌に恵まれ、若き日にロダンの愛人となり、才能ある一流の彫刻家として認められ、大詩人ポール・クローデルを弟に持ち、四十代後半に精神を病み、以後死ぬまで精神病院で三十年間を過ごしたカミーユ・クローデル(2013年8月5日の記事へのリンクを昨日の記事に貼りましたが、その記事内の事実の記述に間違いがありましたので、この機会に訂正いたしました)。
 それぞれの旧宅の記念の石碑を撮った後、またノートルダム聖堂方向に引き返して、セーヌを左岸へと渡り、パリに住んでいたときの行きつけの古書店 Galerie de la Sorbonne で物色。ジョルジュ・カンギレムの Études d’histoire et de philosophie des sciences (1968) とルネ・ル・センヌの Traité de morale générale (1961) を購入。いずれも初版。前者は、1994年の第七版増補版はずっと前から手元にあり、博論でも引用したことがある(今でも当時の付箋が貼ったままになっていて、それらの頁には鉛筆での書き込みがあったりして、懐かしい)。後者は、十年以上前に一度購入しているのだが、東京の実家に置きっぱなしになっているので再購入。前者は、表紙に紙魚があるが、中身はところどころ頁が切ってあり、数カ所鉛筆で薄く行間に下線や本文脇に縦の傍線があるだけの良好な状態。後者には、少しだけ鉛筆での書き込みがあるが、その筆跡からして物を丁寧扱う持ち主だったろうと想像されるような保存状態。前者が15€、後者が10€。この古書店の値付けは本当に良心的。マダムの物腰の柔らかな対応はいつも私の気持ちを和ませてくれる。
 ちょっと話が横道に逸れますが(というか、もう逸れはじめていますが、お気楽散歩日記だから許されますよね)、ここのところ、古書購入で「ヒット」が続いている。といっても、資産価値があるような高価なものは最初から考慮の外であり、もっぱら、かねてから探していた絶版か版元品切れ本を比較的安く入手できたというだけの話なのですけれど。
 先週のこと、1964年に出たメナール版パスカル全集の第一巻のきわめて良好な状態の初版をネットで入手。表紙カヴァーの経年劣化を除けば、ほぼ新品同様。ここ数年ずっと探していた本だった。第二巻から第四巻までは、今でも妥当な値段の古書が簡単に手に入るのだが、第一巻だけは古書ネットでもめったに見かけない。たまに出品されていても、数百ユーロという法外な値段が付けられていて、手が出なかった。しかし、今回、22€という実に良心的な価格で入手できて喜んでいる。出品者は南仏の小さな古書店。
 同じく先週のこと、ルイ・ド・ブロイの『物質と光』の1937年刊の原書 Matière et lumière の初版をやはりネットで12€というとてもお手頃な価格で入手。こちらは珍しいというほどの本ではないのだが、いい状態の初版が手に入ったのは嬉しい。この本の中の太陽光とそのプリズムによる分光によって現れる色との関係についての問いに対するブロイによる答え(同書303頁)を、西田が同書の最初の邦訳出版以前に何度か引用しているので、西田が参照したであろうその原文を確認するというのが購入の「学術的」理由。邦訳は、現在岩波文庫で簡単に入手できるが、初版は1939年に岩波新書として上下二巻に分けて出版されている。
 ただ、同原書をめぐる書誌的な問題に関して、一つまだよくわからないことがある。というのは、『物質の光』の原書初版が出版されたのは、奥付によると、1937年の9月のことなのだが、西田がブロイに言及している論文「実践と対象認識」は同年の3月から5月にかけて、三回に分けて『哲学研究』に発表されている。つまり、同論文執筆中(前年暮か同年初め)に西田がブロイの同書を参照することは不可能なのである。ところが、西田の言及の仕方は、正確な引用でもなく、出典の明記もない(これは西田においては少しも珍しいことではない)とはいえ、明らかに同書の303頁の記述と内容的には一致している(西田の新全集でもこの箇所を注で挙げている)。
 どうやって西田は本国フランスでまだ出版されていない本の内容を知ることができたのか。
 一つ可能性として考えられるのは、ブロイが1937年以前に出版されたの論文のどこかで同内容の記述をしていて、それを西田が自分で読んだか、弟子(おそらく下村寅太郎)あるいは物理を専攻していた息子の外彦から聞いていた、ということである。西田がブロイにかねてから関心を持っていたことは書簡から明らかで、ちょうど「実践と対象認識」が『哲学研究』に分載されている時期に、ブロイのその年のもう一つの新刊 La physique nouvelle et les quanta について下村寅太郎にその内容を尋ねる手紙を4月12日に出し、約ひと月後の5月10日に、同書の原書が息子外彦のところにあったと下村に伝えている(序だが、同書簡から、その日にニールス・ボーアの来日講演を西田も下村も聴きに行くつもりであることがわかる)。同月24日にその息子外彦宛に「Broglie の本はすこしよんでみたが我々には大變よい これは何處で買つたのか 私も一冊ほしいと思ふ」と一言書き送っている。
 西田はこのとき六十七歳、京大を退官してからすでに九年が経っているが、ヨーロッパ留学中の弟子たちなどの手を借りて、ほぼリアルタイムで欧米の新刊を追っている。その衰えを知らない旺盛な知識欲・知的関心には驚かされる。

 あれあれ、いつの間にか、話が大きく逸れてしまいましたね。パリのお写真散歩に話を戻しましょう。
 上記の古書店を出て、サン・ミッシェル大通りに向かって歩きだすと、すぐにモンテーニュの銅像があります。Rue des Écoles を挟んで向かいのソルボンヌの正面に対峙するかように据えられています。脚を組んでリラックスした感じで腰掛けたその姿勢がいかにも優雅。ソルボンヌの権威ある学者先生方を前に、独り、一個の人間の精神の自由をその姿勢そのもので示しているようにも見えます。
 ソルボンヌの脇の細道 rue de la Sorbonne をソルボンヌ広場に向かって上り、広場を右手に見ながら通り過ぎて、rue Victor Cousin をさらに上り、rue Soufflot に出たところで、右折、改装工事が終わってすっかり綺麗になったパンテオンを背にして、リュクサンブール公園に向かって下って行きます。

 
春から秋にかけては色とりどりの美しい花々に飾られている同公園も、今はまだほんのわずかの花が散見されるだけ。そこで、公園内に点在する石像を見て回ることにしました。すると、ほどなくして、ボードレールの石像を見つけました。リセ・モンテーニュ側です。パリに住んでいた八年間、何度もこの公園に来ていたのに、気づきませんでした。

                   

 リュクサンブール公園で今回のパリのお散歩は終了。そこから89番バスに乗って、イナルコのすぐ近くにある約束のレストランへと向かいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ストラスブールからパリに「上京」した日本人おのぼりさんの写真日記(上)

2016-02-28 00:17:34 | 写真

 今日は日曜日です。難しい話は止めましょう。肩の凝らない話をします。
 昨日土曜日は、パリのイナルコでの日本哲学研究会に参加して来ました。
 研究会そのものは午後二時半からだし、発表者二人と研究会の共同責任者三人(私もその一人)との昼食の約束も午後一時からだったのですが、パリに行くのは昨年の十月以来のことだから、昼食の約束時間まで少しパリ市内を散歩して写真を撮るために、朝早くにストラスブールを発ちました。
 6時46分発のパリ行きTGVに乗るために自宅を6時前に出たときは、外気は氷点下。しかし、これはこの時期、ストラスブールでは例外的なことではありません。天気予報ではパリは晴れ。ところが、9時5分に着いた東駅からメトロ7番線でピラミッド駅で降り、地上に出て、風の冷たさに驚かされる。
 ピラミッド駅近くの日本食材店で、ストラスブールでは手に入らない日本直輸入米をまず購入しようと思ったのですが、開店は10時。まだ30分以上ある。寒い。暖かいカフェで時間を潰そうかとも思ったけれど、せっかく来たのにそれではつまらない。それに、5キロ入の袋はそれを持って歩き回るには重たすぎる。そこで、米を買うのは研究会後、東駅に向かう途中にすることにして、散歩を開始しました。
 最初に向かったのがパレ・ロワイヤルの中庭。そこで撮ったのが下の写真(写真は、いつもの記事と同様、クリックすると拡大されます)。

 
           

 そこから、ルーブル美術館を通り抜けてセーヌ川に出る。下の写真はセーヌの朝の風景。

             

 ノートルダム聖堂の方に向かって歩きながらシャッターを何度か切りましたが、ひどくつまらない写真しか撮れませんでした(残念)。
 ノートルダム裏手のすぐ脇にあるジャンケレヴィッチの旧居入り口脇の記念の石碑と、そこから歩いて5分ほどのところにあるカミーユ・クローデルの旧アトリエの石碑を写真に収める。

                          
 この二つの石碑については、こちらの記事でかつて話題にしましたので、よろしければ御覧ください。


 明日も「おのぼりさん日記」の続きです。


「個体発生」は存在の生成にほかならない ― ジルベール・シモンドンを読む(11)

2016-02-27 04:45:18 | 哲学

 「個体化」(« individuation »)とはどういうことか。ILFIの「序論」(« Introduction »)を読むと、上記の問いは、次のようなより限定された問いへと方向づけられていることがわかる。
 なぜ、それとして成立した「個体」ではなく、「個体化」そのものが問題にされなくてはならないのか。
 この問いへの答えはおよそ次のようになる。
 生成の出発点にこれ以上分割不可能でつねに自己同一的な実体を想定する実体論的原子論も、すべての存在は質料と形相との結合から形成されるとする質料形相論も、個体化原理そのものが生成する過程を捉えることができない。なぜなら、前者の場合、個体化後、つまりすでに原子として完了している個体化の後にしか個体化の原理を事後的に追認することしかできず、後者の場合、個体化前、つまり個体化が始まる前の質料と形相しかない段階ですでに個体化の原理が想定されなくてはならないからである。どちらの場合も、個体化作用そのものがグレーゾーンに隠れてしまう。言い換えれば、個体化は個体化以外に何かによって説明されなくてはならないものでしかない。
 どうしてそういうことになるのか。
 実体論的原子論と質料形相論のいずれの場合も、個体化作用過程そのものが個体化原理をもたらすという考えは排除されているからである。言い換えれば、両者の思考の枠組みにとどまるかぎり、個体化原理そのものの「個体発生」(« ontogénèse » )はそもそも考えようがない。あるいは、原理が個体として発生するということは定義上あり得ないとしか考えられないと言ってもよい。
 ところが、シモンドンにおいては、個体発生とは存在の生成そのものに外ならないと考えられている。

Le mot d’ontogénèse prend tout son sens si, au lieu de lui accorder le sens, restreint et dérivé, de genèse de l’individu (par opposition à une genèse plus vaste, par exemple elle de l’espèce), on lui fait désigner le caractère de devenir de l’être, ce par quoi l’être devient en tant qu’il est, comme être. L’opposition de l’être et du devenir peut n’être valide qu’à l’intérieur d’une certaine doctrine supposant que le modèle même de l’être est la substance (ILFI, p. 25).





















































 


性急な比較論に走るよりも地道な読解作業を ― ジルベール・シモンドンを読む(10)

2016-02-26 19:05:33 | 哲学

 昨日の記事の最後で、シモンドンの「トランスデュクシオン」と西田の「自覚的限定」との接点について、一言ちらりと仄めかした。
 しかし、そうした後で、性急な比較論は、比較される対象を歪曲し、無益な誤解をもたらすという、不毛どころか有害でさえある結果に終わるだけのことが多いから、いくらブログの記事とはいえ、あまりにも軽率な物言いは厳にこれを慎まないといけないだろうと殊勝にも反省した。
 西田については、この十六年間、仏語での博士論文の他にも日仏語で十数の論文を書いていくらかは研究してきたと言うことができるが、シモンドンについては、十数年前からときどき拾い読みしてきた程度にとどまり、まともに取り組んだことはない。
 それに、何かはっきりと限定された問題について論ずるために必要な箇所を選択的に読むというのとも違う。シモンドンが言うところの「個体化」(« individuation »)についての基本理解を深めたいという単純な願いが今回の長期連載のそもそもの目的であった。
 その初心に立ち返って、シモンドンのテキストそのものを少しずつ読んでいこう。とはいえ、第一の主著である L’individuation à la lumière de forme et d’information (以下、慣用にしたがって、ILFIと略記する)一つとっても、Jérôme Millon 社から2005年に刊行された最新版は五百頁を優に超え、しかも本文はすべて小さなポイントで組まれた途方もない大著であるから、ブログの記事に引用するのは、そのごく一部に限られる。しかも、同書を「客観的に」紹介することが目的ではないので、「個体化とはどういうことか」という問いに直接関わる箇所にさしあたり限られれる。
























































トランスデュクシオンあるいは自覚的限定 ― ジルベール・シモンドンを読む(9)

2016-02-25 18:28:05 | 哲学

 トランスデュクシオン(transduction)は、生成の原理であると同時に、と言うよりも、まさにそうであるからこそ、シモンドンの思考のダイナミズムの原理でもある。言い換えれば、シモンドンの個体化の哲学そのものが一つの個体化過程なのであり、その原理がトランスデュクシオンだということである。
 昨日の記事で引用したシモンドンのテキストの中にあったように、トランスデュクシオンは、物理、生物、心理、社会の諸次元に生起する。しかし、それらすべての次元において同様な仕方でではない。列記した四つの次元の順序にその過程は複雑化するとも言えるが、心理と社会との関係は前者が後者の単なる前段階ということを意味しているのではない。シモンドンは « psychosocial » という言葉をよく使うが、これを「社会心理」と訳してしまうと誤解を招きやすい。むしろ社会における心理固有の次元あるいは機能がそこでの問題だからだ。
 トランスデュクシオンは、とくに心理の次元において、より正確には、一個の主体の創発的思考の次元において、その過程そのものをもっとも典型的に示す。演繹(déduction)が出発点となる公理からすべてを論理的導出する思考の操作であり、帰納(induction)がその逆に経験的所与からそれらに共通する法則を引き出す思考の操作であるとすれば、そのいずれによっても現実の生成過程である個体化を捉えることはできない。思考作用とその対象の生成とを自らの構造化を通じて実行していく過程がトランスデュクシオンであるとすれば、ただトランスデュクシオンにおいてのみ、現実の個体化のプロセスが己自身の事として「リアルタイム」で内的に把握されるということが成立しうる。
 ここに、私たちは、シモンドンのトランスデュクシオンと西田哲学の「自覚的限定」との接点を見出す。



















































《 Transduction 》 あるいは作用と構造の「矛盾的」同一性 ― ジルベール・シモンドンを読む(8)

2016-02-24 19:51:25 | 哲学

 「個体化」(« individuation »)と並んで、シモンドンの哲学のもう一つの根本概念は « transduction » である。生物学では「形質導入」、心理学では「転導」、電気工学では「変換」と訳され、それぞれ異なった定義とともに使用されている。前二者は、それぞれ、1952年以降、1941年に初出が確認されているから、シモンドンもそれらを念頭においてのことではあろうが、自分の哲学に固有な定義を与えた上でこの概念を使用している。

Nous entendons par transduction une opération, physique, biologique, mentale, sociale, par laquelle une activité se propage de proche en proche à l’intérieur d’un domaine, en fondant cette propagation sur une structuration du domaine opérée de place en place : chaque région de structure constituée sert à la région suivante de principe de constitution, si bien qu’une modification s’étend ainsi progressivement en même temps que cette opération structurante (L’individuation à la lumière des notions de forme et d’information, op. cit., p. 32).

 トランスデュクシオンは、物理、生物、心理、社会のあらゆる分野に見出される作用あるいは操作であるとされているが、その最も単純な像を提供してくれる例として、シモンドンは、結晶化作用を挙げる。母液の中のある小さな一点から始まった結晶化作用がそこを出発点としてしだいに周囲に向かって全方向的に広がりながら大きくなっていく。その過程においては、各瞬間に構成された結晶体が順次その次の結晶化の基盤になり、次第に結晶体を拡張していく。
 シモンドンがこの物理現象に見て取っているのは、作用と構造との、いわば「矛盾的」同一性である。作用が始まらなければ、構造は形成されない。しかし、その構造の支えがなければ作用は実行され得ない。ある一定の領域内で、自らを実行するのに不可欠な構造を構成しかつその上に自らが基礎づけられながら、徐々に拡張されていく作用、それがトランスデュクシオンであり、これがまさにすべての個体化の、つまり生成の原理であるとシモンドンは考えるわけである。


















































花の折々に心とどめてもて遊びたまへ ― 紫の上の孫匂宮への最後の言葉

2016-02-23 20:45:59 | 講義の余白から

 今日はシモンドンの連載をお休みする。そろそろシモンドンのテキストそのものを引用しながら理解を深めていきたいと思っているのだが、冬休みも終わり、講義の準備を優先せざるを得なくなり、最初の引用箇所の選定が今日の記事には間に合わなかったというのがその理由。
 冬休み中だった先週、シモンドンについての連載のためにシモンドンの二つの主著を読みながら、他方では、それと並行して、今週の中古文学史の講義の準備のために『源氏物語』を読んでいた。
 シモンドンを読むことは、十三年前の博論で、西田における「形」の自己限定論を現代哲学の問題一つとして取り上げるためにシモンドンを援用しようとしながら果たせず、それをいつかは実現したいという願望が一つの動機になっている。
 『源氏物語』を読むことは、直接的には、講義の準備のためという職業的な義務がその「表向きの」理由であるが、なによりもまず、それ自体が無上の愉しみである。だから、思い立ったらいつでも繙くことができるように、小学館新編日本古典文学全集版と角川ソフィア文庫版とが仕事机に座ったまま届くところに並べてある。
 両者の間に直接の関係は、もちろん、ない。が、シモンドンの個体化理論から見ると、『源氏物語』は、そのテキストの生成過程がその生成の原理そのものの生成過程でもあることにおいて、シモンドンにおける « transduction » をこの上なく見事に例示している作品だとは言えるように思う。
 明日の講義で学生たちに『源氏物語』のどの箇所を紹介しようかといろいろ思案した挙句、「桐壺」の冒頭や「若紫」の中の光源氏が紫の上を見つけた場面など、定番的な箇所は型通り読ませるとして、それとは別に、「御法」から、病篤く己の最期が間近いことを自覚している紫の上が孫の匂宮を自室にそっと呼び寄せ、最後の別れの言葉を交わす場面を撰んだ。ここには普遍的な人間感情が深い感動をもたらす仕方で表現されていると思うからである。






















































未完の関係の様態の動的なシステムの原理 ― ジルベール・シモンドンを読む(7)

2016-02-22 19:28:13 | 哲学

 これまで見てきたところからもわかるように、シモンドン固有の語彙と既存の語彙についての先例のないシモンドン固有の用語法とは、その哲学を難解なものにしている。
 この難解さをさらに面倒なものにしているのが、他の思想家たちが使用している語に、ある点において、それと対立する意味をシモンドンが与えていることである。そして、まさにそのことがシモンドン哲学の中心的テーゼに関わっているだけに、そこで読み違えると、シモンドンをまったく誤解してしまうことになる。実際、その哲学の重要性が本格的に認識され、理解され始めたのはその没後だと言ってよい。
 すでに繰り返し述べてきたように、シモンドンにおける 「個体化」(« individuation »)とは、「生成」(« genèse »)一般に他ならない。つまり、「個体化」は、個々の存在物がそれ固有の特性によって他の存在物から区別される差異化の過程を意味する「個別化」(« individualisation »)とは厳密に区別されなくてはならない。
 ところが、厄介なことに、 « individuation » をこの後者の意味で使っているケースがある。例えば、 カール・グスタフ・ユングの場合がそうである。ユングにおいて、« individuation » は、シモンドンにおけるように「生成」を意味するのではなく、「汝がそれであるところのものになる」ということを意味する。つまり、それは、自己の底に潜む心理的・実存的特異性へと迫るプロセスのことである。
 さらに厄介なのは、シモンドンは、ユングにおける « individuation » の意味で « individualisation » という語を使っているわけでもないことである。
西洋哲学史の中でも、例えば、トマス・アクィナス、ドゥンス・スコトゥス、ライプニッツにおいても、 « individuation » は、個体差異化の原理として、つまり « individualisation » のことに他ならなかった。
 ところが、シモンドンにおいては、 « individualisation » は « individuation » を前提とし、後者なしに前者はありえず、前者を後者から切り離すことはできないと考えられている。つまり、個別的な個体の成立は、生成過程を前提とし、つねに生成の相の下にしか存立し得ない、ということである。
 このことを説明するのにシモンドンが好んで挙げる具体例が結晶(化)である。その説明を簡単にまとめると以下のようになる(詳しくは、L’individuation à la lumière des notions de forme et d’information, Jérôme Millon, 2005, op. cit., p. 85-92を参照)。
 生成された結晶の性質は、厳密にはその結晶の属性ではない。それは、その生成がそこで成立した非結晶質な環境と生成された結晶との、いわば「境界の属性」(« propriétés de limite »)である。言い換えれば、通常結晶の属性と呼ばれているものは、厳密には、結晶とその生成環境との間の関係の諸様態だということである。そして、この諸様態は、常に生成過程にあり、最終決定的にある個体に与えられた「属性」になることはなく、ましてや結晶化以前に環境に潜んでいた潜在的属性の顕現ではありえない。
 この未完の関係の様態の動的なシステムの原理が « individuation » である。



















































波動力学が与える一般個体化理論の基礎モデル ― ジルベール・シモンドンを読む(6)

2016-02-21 12:39:13 | 哲学

 シモンドンにおける「個体化」(« individuation »)とは、「生成」(« genèse »)に他ならない。個体化論は一般生成論に他ならない。
 生物レベルでの個体の生成を考えるとき、その生成がそれが発生する環境と不可分であり、個体と環境とは相互に作用的に限定し合う関係にあるというところまでは、何もシモンドンに固有な思想ではない。それどころか、少なからぬ哲学者や科学者たちによって支持されている生命観である。
 それでは、どこにシモンドンの哲学に固有な考え方が見出だせるのだろうか。
 一言で言えば、それは、上のような生命観に見られる生物個体とその環境との相互限定的発生モデルを、物理的個体と技術的個体とにも適用されうる汎用的モデルとして拡張したことにある。
 シモンドンが個体と「結び合わされた環境」(« milieu associé »)というとき、個体とその環境とがそれぞれ独立にまずそれとして存在して、それから両者の間に関係が発生するという考え方がはっきりと否定されている。己の哲学に固有な概念を創出したり、既存の哲学用語に己に固有な定義を与えたりしてシモンドンが捉えようとしているのは、個体とその環境との分化の機制そのものなのである。
 シモンドンの個体化理論の基礎モデルは、当時の物理学の知見、より正確には、波動力学がもたらした世界像から得られたものである。とりわけ、波動力学の定式化の基礎となったルイ・ド・ブロイの波動理論は、シモンドンの個体化理論の形成過程で決定的な役割を果たしている。シモンドンの一般個体化理論の形成にとって、波動力学は、前物理的かつ前生命的な状態を考え、そこから物理的個体と生命的個体の生誕を考えることを可能にする基礎モデルを提供しているからである。
 このように物理学によって与えられた基礎モデルから考えられた生命体思想の発想が、技術の思想にも適用される。この適用が以下のような「技術的個体」(« individu technique »)論をもたらす。
 技術的対象は、その「系統発生」の長い系列を通じて、しだいしだいに具体化される。その過程を通じて、技術的対象の「個別化」(« individualisation »)は徐々に目に見える形を取るようになる。この個別化によって、技術的対象は、生命体の場合に擬えられるような仕方で、己が「結び合わされた環境」との関係によって自己生成を実行する。そして、機械工業の時代に到って、まさに「技術的個体」としての機械が誕生する。
 技術的存在は、しかし、生物個体とは以下の点において異なる。
 生物個体が最初から或る具体的な生きた形を取るのに対して、技術的存在が十全に具体化された個体となるまでには果てしなく長い漸近的なプロセスを辿る。
 一方、社会心理的となった生物個体にとって、つまり社会的存在となった人間にとって、その環境が決定的な重要性を有つことは言うまでもない。そこで特に問題となるのは、環境が一つの社会集団であるとき、その環境は、単に環境であるかぎりにおいて個体と関係するだけでなく、それもまた個体化することである。そのとき、その環境としての社会集団は、それもまた個体として、その成員である各個体と同様に、心理的主体となる。
 この重層的個体性が、人間社会を生物社会に還元することを不可能にし、人間社会に固有な複雑性をもたらす要因の一つとなっている。
 因みに、この論点については、昨年拙ブログで6月30日から7月10日にかけて検討したヴァンサン・デコンブの「集団的個体」 (« individus collectifs »)論と重なるところがあることを注記しておく。
















































Penser 《 au milieu 》(「只中で」考える) ― ジルベール・シモンドンを読む(5)

2016-02-20 18:31:41 | 哲学

 « Penser au milieu » という表現の二つ目の意味、「『只中で』考える」( « penser “au milieu” »)は、個体とその環境との差異化をどこで考えるかという問題に関わる。
 個体の誕生とともに、その個体と不可分・不可同な仕方で作用するその環境がそれとして差異化される。この差異化を指し示すのに、シモンドンは、物理学で「位相差」を意味する « déphasage » という言葉を使う。この個体と環境との不可分離的差異化(私自身はこれを「離接」と呼びたい)は、個体の生成がまさに生起するその「場所」(« milieu »)において起る。つまり、その生成の場所は、その生成以前の場所に先在的(あるいは潜在的)に含まれていた諸要素に還元することはもやはできない。言い換えれば、個体の真の生成は、その生成の環境となる以前の場所に準備されていたプログラムの実行の結果ではない。例えば、ある有機体の最初の生誕は、それ以前からそこにあった無機的な物理化学的過程に還元することはできない。
 個体化とともにその環境もそれとして機能し始める個体化過程は、個体をその構成諸要素に還元することによっては理解できないことはもちろんだが、ある環境の自己形成機制の発動として理解することもできない。〈今〉〈ここに〉に誕生しつつある個体を、その生誕地にそれ以前からある要素や機制に還元せずに、全体をいわば生成の相の下に見ること、そして、考える我もまた生成過程にあるものとして、その過程に相応しい概念を創出しつつ、生成過程の内在的理解を実行すること、これが「『只中で』考える」ということである。
 この「『只中で』考える」という思考を人文科学の諸分野に適用するとどうなるか。それは、あたらしい「公理系」によって、つまり、新しい概念と新しい原理とによってそれら諸分野を統合することになるだろう。これらの新しい概念と原理とは、特に、心理学と社会学とを一種の「社会心理学」(« psychosociologie »)として統合することを可能にするだろう。
 ここで言われる「社会心理学」は、しかしながら、今日私たちが既存の学問分野の一つとして認識しているそれを指すのではない。社会集団を考察するために心理学の方法を適用する、あるいは、逆に、人間心理を考察するために社会学を援用する、といういうような、折衷的な方法論を指すのでもない。それは、むしろ、人間についての総合科学に与えられた仮称と見なされるべきだろう。個体としての人間とその人間がそこにおいて行動する環境とを全体として一つの生成過程として動的にかつ総合的に考察する総合学をシモンドンは構想している(以前にも仄めかしたことだが、この総合学に「百学連環」という西周による美称を与えたいと私は思っている)。
 技術を「『只中で』考える」とどうなるか。それは技術を自然と文化との媒介として三者を総合的に把握する態度へと私たちを導くであろう。このような総合的把握は、自然を文化に繋ぐものとして技術を統合する解放的な全体システムとして具体化されることになるだろう。
 「『只中で』考える」思考を徹底させることは、ここまで見てきたように、自然と文化と技術との関係を総合的に見直すという現代的な課題への取り組みに外ならないが、まさにその取り組みを通じて、「形相」「質料」「実体」等の西洋哲学の思考の枠組みを決めてきた基礎概念をその歴史の「只中で」根本から問い直すという哲学的批判精神を発揮することに他ならない。