内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第一章(四)

2014-03-07 00:44:00 | 哲学

1.2.3 フッサールと西田における哲学の始まりと哲学的言説との関係

 西田における純粋経験に対する哲学的言説の関係を、フッサールにおける純粋経験に対する現象学的記述の関係と対比するとき、その固有性と問題点を浮かび上がらせることができる。
 フッサールの語る純粋経験と西田の語る純粋経験とは、どちらもいっさいの反省的思考に先立つという点以外に共通点を持たない。フッサールにおいては、純粋経験に対して認識の最初の契機としての独立した地位が与えられていない。沈黙のうちにとどまり、自らのうちに閉じこもったままであるかぎり、純粋経験はいかなる反省の対象ともなりえず、したがって哲学的認識の手前にとどまったままである。最初に与えられた純粋経験は、自らにその基礎を与える厳密な科学にいかなる仕方でも属さない。純粋経験はそれゆえ哲学の始まりではない。哲学の始まりは「我思う ego cogito」の言明にあり、哲学の始まりの真正な表現であるこの「我思う」は、純粋経験からその自己表現へのその自発的な移行ではなく、最初に与えられた純粋経験との決別の宣言である。〈我思う〉と思惟されたものとの間に方法的に確立された切断は、前者にあらゆる経験的所与からの独立とそれらに対しての自立性を与え、自らに基礎を置いたあらゆる認識の礎石としての価値を与える。フッサールにおいて、哲学の始まりはあらゆる経験的所与に対して超越的なこの自ら宣言する〈我〉である。
 西田においては、これとは反対に、哲学的言説の始まりは〈我〉にあるのではなく、純粋経験そのものがその自己発展の過程において自らに言葉を与えるに至ることにある。しかし、最初に与えられた未だ沈黙したままで非人称的な純粋経験から出発して、〈我思う〉という哲学の最初の宣言を発することなしに、どのようにして哲学的言説に到達することができるのだろうか。〈我思う〉なしに、どのようにして哲学を始めることができるのだろうか。哲学の始まりにほかならない純粋経験と哲学者自身が合一することによってと言うだけではこれらの問いに答えたことにはならない。しかし、『善の研究』の中には、純粋経験から哲学的言説への移行の契機を明らかにする記述は見出しがたいので、ここではこれらの問いに対する答えは留保することにしよう。
 西田の純粋経験は、客観的に私たちの知識を体系化する理論的な出発点ではなく、哲学的探究の始まりへと開かれた原初的事実である。最初の純粋経験が西田にそこからすべてを説明しようという哲学的希求を与えたのである。しかしながら、西田において、他のものへと還元あるいは解体されることを拒む最初の純粋経験とその純粋経験からすべてを説明しようとする哲学的希求との間にはつねに緊張した関係がある。哲学的探究を体系的に追究していく過程で、哲学者はつねに最初に与えられた純粋経験の純粋性から遠ざかる危険、そしてそれを隠蔽し、ついには忘却する危険につねに晒されているからである。探究が推し進められれば進められるほど、最初の純粋性と組織されつつある知の体系との間の緊張も高まる。この恒常的な緊張、〈生命〉の自らを理解しようとする初源の意志に由来するこの緊張こそ、西田の哲学的探究の炉心である。純粋経験の最初の純粋性、つまり〈生命〉の自らへの最初の純粋で直接的な現れを忘却せずに、哲学的探究を徹底的に追求することはどのようにして可能なのか。この問いが西田哲学をつねに哲学の〈始源〉へと立ち戻らせることになる。