内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

長月の終わり

2022-09-30 23:59:59 | 雑感

 今日で9月も終わり。8月31日に日本から帰ってきてちょうど一ヶ月経ったことになる。どうしてかよくわからないが、長かったなあと感じる。新しい学年が始まってそれなりに忙しくはあったが、学科長だった四年間に比べれば大したこともなく、日常生活でも特別なことは何もなく、ただ日々が過ぎていっただけだが、先月末がなにか随分遠くに感じられるのはなぜなのだろう。
 今月も運動は一日も欠かさなかった。雨天だった二日のみウォーキング、残りの28日は走った。ただ、走行距離は減らした。毎日8キロとした。これには実にどうでもいい個人的な理由づけがある。一日平均10キロ、一年間で3650キロを年間目標として掲げている。5月まではパーフェクトだった。6月は翌月後半からの一時帰国に備えて「走り貯め」をした。帰国中はあまり走れないかも知れないと思ったから、帰国前に走行距離を増やして、7月8月に予想される不足分を予め補填しておくためである。6月は総計350キロ走った。50キロの「貯金」ができたわけである。7月も帰国前日までの18日で210キロ走った。30キロの「貯金」である。合計80キロの「貯金」をもって帰国した。
 ところが、帰国中、集中講義直前から講義期間に日走距離を減らした以外は、ほぼ毎日11キロ以上走ったので、ほとんど「貯金」が減らず、66キロフランスに持ち帰ることになってしまったのである。というわけで(って、わけになっていないが)、この「貯金」を取り崩すべく、今月の日走距離を8キロとし、ほぼ全額取り崩した。来月からは平常モードに戻す。
 この間の変化として特筆すべきことは、平均速度がアップしたことである。コンスタントに時速10,5キロで走れるようになった。これには距離を2キロ短くしたことも関係していると思うが、それ以上に、足の回転速度がアップし歩幅も若干広がったことが大きく関わっていると思う。着地の際の反発力を回転力に変換する足の筋力が僅かだが強化されたからだろうか。
 体組成計の数値には大きな変化はないが、体脂肪率が若干上昇傾向にあるのが気になる。これは脂肪の絶対量が増えたというよりも、骨格筋量が下がったからだと思う。見た目でもわかるのだが、足が夏休み前より細くなっている。特に膝下が細くなっている。脹脛には持久力を支える遅筋が集まっているから、それが細くなったということになる。それにもかかわらずスピードアップしたのは、瞬発力をもたらす速筋が僅かだが強化されたからなのだろうか。あるいは、速筋が量的に増えたわけではないが、反発力から回転力への変換効率が以前より良くなっているからなのかも知れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


偏りのない意見など意見でさえない ― アラン『芸術の体系』について

2022-09-29 23:59:59 | 哲学

 若い頃はかなり熱心にアランの著作を読んだものだが、フランスに来てからはほとんど読むことがなくなった。別に嫌いになったわけではないが、あんまり読みたいとも思わなくなった。理由は自分でもよくわからない。
 日仏合同ゼミに参加している日本人学生たちに中井正一の『美学入門』に関連した参考文献を紹介しようと思案しているときにアランの Systèmes des beaux-arts ことを思い出した。かつて岩波書店から出ていた桑原武夫訳『諸芸術の体系』(1978年)は今では古本でしか手に入らないようだが、長谷川宏訳『芸術の体系』が2008年に光文社古典新訳文庫の一冊として刊行されている。紹介する以上は自分も訳文を確かめた上でと思い、電子書籍版を購入した。桑原訳より格段に読みやすい訳だし、概ね良訳だと思う。
 原本はもともとアランが第一次世界大戦で従軍中に戦闘の合間を縫って書かれたものだ。手元に参考文献があるわけでもなく、出版の意図もなく、ただ自分の気晴らしのために書いたと追記に記している。戦場の不自由さを嘆くことなく、むしろそれを好条件だとまで言う。他人の所説に惑わされることなく、読者の反応を気にする必要もなく。思考を円滑に展開することができたと言う。「自分の思索に自信をもち、思索を進めることに喜びを感じている人の言だ」と訳者長谷川氏は解説に記している。
 確かに自分の確信するところを雄勁な筆致で書きつけている。卓見や創見が随所に見られる一方、ちょっと強引だと思われる箇所、とても納得できない箇所もある。しかし、読み手に自分で考えるように促してくる点ではどちらの場合も同じだ。
 読んでいてこう思った。およそ偏りのない意見などに人を動かす力はなく、そもそも意見でさえないのではないか、と。


ロンドンの霧の美はいつ誰によって発見されたか ― オスカー・ワイルド『インテンションズ』より

2022-09-28 23:59:59 | 読游摘録

 学生たちが中井正一の『美学入門』を読んで興味をもった箇所の一つは、中井がオスカー・ワイルドに言及しつつ、風景の美は画家や詩人の作品によって発見され創造されたものであり、それ以前には存在しなかったと言っている以下の箇所である。

彼の評論集『インテンションズ』の中にある言葉であるが、その中に「芸術は決して自然の模倣でない。むしろ自然が芸術の模倣である。一体自然とは何であるか、自然はわれわれを生んだところの大いなる母親ではない、自然はわれわれの創ったものである。」というような言葉がある。
 ワイルドがいうには、ロンドンは実に霧が深い、電車も止まり、馬車も止まる、この霧は、近代画家、例えばターナーのような画家がこれを描いて、初めて、この霧は風景として、人間の前にあらわれたのである。それまでは、霧の美を人々は見なかった、ただ困ったもんだと思っていた。ところが、画家に描かれて初めて、美しい霧として、ロンドンの霧が人間の前にあらわれたのである、だから、自然が、芸術を模倣して、初めて自然の美というものになったのであると考えるのである。(中公文庫版、109‐110頁)

 これは、ワイルドの批評論集 Intentions (1891) の巻頭に収められた対話篇 « THE DECAY OF LYING: AN OBSERVATION » (1889) の中で、対話者の一人 Vivian が « Nature is no great mother who has borne us. She is our creation. » という自分の主張の例証の一つとしてロンドンの霧を挙げている一節を念頭において書かれた箇所である。当該箇所の原文は以下の通り。

Vivian. Certainly. Where, if not from the Impressionists, do we get those wonderful brown fogs that come creeping down our streets, blurring the gas-lamps and changing the houses into monstrous shadows? To whom, if not to them and their master, do we owe the lovely silver mists that brood over our river, and turn to faint forms of fading grace curved bridge and swaying barge? The extraordinary change that has taken place in the climate of London during the last ten years is entirely due to a particular school of Art. You smile. Consider the matter from a scientific or a metaphysical point of view, and you will find that I am right. For what is Nature? Nature is no great mother who has borne us. She is our creation. It is in our brain that she quickens to life. Things are because we see them, and what we see, and how we see it, depends on the Arts that have influenced us. To look at a thing is very different from seeing a thing. One does not see anything until one sees its beauty. Then, and then only, does it come into existence. At present, people see fogs, not because there are fogs, but because poets and painters have taught them the mysterious loveliness of such effects. There may have been fogs for centuries in London. I dare say there were. But no one saw them, and so we do not know anything about them. They did not exist till Art had invented them.

 因みに、柄谷行人は『近代日本文学の起源』(1980年)の中の第一章「風景の発見」(初出『季刊藝術』1978年夏号)の中で、「私の考えでは、「風景」が日本で見出されたのは明治二十年代である。むろん見出されるまでもなく、風景はあったというべきかもしれない。しかし、風景としての発見はそれ以前には存在しなかったのであり、そう考えるときにのみ、「風景の発見」がいかに重層的な意味をはらむかをみることができるのである。」と述べているが、これはワイルドとほぼ同様な主張である。ところが、同書には、漱石に言及するくだりでロンドンという都市名が五回出て来はするが、ワイルドのワの字も、ましてやロンドンの霧の話は出てこない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


今年度日仏合同ゼミ第一回目遠隔合同授業

2022-09-27 17:00:01 | 講義の余白から

 今朝6時10分から7時50分まで今年度第一回目の日仏遠隔合同授業が行われた。開始二時間ほど前、こちらの大学のメールボックスがアクセス不能になり(最近頻繁にあり、閉口している)、このままだとメールで届いていたZOOMのリンクを開けないと慌てたが、日本側の責任者の先生にリンクを私用メールに再送してもらい、それを学生たちに転送して事なきを得た。全員時間通りにZOOMの教室に入室できた。
 予定通り、まずストラスブール大学の学生十名が一人ずつ中井正一『美学入門』についての第一印象を語った。三グループに分けてはあったが、実質は個々の印象を語っていた。それらに対する日本側のK先生からの応答と学生たちの感想を述べてもらうという形でゼミは進行した。
 双方合わせて二十九名の学生が参加しているので、全員に一通り一言感想を述べてもらうだけでも百分授業の四分の三ほどかかり、あとは今後の進め方について私の方から手短に説明するだけでほぼ時間となった。
 日本側に接続環境不良で発言できなかった学生が一名、途中からの参加になった学生が一名あったことを除けば、全員が最初から最後まで出席することができ、発言も一巡させることができたので、第一回目としてはこれでよしとすべきだろう。
 第二回目は四週間後。おそくともその二週間前には組み合わせができているはずの日仏合同の三チームがそれぞれ順に発表を行う予定である。
 日仏合同チームでの作業を来月上旬には開始し、来年二月のストラスブールでの合同ゼミでの最終プレゼンテーションを四ヶ月間かけてじっくりと仕上げていく「長距離走」である。それが今年度前期の学生たちの達成目標である。彼らに伴走して「水分」や「栄養素」を補給するのが教員側の役割である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本近代の特異点 ― フクシマ以後の「無常観」

2022-09-26 23:59:59 | 講義の余白から

 村上春樹と高畑勲が期せずして同じように日本人の「無常観」について語っている文章を2019年2月27日28日の記事で取り上げた。この二つの文章は授業でもよく取り上げる。しかし、それは二人の所説に私が賛成しているからではない。問題はむしろ、このような言説が2011年3月11日以降の日本に生まれてくる社会的脈絡にこそある。
 この手の言説は日本人からは共感を得やすく、日本が大好きな外国人からは称賛を得やすい。もちろん村上春樹や高畑勲がそのような受け狙いでこのような発言を行っているとはまったく思わない。彼らの真率さを疑うつもりもない。
 だが、まさにそれだから困るのだ。日本人は古代からずっと無常観を持ち続けてきたという仮説は論証不可能である。にもかかわらずあたかもそれはすべての日本人に自明のことであり、たとえ無常観という言葉は使わなくても、この言葉に集約されるような物の感じ方は連綿と日本人の間に受け継がれてきたのだという主張は何を根拠としているのか。それはそう思いたい人の願望にしかないのではないか。しかし、願望は、たとえそれが心底からの切なるもの・美しいものであっても論証の根拠たりえない。
 このような「美しく儚い日本の私」的言説は、想像の共同体を構築する礎としてもあまりにも脆弱である。幻想の共同体の仮構さえ覚束ない。こんな言説をありがたがることこそ、強さではなく、弱さでなくて何であろう。
 以上が二人の言説に対する現在の私の偽らざる感想である。
 授業では、私的感想は封印して、学生たちに次のように問いかける。現代日本文化を世界に向かって代表しているこの二人の言説の驚くべき(ではないのかもしれないが)親近性はどこから来るのか、それはほんとうに歴史的根拠をもっているのか、もしそうではないとすれば、それはどこから来るのか。これらの問いの答えを探すことが日本の近代の特異点を浮き彫りにするための手がかりになるはずである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


外なる源泉への回帰、未来への希望

2022-09-25 18:15:20 | 講義の余白から

 毎年3年生の「近代日本の歴史と社会」の授業で Rémi Brague の Au moyen du Moyen Âge の何箇所かを紹介する。その一つが « Les leçons du Moyen Âge » と題された文章の結論部である(この結論部は2013年8月9日の記事に私訳を載せてある)。
 ブラッグが問題にしているのはヨーロッパ文化の源泉はギリシアとイスラエルというヨーロッパの外部にあるということだが、日本文化の中国文明・文化に対する関係にも同様なことが言えるだろうか、というのが私から学生たちへの問いかけである。
 ギリシアとイスラエルが地理的にヨーロッパの外であると言ってよいならば、中国大陸は明らかに日本の外である。しかし、文明史・文化史において、どこまでヨーロッパと日本の対比が可能であろうか。日本には中国文明の影響下に入る前に縄文時代という長い歴史がある。これはヨーロッパにはない。
 外なる源泉への回帰によって自文化を更新するという経験は日本人もしてきた。例えば、江戸時代の伊藤仁斎の古義学と荻生徂徠の古文辞学は、孔孟のテキストに立ち帰ることで新たな読みの方法を確立した。本居宣長は方法の点において徂徠から学んでいる。一言で言えば、外なる源泉へ回帰しそこから学び直す方法の確立が学問を更新したのであり、近代的学問の方法を準備した。
 今また外なる源泉へと立ち戻り謙虚に学び直すことで、私たちは新しい学問の方法を見出すことができるだろうか。閉塞した現在の中で未来への道を見出すことができるだろうか。
 遥か彼方の外なる源泉に未来への出口の鍵が用意されているわけではないとしても、源泉から学び直すという謙虚な姿勢を開かれた心で共有することができれば、そのこと自体が未来への希望でありうるのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


週末の自由な読書

2022-09-24 23:59:59 | 読游摘録

 今年度前期の授業が始まってから二週間が過ぎた。学部と修士で担当している四つ授業それぞれを二回ずつ行った。授業の準備にも少し余裕ができた。先の見通しもだいたいはっきりした。日本の大学のように詳細なシラバスを事前に提出する必要がないから、それに縛られることもなく、授業が始まってから内容を調整・修正ができる。それは利点でもあるが、授業が始まる前にすでに学期・年間のプログラムが決まっていたほうが楽なこともある。
 今日は文字通り丸一日自由な読書に耽った。といっても一冊の書物を読み続けるのではなく、最近個人的関心から購入した書物や、授業に直接は関係ないけれどどこかで役に立つかもしれない本を書棚から引っ張り出して拾い読みをした。いずれこのブログでそれらの本の内容を立ち入って紹介・検討する機会もあろうかと思う。今日のところは書名を列挙するのみ。

唐木順三『禅と自然』(法蔵館文庫、2022年)
佐藤弘夫『鎌倉仏教』(ちくま学芸文庫、2014年)
末木文美士『日本思想史』(岩波新書、2020年)
久松真一『無神論』(法蔵館文庫、2022年)
Rémi Brague, Modérément moderne. Les Temps modernes ou l’invention d’une supercherie, Flammarion, « Champs essais », 2016 (1re édition, 2014).
Dominique Fortier, Les villes de papier. Une vie d’Emily Dickinson, Le Livre de Poche, 2022, (1re édition, 20181)
Jean Lacoste, La philosophie de l’art, PUF, « Que sais-je ? », 11e édition, 2019 (1re édition, 1981)
Carole Talon-Hugon, L’esthétique, PUF, « Que sais-je ? », 5e édition, 2018 (1re édition, 2004)

 

 

 

 

 

 

 

 

 


一つのテキストに対する四つのアプローチ ― 文章を「血肉化」するということ

2022-09-23 23:59:59 | 講義の余白から

 授業のテーマがなんであれ、教室で読む日本語のテキストに対して取りうる四つのアプローチを学生たちには授業中に説明する。
 第一は、昨日の記事で話題にしたように、音読である。
 これはさらに四つのタイプあるいは段階に分かれる。
 まず素読。内容の理解を捨象して、音と文字の形という感性的側面に注意を集中する。正しくきれいに読むことが大切だ。そのためにはどうしてもお手本が必要だ。この段階でいくら自己流に読んでもあまり意味はない。むしろ逆効果だ。発音、響き、抑揚、リズム、速度(緩急も含む)をお手本にしたがって身につけることが肝要だ。
 次に解読。これは素読の次の段階というよりも、素読を繰り返しているうちに自ずと漸進的に実行される。どういうことか。素読を一定期間繰り返している間に身につける単語や文法が音読の質を高めてくれるということである。
 そして味読。文字通り、テキストのテイストを味わうことだ。美味しい料理や美酒を味わうときと同じように、これは心身に快楽・喜悦をもたらす。
 最後に朗読。テキストを聴き手に向かって表現することだ。視覚的テキストを肉声によって聴覚的に受肉させることだ。いや、テキストの受肉と端的に言ったほうがよい。テキストのコミュニオンとも言える。
 第二は、文法的分析。一字一句徹底的に解析し、言語的な機能の理解に努める。ただし、私の受け持っている科目は語学の授業ではないので、これを実際に教室で行うことは稀である。
 第三は、網読(もうどく)。これは私の造語である。間テキスト読みということである。一つのテキストはそれだけで成立しているということはまずない。同じ筆者の他のテキストばかりでなく、同時代の他の書き手のテキスト、筆者が前提、参照、依拠などしているテキスト、さらには当該のテキストが書かれたときの諸条件などとの関連において一つのテキストは成り立っている。それらが構成するネットワークの中に位置づけて一つのテキストを読むことが網読である。
 第四は、運用。テキストに用いられている表現を自分で使うことである。これには四つのレベルがある。単語、句、文、論理構成の四レベルである。授業では特に第四レベルに学生の注意を促す。意味内容を一旦括弧に入れ、論理構成の要素を文章から抽出する。それらの要素を使って自ら論理的な文章を書く練習をする。
 一つの文章に対してこれら四つのアプローチが完遂されたとき、その文章は「血肉化」される。授業では四百字程度のテキストに対してそれぞれのアプローチの見本をちらっと見せる程度のことしかできない。後は学生たちが自ら実践するかどうかにかかっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


音読を自宅で実行させるには

2022-09-22 23:59:59 | 講義の余白から

 テキストを声に出して読む練習を学生たちに各自実行してもらいたいのだが、これがなかなかうまくいかない。二年生は出席者が五十名を超えているので、一人一文ずつでも時間がかかりすぎて授業では練習が行えない。今日の授業で十人ほどに一文ずつ読ませてみたが、彼らがまったくと言っていいほど家で声に出して読む練習をしていないことがわかる。三年生にしても四十人前後だから、やはり授業中に有効な仕方で練習することは難しい。どうすれば各自自宅で継続的に実行するようにできるだろうか。
 一つ考えられるのは、宿題として音読の録画あるいは録音を提出させることだ。ただ提出させただけではあまり意味がない。発音や読み方の矯正をフィードバックとして返す必要がある。問題は、それには厖大な時間がかかることだ。合計九十人ほどの学生の音読すべてを矯正している時間などとてもない。そもそも私の講義は語学の授業ではない。
 とはいえ、音読を各自実践しろといくら口を酸っぱくして言ってもほぼ無効だから、始めるきっかけを作るためには、なんらかの強制措置をとり、彼らの口を起動させねばならないだろう。そのために「アメ」も必要だ。上手に読めたら成績に加味することにするか。そんなことが本来の目的ではないのだが。


学生諸君、おみそれいたしました(平身低頭の巻)

2022-09-21 23:59:59 | 講義の余白から

 今日は修士一年の演習の第二回目だった。先週出した課題は、中井正一の『美学入門』を読んでの第一印象をフランス語と日本語で自由に発表する準備をして来ることだった。それは彼らが本書に対してまずどんな反応を示すのか知るためであったが、感想の中味に関しては、正直言うと、あまり期待していなかった。
 というのも、一般に日本学科で哲学的な関心を示す学生は少ないからだ。今年の修士一年の十名の学生のうち八名は去年学部三年生で授業を受け持っていたから、彼らの関心の所在と日本語のレベルは把握している。大森荘蔵について学部卒業小論文を書き、修士でも引き続き私の指導で大森について修士論文を書くつもりの学年最優秀の女子学生を例外として、みな哲学的な関心は薄いことわかっていた。夏休み中に『美学入門』を読んでおくように七月半ばにメールで伝えてはおいたが、ほんとうに読むとは思っていなかった。
 ところが、今日の彼らの発表を聴いて、私のこの悲観的な予想は完全に間違っていたことがわかった(学生諸君、ゴメンナサイ)。なんとほぼ全員が夏休み中に全部読み終えていたのである。しかも、仏訳に頼らずに日本語原文で読み上げた学生が半数以上、中には読了後に仏訳と比較し、日本語原文の方が読みやすいと言う学生までいた。もっと驚いたのは、全員それぞれに異なった論点を指摘してくれて、そのいずれもが今後演習でさらに展開するに値する問題提起になっており、日仏合同チームでの最終発表テーマをこれかから日本人学生たちと一緒に考え、絞り込んでいくのにすでに十分な準備ができていることだった。
 彼らの感想を聴いていてわかったことは、ここまで彼ら(男子二名、女子八名)を読み込む気にさせたのは、まさに中井の文章そのものの力だということだった。それはただわかりやすい文章だということではない。取り上げられている問題は多岐にわたり、なかには難しい問題もあるのに、読み手の理解を助ける具体例に富み、それを手がかりとして自分の経験に照らし合わせて読み手に考えさせるように書かれており、結果、中井の所説に啓発されるところや共感するところもあれば、逆に納得できないところ、反発するところもあるが、そうなるのは、それだけ読み手が中井の議論の中に入り込んで読んでいる証にほかならない。学生たちの発表はまさにそれを証していた。
 いやぁ~、学生諸君、おみそれいたしました。脱帽です。当方は不明を恥じるほかありません。
 来週火曜日は日本の学生たちとの第一回目の合同遠隔ゼミである。こちらの学生が三グループに分かれて日本語で発表することから始まる。その準備も彼らに任せておいて心配ないだろう。ゼミは午前六時十分から七時五十分までの百分間。守ってほしいことは、寝坊しないこと、そして、服装はちゃんとすること(パジャマ姿はダメ)。