3 — 自覚と行為的直観との区別と関係
西田の哲学的方法論をそれとして取り出す作業の第三段階として、西田哲学の最後期における自覚と行為的直観との区別と関係を検討していこう。その作業を通じて、私たちは、なぜ、どのように、自覚が哲学の方法として科学の諸方法の起動点としての行為的直観から区別されるのか、あたうかぎり厳密に理解することに努める。
3.1 歴史的実在の世界において行為的直観によって直接把握可能になる自覚
西田において、真実在とは、私たちがそこにおいて生き、それを現実に生きている世界にほかならない。それを、西田は、「歴史的世界」「歴史的現実の世界」「歴史的生命の世界」などと呼び、「すべてがそこからそこへ」と言う。
歴史的世界と云うのは、我々の自己がそれに含まれた世界であり、我々がそこから生れ、そこに於て働き、そこへ死に行く世界である。我々の自己に絶対的な世界である。
自覚は、歴史的世界が自らの内部で自己限定し、自己形成し、自己表現するということに由来する。自覚は、根本的に世界に属することがらであり、世界が自らに与えるものである。しかし、これらすべてのことが十全な仕方で現実化するのは、私たちの個別的な自己のそれぞれにおいてであり、その個別的自己の自覚は、「かかる世界の自己自身を限定する唯一的事実として成立するのである」。
世界が自覚する時、我々の自己が自覚する。我々の自己が自覚する時、世界が自覚する。我々の自覚的自己の一々は、世界の配景的一中心である。我々の知識は、世界が自己の内に自己を映すことから始まる。
世界の自覚は、それが私たちの自己において経験されることによって、私たちに世界を直接経験することを、つまり世界の直観を可能にする。この直観は、
すべての点が世界の始となる、時間的・空間的、空間的・時間的世界の自己限定として、見るものと見られるものとの矛盾的自己同一的に、形が形自身を限定する、形が形自身を見ると云うことである。
この直観は、まさに西田が行為的直観と呼ぶものであり、歴史的身体としての私たちの行為的身体によって現実化されるものである。自覚は、行為的直観がそれを歴史的実在の世界における私たちの行為的身体に直接把握可能なものにするかぎりにおいて、行為的直観に同一化される。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます