内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

パリ・ナンテール大学シンポジウム「ハイデガーの超克」初日

2023-11-30 23:59:59 | 哲学

 朝6時40分の TGV でパリに向かう。定刻より10分遅れて8時45分に東駅着。駅で RER A 線でナンテール・ユニヴェルシテ駅までのチケットを買うために自動販売機の前に並ぶ。呆れたことに、三題ある販売機のうち一台しか機能していない。私が並んだときに私の前にいたのは10人ほどだったが、並んで待っているうちにみるみる行列は長くなっていく。それでなくても大きな駅の自動販売機は、勝手がよくわからない旅行者たちがまごつきながらチケットを購入することが多いので行列ができやすい。こんなことで来年のオリンピックはどうなるのかと余計な心配もしたくなる。
 パリ・ナンテール大学にはシンポジウム開始時間に十分遅れて到着。シンポジウム主催者チエリー・オケ教授のキー・ノートがすでに始まっていた。その直後に、私の博士論文の審査員一人だったベルギー・ルーヴァン・カトリック大学のベルナール・ステヴァンス名誉教授の和辻についての発表。その後、休憩を挟んで私の三木清の『パスカルにおける人間の研究』についての発表。原稿なしでの発表で、後半は多少駆け足になってしまったが、要点はしっかり伝えることができたと思う。昼食後、京大の上原麻有子教授の西田のハイデガー批判についての発表。続いて、若き俊秀シモン・エベルソルトの九鬼周造のハイデガー批判についての発表。休憩後、京大の杉村靖彦教授の田辺の死の弁証法からのハイデガーの生の存在論への批判についての発表。
 私の発表はともかく、その他のいずれの発表も聴き応えのある発表であったし、質疑応答も実のあるものだった。これは語弊のある言い方ではあるが、「ハイデガー」のネームバリューはやはり大きくて(「客寄せパンダ」とは言いませんよ)、聴衆の数もざっと数えて50~60人ほどで昨年までより格段に多かった。明日はフランスにおけるハイデガー受容がテーマだから、より一層多くの聴衆が集まることだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


1923年夏学期のフライブルクでの最後の講義に示されていたハイデガーの哲学的企図

2023-11-29 14:02:44 | 哲学

 ハイデガーの『存在と時間』を読むとき、フランス語で書かれた二つの詳細をきわめた懇切丁寧な注解書が大切な導きの糸となる。Jean Greisch, Ontologie et temporalité. Esquisse d’une interprétation intégrale de Sein und Zeit, PUF, coll. « Épiméthée », 1994 と Marlène Zarader, Lire Être et Temps de Heidegger. Un commentaire de la première section, Vrin, 2012 である。後者は前者を絶賛しているが、それだけに前者とははっきりと違った読解方針を打ち出している。前者は、『存在と時間』そのものの注解を同書の成立史の中に位置づけているのに対して、後者は『存在と時間』のなかで同書以後にハイデガー自身によって展開される論点あるいは放棄される論点への言及が多く織り込まれている。つまり、前者が『存在と時間』の出版に至るまでのハイデガーの思索の歩み全体を示そうとしているのに対して、後者は『存在と時間』をそれ以降の思索の展望の起点として読もうとしている。その他にも重要な違いがあるのだが今日は言及しない。一言で言えば、この二冊の浩瀚な注解書は相補的な関係にあり、フランス語圏で『存在と時間』を読もうとする者にとって必携ガイドである。
 明日の発表ではもっぱらジャン・グレッシュの注解書にのみ言及する。なぜなら、三木清のハイデガー理解を問題にするとき、『存在と時間』出版以前のハイデガーの講義が特に重要な鍵を提供してくれるからである。
 三木がマールブルクで聴いたハイデガーの二つの講義にはパスカルへの言及はない。しかし、ハイデガーがマールブルク大に任命される直前の夏学期にフライブルク大で行った講義「存在論―事実性の解釈学」には三箇所パスカルへの言及があり、特に、その冒頭に『パンセ』からフランス語のまま引用されている断章が置かれている補遺六「人間の本性」は、ハイデガーの解釈学的方法を理解する上で重要である。

Quand tout se remue également, rien ne se remue en apparence, comme en un vaisseau. Quand tous vont vers le débordement, nul n’y semble aller : celui qui s’arrête fait remarquer l’emportement des autres, comme un point fixe. (S577, L699, B382)

すべてが一様に動いているときには、何も動いているようには見えない。ちょうど船の中でのように。万人が放埒に走るときには、誰もそうしているようには見えない。立ち止まっている者だけが、固定した一点のように、他の人々の行き過ぎを明らかにする。(岩波文庫、塩川徹也訳)

 この断章はデカルトの『哲学原理』の第二部一三節と同第二部二四節を念頭に置いている。この断章をハイデガーが引用しているのは、グレッシュが指摘しているように、生の運動をいかにその動きを裏切らずに記述できるかという難問に答えるための手がかりとしてである。
 船上でじっとしている記述対象と同じ船上にいる記述主体とは一様に動いている。この立場にとどまるかぎり、船ととともに移動しつつある記述対象の動きは動きとして捉え得ない。立ち止まってある固定点から動いている船を見るときにはじめて、その船とともに動くものがどの方向に向かおうとしているのかが見える。
 このような動きが事実性であり、その本性を裏切らずに捉えるためには固定点の構築が必要であり、その固定点がハイデガーのいう「カテゴリー」である。このカテゴリーを用いて行われるのが「解釈」である。このカテゴリーは、しかし、生の外部から恣意的に導入される概念ではない。それは生そのもののうちにある。それを引き出すのが解釈学である。
 「生のひとつの現われとしての哲学の意味を理解するためには哲学が生の裡から発生する過程の存在論的必然性が解釈されなければならぬ。哲学は[…]人間の存在にとって必然的なるひとつの存在の仕方である。」(『パスカルにおける人間の研究』、岩波文庫、42頁)
 1923年の時点でハイデガーが構想していた哲学的企図を三木がよく理解していたことがわかる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ZOOM面談の利点

2023-11-28 23:59:59 | 雑感

 今日は午前8時から午後1時過ぎまで、4人の来年度日本留学希望者と選抜出願書類についてZOOM面談を行った。といっても、それぞれの面談は15分前後で済むので、次の面談まで45分かそれ以上間があく。これらの面談を教員室で行えば、合間に中座することはできても、最後の面談が終わるまでキャンパスに拘束されることになるが、ZOOMだと自宅で合間の時間を有効に使える。今日は、明後日の発表の準備をしたり、注文した本を街の中心部の本屋まで取りに行ったりできた。
 ZOOMその他のオンライン会議アプリの使用はコロナ禍をきっかけ大学でも一気に一般化した。おかげで、今では完全に日常的なツールになった。学生たちにとっても好都合なことが多い。面談のためだけにキャンパスまで出向く必要もないし、キャンパスで授業の合間に時間を無駄にせずに面談できる。お互いに都合の良い時間帯をそれだけ見つけやすい。一対一の場合は、会って話すためにお互いの都合をつけるのもさほど難しくないが、集まる人数が多いときは、オンラインのほうが全員にとって都合の良い日時の決定が格段に容易になる。書類などを画面共有で一緒に見ながら話せるのも便利だ。オンラインのほうが気後れせずに質問できるという学生もいる。
 もちろん直接会って話すことにも利点は多々ある。直接面談のほうを好む学生もいる。画面越しでは伝わりにくいこともある。相手の微妙な感情の動きや場の雰囲気などはそうだ。だが、そういうことが問題にならず、用件だけ済めばよいという場合は、オンラインのほうが無駄なく仕事がこなせてよい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


哲学部修士一年の学生から届いたメッセージ ― 植物哲学への関心

2023-11-27 17:17:45 | 哲学

 先週の火曜日、日本学科修士一年のある女子学生の友だちだという哲学部修士一年生の女子学生からメールが届いた。
 植物の感覚性という問題に修士論文で取り組もうと思っているのだが、私が植物の哲学を修士の演習で取り上げていることをその友だちから聞き(日本学科で! どうして? と驚いただろうね)、論文について是非相談に乗ってほしいという話だった。ストラスブール大の哲学部に植物の哲学に関心を持っている学生がいるとはこっちも思いもよらなかったが、すぐに相談に応じると返信した。で、今日、ZOOMで面談した。
 話を聞いてみると、まだ関心を持ち始めたという程度で、植物の哲学に関する主要な論点やそれを取り扱っている文献についてはほとんど知識がなかった。私が授業で使ったパワーポイントを共有して、手始めに読むべき十冊ほどの文献を紹介し、植物をめぐってどのような問題が今世紀に入ってから論じられるようになっているか概説した。面談後、予め用意しておいた文献表と上記のパワーポイントを送った。
 面談の終わりに論文の共同指導を依頼されたが、それが可能どうかは哲学部の内規によることなので、まず指導教授と相談するように助言した。可能ならば、もちろん喜んで引き受けると答えておいた。
 日仏合同ゼミのほうでは、動物倫理への関心の高さが目立っているのだが、ひょっとすると動物について哲学論文を書きたいという学生も出てくるかも知れない。その場合も、もちろん喜んで対応する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


必然的に壊れてゆくモノたちとともに生きていくということ

2023-11-26 19:51:57 | 雑感

 モノは壊れてゆく。それは仕方ない。
 でも、「ええっ! このタイミングでどうして? ちょっと待ってほしいなぁ」、と思うことはある。
 一昨日まで、通常の仕事モードで二台のノート型 PC を日常的に使っていた。かつては二台とも問題なく作動していた。が、一年ほど前だったか、古い方の一台からまったく音が出なくなった。いろいろ試してみたが、駄目。カメラ機能はまったく問題ないが、ZOOM はもう使えない。修理に出せばいいようなもの、もう一台は正常に機能しているから、まあ、いいかと、そのままにしておいた。
 先週金曜日、新しいほうの PC(といっても、もう購入してから三年近くなる)が、授業中はまったく問題なく機能していたのに、その直後のオフィス・アワー中に開こうとしたら、突然、ブツッとシャットダウンした。嫌な予感。再起動しようとしても、まったく反応しない。
 PCなしでは仕事も研究もできない。そんなことになったら、まるで突然手足をもがれたかのようだ。なんと不便なことだろう。このタイミングでの新しい PC の購入は、まったく想定外、出費として痛すぎる。などなど、碌でもない考えが渦巻く。
 幸い、PCは再起動できた。でも、USBポートの一つが反応しない。他の二つの USB‐C ポートは生きているようだ。それにしても、このまま放置しておいていい状態ではない。
 まず、新規購入を検討した。できないわけではない。でも、できることなら避けたい。で、時間稼ぎに過ぎないかも知れないが、七年前に購入して今はお蔵入りしている PC を二年ぶりに起動してみた。なんでこんなに遅いの。速さに慣れるって、恐ろしい。でも、まあ、とにかく、動くことは動く。Windows 11 はインストールできない。それでも使えることは使える。不義理を重ねていた旧友に久しぶりに再会したかのように、懐かしい。久しぶり! いろいろあってさぁ、無理は言わないから、よろしくお願いします、って感じかな。
 というわけで、金曜日以来、三台の PC を使っている。今月30日のパリ・ナンテール大学での発表まではこの状態でなんとか凌ぎたい。幸い、今日、発表の準備はほぼ目処がたった。けっこういい感じ、って、爺の独りよがりだね。
 機械さんたちよ、あなたたちは突然使えなくなることがあるよね。基本、仲良くやっていきたいけどさ、頼り過ぎちゃいけないってことだね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「深い人生の悲哀」を動機とする生命の哲学

2023-11-25 08:14:53 | 哲学

 悲嘆と悲哀はどう違うのか。
 まず、用法を比較してみよう。「愛児の死に悲嘆に暮れる」「人生の悲哀を感じる」などはごく一般的な用法だろう。国語辞典にはたいてい同様な表現が用例として挙げられている。それに対して、「愛児の死に悲哀を感じる」という表現には違和感を覚えるし、「人生を悲嘆する」とはまず言わないと思う。
 「悲嘆」は、ある不幸な出来事を悲しみ嘆くことであるのに対して、「悲哀」は、個々の出来事によって引き起こされる感情の層よりも心のより深いところで持続的に感じられている情意を意味することが多い。前者が動作性を有しているのに対して、後者は状態性が支配的である。
 島薗進氏の『ともに悲嘆を生きる グリーフケアの歴史と文化』(朝日選書、2019年)の冒頭には、西田幾多郎の随筆「我が子の死」が悲嘆の例として引用されている。確かに、西田は、弟の死、度重なる我が子、妻の死などを経験し、その都度悲嘆に暮れたことだろう。
 しかし、島薗氏が「こうした死別の経験、悲嘆の経験(西田自身は「悲哀」とよぶ)」(4頁)と述べているところには同意できない。西田が経験したその都度の悲嘆と哲学の動機としての「深い人生の悲哀」とは次元を異にしている。度重なる悲嘆が深い人生の悲哀となって西田の哲学を動機づけたのではない。この点を間違えると、西田哲学はよく理解できない。
 その都度の悲嘆の経験の奥底にある恒常的な存在様態としての基底的情感が「悲哀」なのだ。仮に悲嘆の経験はなくとも(そんな人がいるとしての話だが)、表面は一見華やかな人生の底にも悲哀はつねに感じられているものなのだ。この「感じられている」は受動性ではない。「悲哀が己自身を感じている」と言ったほうがよい。このような表現は日本語では奇妙に見えるが、これはフランス語の « s’éprouver » に相当する。つまり、悲哀は、他の諸感情を媒介としない自己触発的なものなのだ。それが「生命」である。
 だからこそ、西田哲学は、「深い人生の悲哀」を動機とする「生命の哲学」なのである。


プレゼンテーションで終助詞「ね」は原則使うな

2023-11-24 23:59:59 | 日本語について

 語感は同じ母語の話者たちの間であっても一様ではない。それでも、日本語を学んでいるフランス人学生たちと日々接していると、日本人同士ならほぼ誤解の余地はないと思われるところで、彼らが語感をうまくつかめていないと感じることはしばしばある。それは名詞、動詞、形容詞、副詞、助詞、いずれでもある。
 例えば、発表でやたらと終助詞「ね」を使いたがる学生が毎年必ず何人かいる。自分の発言について聞き手からの暗黙の同意・承認を求めるときに使われる(もちろん他の用法もあるが)この「ね」を頻用すると、日本語を母語とする聞き手は、必ずしも同意が自明ではない場合には、押し付けがましく感じるだろう。
 例えば、昨日まで穏やかな天気が続いていたのに、今日、急に気温が10度も下がったとしよう。そんなときに誰かと出会い、その人が「急に寒くなりましたね」と言うのを聞いて違和感を抱くことはまずないだろう。しかし、ある人のことを非難して、「すべてあいつのせいですよね」と誰かが私に同意を求めるように言うのを聞いて、私がそれに同意できないときは、それだけ強く反発を覚えるだろう。いったい何を根拠にこっちも同じ意見だと想定しているのかと不可解なときもあるし、無神経あるいは不遜に感じられることさえあるだろう。
 使っている学生本人は「ね」がそんなニュアンスをもってしまうことなどつゆ知らず、聞き手が自分と同じように感じていると想定して、いわば共感の表示として使っていることが多い。悪気などもちろんない。発表内容の理解の妨げになることもない。しかし、そもそもプレゼンテーションで使う必要はない。
 で、原則、「使うな」と助言する。自分の考えに相手が共感あるいは同意してくれるかどうかは、発表後の質疑応答を通じて明らかにすべきことで、発表の段階で相手の同意あるいは共感を無根拠に前提することは差し控えるべきだからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ジョギング年間目標早くも達成

2023-11-23 16:39:18 | 雑感

 今日でジョギングの年間目標3650キロメートルに到達した。最近特に頑張ったというわけではなく、10キロ以上走りたいと思い、無理なくそれができるときは12キロ以上走る日が3月以降いつの間にか増えていった結果である。
 昨年は、少し「貯金」が貯まると、すぐに走行距離を減らして、各月末には「貯金」が零になるように調整し、年末にちょうど3650キロになるように帳尻を合せた。今年は今日まで走りたいだけ走ったらこうなった。
 12月31日までまだ38日ある。で、目標を上方修正して、年間4000キロを目指すことにした。ただ、是が非でもというほどの決意はなく、このまま今までの調子で行けば、難なく達成できそうだからというくらいの軽い気持ちである。
 走る時間はその日の予定と天気次第。午前中のこともあれば、午後一のときもあり、日没直前のこともある。日没後に走る気はしない。昨年は、夜明け前に走ることもよくあったが、今年は、午前4時に起床したら、すぐに仕事か研究か読書を始め、だいたい10時頃まで続ける。ジョギングはそれ以降にしている。
 どの時間帯でも他のジョガーを見かける。同じ方向に走っているときは、ほぼ例外なく、あっさりと抜かれ、どんどん遠ざかっていく。前方に見かけるときは、いつまでたっても近づけないか、視界から消えていく。やれやれ自分はなんて遅いんだろうとちょっと情けなくなることもある。
 が、無理して転んで怪我したり、呼吸困難で倒れたり、脚を痛めたりしては、なんにもならない。トロトロと続ける。それが私には合っているようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「夢を見ることは、私にとって生きる力」―『私の夢まで、会いに来てくれた』より

2023-11-22 09:42:36 | 読游摘録

 島薗進氏の『死生観を問う』(朝日選書)で取り上げられている『私の夢まで、会いに来てくれた』(東北学院大学震災の記録プロジェクト・金菱清(ゼミナール)編、朝日新聞出版、2019年)に収録されている、大切な家族を震災で失った被災者の方たちの夢の語りの記録には深く心を動かされた。同書は電子書籍版でも刊行されているので、すぐに購入した。
 プロジェクト・リーダーの金菱清氏は、震災直後から学生とともに「震災の記録プロジェクト」に取り組み、その取り組みにおいて、人々の生活現場からの発信を重んじるアプローチをとってきた。そのアプローチは、島薗氏が指摘されているように、「被災者にとっても、学生にとっても、そして研究者や多くの市民にとっても、心に届く新たな力をもった方法」(『死生観を問う』、14頁)の実践であった。その持続と蓄積の上に、被災者の方々の話を聴き、記録する企てが実行され、上掲書『私の夢まで、会いに来てくれた』として結実した。
 本書に収録された語りの記録の要になるのが「夢」である。「「夢」を媒介として多くの悲嘆が語られ、そして夢がもたらした癒やしや慰め、また新たな目覚めの体験が語られることになった。死者は生きている。夢を通して、死者は思いがけない恵みや導きをもたらしてくれる。」(島薗上掲書、同頁)
 「『私の夢まで、会いに来てくれた』が如実に示しているのは、現代日本では心の痛みを負うふつうの人々にとって、「夢」と「生きている死者」が深い心の痛みを慰め癒やしてくれるような経験領域があるということだ。」(島薗上掲書、14‐15頁)
 毎日碌でもない夢ばかり見ている私は、『私の夢まで、会いに来てくれた』の夢語りに表出された痛切な悲嘆、深い慰めと癒やし、夢が与える生きる力の証言を読んで、まさに目が覚める思いであったばかりでなく、何かとても大切なことを教えられたことを感謝とともに実感している。
 最愛の妻と娘を震災で失った亀井繁さんの語りのなかの次の一言を私は忘れることはないだろう。

宏美はどこにも行かず、姿は見えないけれど、そばにいてずっと見守ってくれている。そのことをはっきり感じた夢でした。夢なんて誰でも見るでしょ、とか、脳が見せているだけと言う人もいるけれど、私にとっては、単なる夢ではないんです。夢の二人は、魂の姿。だから、夢を見ることは、私にとって生きる力。これからも、宏美と陽愛も一緒に、家族として生き続けることなんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日仏合同遠隔授業第三回目 ― 現実の問題と向き合う哲学的思考のための演習

2023-11-21 09:05:56 | 講義の余白から

 今朝、こちらの時間で午前5時10分から6時50分まで(日本時間では午後1時10分から2時50分まで)、日仏合同遠隔授業の第3回目がZOOMを使って行われた。私たち教員2人を含めて39名出席。欠席者はストラスブール側の1名のみ。
 今回は、4つの日仏合同チームそれぞれのサブチーム3つの代表に中間報告をしてもらった。だから合計12の報告があった。このようにサブチームを作らせたのは今回がはじめてだった。その理由は、3、4人の小さなチームでのほうが連絡を密に取り合うことができ、話がまとめやすいということである。これは狙い通りであった。各サブチームですでに話し合いを重ね、問題意識がよく共有されており、今後の計画もみなしっかり立てている。全体として期待以上の進展が見られた。
 各サブチームの代表が発表するように先週指示したとき、代表は日本側でもフランス側でもよしとしたのだが、発表者はおそらく全員日本人だろうと予想していた。そのほうがまとめるのも簡単だからである。ところが、あるチームは、3つのサブチームの発表者が全員フランス人だった。しかも、この短期間にパワーポイントも準備してあり、要点が明瞭簡潔に示されていた。これは発表の準備に日本人学生たちがよく協力したからこそであり、それだけチーム全体としてよく機能していることを意味している。これには特に感心した。
 生命倫理、動物倫理、肉食主義という、彼女ら彼らが今までよく考える機会がなかった問題について、参考文献を自分たちで探しながら、それらから得られた知見に基づいて話し合い、その過程で問題がより明確化し、日仏のさまざまな相違点も浮かび上がり、これら三つのテーマの相互連関性も自ずとよりよく見えるようになってきている。
 一方で、哲学・倫理学の基礎概念に立ち戻って問題の大枠をより堅固なものとしつつ、他方では、現実世界の具体的な諸問題・諸事例についての情報を収集することで抽象的な一般論に陥らないように注意する。それらの作業を通じて限定された問題を考えることが、実は哲学的思考の演習になっていることに学生たち自身が気づき始めている。