内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第二章(四)

2014-03-24 00:00:00 | 哲学

1.2 自己自身に於て他を含むもの、自己否定を含むもの

 上に見たように真実在の一般的定義から引き出されうる西田哲学の方法上の基本原則から、さらにどのような方法論上の諸規定が引き出されうるか、先に引用した一節に含まれている真実在についての五つのテーゼの分析を通じて見ていこう。

しかし真にそれ自身によってあるものは、自己自身において他を含むもの、自己否定を含むものでなければならない。

 この内在する他者についてのテーゼから言えることは、真実在の根源的な知においては、原理的に他者性を排除するような、単なる神秘的な合一体験が問題なのではないということである。このような合一は、それが個と全体との融合と定義されるかぎり、西田の言い方に従えば、ただ主観的なものにとどまる。しかも、このような見方においては、個は全体に完全に没入し、したがって他なるものと出会う可能性はまったくないことになってしまう。しかしながら、考える自己による他なるものの思弁的回収あるいは導入ということがここで問題なのでもない。その場合は、考える自己によって他と見なされたものが現れるにすぎないからである。
 それ自身によって存在するものは他なるものをそれとして本質的に自らのうちに含んでいなければならない。もしそれが常に単に実体的に自己同一的で、自己の内部から他を排除することによってしかそれ自身によって存在することができないとすれば、十全にかつ全体としてそれ自身によって存在することは不可能になってしまう。その場合、その存在は、他の不在あるいは他の無化を前提としているという点において、他に現実に依存していることになる。したがって、真実在がまさに真実在であるためには、他なるものが真実在に十全にかつ全体として迎え入れられ、そこに含まれていなければならない。
 では、どのように真実在は自らのうちに他を含んでいるのであろうか。言うまでもなく、自己と他とが相互に無関心なまま、無関係に並存しているような在り方ではない。先に引用した第一のテーゼが、現実を何らかの形で分割する二元的思考、それが二つの相互に還元しがたい二原理を立てるにせよ、異なった二要素の独立を措定するにせよ、そのような思考へと導くものではないことも明らかである。自己自身のうちに他を含んでいるものは、自らのうちに自己自身に根本的に対立するものを、その対立をいっさい相対化することなしに含んでいなければならない。しかし、それは葛藤に満ちた対立でも乗り越え不可能な二律背反でもない。ここで西田は、自己自身のうちに他を含むものは自己否定を自らのうちに含んでいると言うことによって、真実在の根源的な知に迫るための新たな契機として自己否定を導入する。この契機の導入によって西田が主張しようとしているのは、それ自身によって存在するものは、一なるままで、自らの内部において無限に自己を分割し、自己を差異化するものでなければならないということである。この意味で、真実在とは絶対矛盾的自己同一の現実そのものにほかならない。


1.3 自己自身の中に絶対の自己否定を包むもの

自己自身によって動くもの、即ち自ら働くものは、自己自身の中に絶対の自己否定を包むものでなければならない。

 この第二のテーゼは、西田が「絶対矛盾的自己同一」によって何を指し示そうとしているのかをより正確な仕方で理解することを可能にしてくれる。このテーゼは、真実在を自己同一的で自己に対する否定をいっさい排除する実体として考えることを私たちに禁じている。真実在は自己の自己による自己のための否定を含んでいる。したがって真実在は、自己同一的な実体として自己措定する考える自己によってその対象として知られるものでもなく、その考える自己自身として知られるものでもない。一度知の主体を実体化し、それをその対象と対立させてしまうと、〈自ら働くもの〉は致命的に歪められ、主客の構図の中に閉じ込められてしまう。ところが、真実在は、本質的に直接知によって捉えられなければならないものである。それゆえいっさいの実体的同一化を逃れるものを捉えなければならない。
 自己否定は、本質的にその自己否定の作用そのもの以外の何ものにも導かない作用である。絶対的自己否定は各瞬間において自己否定を全的に行うことであり、したがってその作用の外に何らか自己同一的な実体あるいはその残滓が取り残されるということはいっさいありえない。絶対的自己否定は、それとして実現されるために自らの外に目指すべきいかなる目的もない。それゆえ、既存の異なった二項の同一化を図るいっさいの過程的同一化作用を排除しつつ、自己否定の作用をまさにそれとして、いま、ここで、それ自らのうちで直接に捉えないかぎり、真実在の根源的な知は自らにおいて感得されえない。絶対的自己否定は、その各瞬間が自己否定作用として同一の十全の価値をもつ無限の自己差異化の過程として、全的な仕方でしか展開されえない。それゆえ、無限に自己否定し続けることそのことによって自らを現実化するもの、すなわち、実定的かつ構成的な過程を前提とし、その過程を経てようやく最終的な実現に至るような概念的同一化をいっさい逃れるものを探求しなければならない。上述のような根本的な自己否定によってのみ、そのような直接性が十全に自ら感得されうるのである。



















最新の画像もっと見る

コメントを投稿