内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第一章(十五)

2014-03-18 00:00:00 | 哲学

3.2.3 〈行為的直観〉

真に具体的な歴史的生命の世界は行為的直観の世界でなければならない。

 歴史的生命の世界を人間の諸行為の次元においてその具体的な諸相の下に捉えるということは、行為的直観がその世界の中で果たしている機能を捉えるということに他ならない。行為的直観は、その起動点である私たちの身体的自己とそれがそこにおいて働いている創造的世界と不可分である。

我々の身体的自己とは、かかる世界の自己限定として、形成せられると共に、又他を形成するものである、即ち働くことによって物を作るのである。而してそれは創造的世界が自己自身を形成することであり、そこに形が現れることである。而して創造的世界の自己限定として形が現れるということ、即ち世界が世界自身を形作るということは、我々が物を見ることである。物は形を有ったものである。

 行為的直観は、私たちの自己によって創造的世界において現実化される。行為的直観を現に働かせるものとして、私たちの自己身体は、創造的世界の現実的要素である。私たちの自己身体は、創造的世界によって与えられたある形がそれに対して現れるものであると同時に、その同じ創造的世界にある形を与えるものでもある。私たちの身体は、このようにこの世界における形の受容者であると同時に贈与者であり、この世界を限定するものでありかつこの世界に限定されるものである。形を与え与えられる私たちの身体がある形をもって世界の中で行為するというそのことが、この世界が自己自身に形を与える形の自己贈与を直接的具体的に現実に顕現させているのである。私たちが生きているこの世界にある形が現れ、私たちがその形をそこに見るという端的な事実そのものが、世界が自己自身に形を与えることによって私たちにおいて自らを見るということを意味している。

行為的直観の世界、我々が現実に生きて居る世界は、創造的世界でなければならない。そしてそれは内に絶対の無を含み、何処までも自己自身を形成し行く世界である。[・・・] 形において形が成立する世界である。

 歴史的生命の世界は、形が創造される行為的直観の世界であり、創造的世界である。この世界が絶対の無を含むとはどういうことか。絶対の無は、絶対の否定と言い換えることができる。創造的世界が無限に自らに新たな形を与えていくのは、世界が自己自身の実体的な同一性を否定し続けるかぎりにおいてである。私たちが現実に生きて居る世界が創造的世界であるのは、世界が無限に多様な形へと自らを限定し続けるかぎりにおいてであり、この意味で、世界は、自らのうちに絶対の否定を含んでいると言うことができる。

人間は歴史的生命の世界の創造的要素なるが故に、働くことが見ることであり、見ることが働くことである。我々は単に生れ、形造られるのみならず、形を見るのである。そこに我々が永遠に触れるという意義があるのである。人間のみロゴス的身体を有ち、個性的な形を形作ると云うことができる。

 ここで〈働く〉、〈見る〉とはどういう意味なのだろうか。人間は、歴史的生命の世界の創造的要素として行為することによって、自らに身体的なある動的な形を与えると同時に、自らが生きる環境の中に見える形を与える。このような自己身体を持つ人間にとって、〈働く〉とは、自らが生きる世界に見える形を与えるということである。私たちのすべて所作は、それが為されるまさにその場所にある形を与える。〈働く〉とは、世界を形作るであり、世界の形成作用を実現することである。私たちの身体は、〈見るもの―見えるもの〉であり、〈見る〉ことは、それ自身それ固有の見える形をもった私たちの身体がそこにおいて働く見える世界にある形を与えることである。
 もし私たちの身体が生物の世界の次元でしか行動しないとすれば、私たちは、ただ生まれ、形成されるだけである。この次元には、与えられた形の反復があるだけで、新しい形の創造はない。生物であるかぎり、それぞれの人間の身体は、他の身体と同様な一個体であり、一つの種に属する。しかし、歴史的生命の世界に生きるものとして、私たちは、生物の世界に属する形には還元できない形をそこに見ることができる。それは、もはや与えられた同じ形の単なる反復ではない。私たちの身体的自己は、生物の世界には存在しなかった新しい形を創造することができる。歴史的生命世界においてある形を見るということは、その世界がそれ固有の形を自らに与えるというその世界の恒常的な論理がそこに現実化されているということであり、その意味でその形をそれとして見る或いは作り出す私たちは、そこで永遠に触れているということができる。