内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

揺曳する哲学的精神の記録 ― メーヌ・ド・ビランの日記を読む(十)

2014-02-28 00:47:00 | 哲学

 ビランの「日記」は、ある一つの精神の自伝として読むことができる。
 このテーゼを今回のメーヌ・ド・ビランの日記を読む一連の記事の締め括りとして、掲げておきたい。今日の記事では、このテーゼがどのような意味で主張されているのかを明確にするために、私が「自伝」という言葉に与えたいと考えている定義を説明する。
 ビランの「日記」が自分の過去の事績についての回顧談ではないことは、すでに昨日までの記事で十分に明らかにされているであろう。過去が想起される場合も、それはただ想い出に浸るためではなく、過去と現在を比較するためである。他方、ビランの「日記」は、現在の自己がそこでの問題であるときも、その自己を対象化し、その精神状態を冷静に観察し記録するということに尽きるものでもない。自己を対象とする記述行為それ自体が現在の自己を形成しつつあるからだ。一般に、回顧談でも観察記録でも、対象化された自己と語り手としての自己との間に何らかの距離が想定されている。ところが、ビランの「日記」では、その距離の絶望的な取り難さこそが問題なのだ。
 「自伝」という日本語は、字面からして「自らを伝える」というのが基本義になるが、その基本義からは、まず〈自己〉があって、その既存の〈自己〉を事後的に〈伝える〉という意味に取られがちである。この場合、伝える以前にすでに伝えるべき自己が存在していることが、この意味での自伝の成立にとって不可欠な条件となる。それに〈伝える〉という行為は他者の存在を前提としている。ただ、その他者は現に実在している他者であるとは限らない。将来の世代に向かって自分の記録を残しておこうという意図からも自伝は書かれうるだろう。しかし、いずれにせよ、ビランの「日記」を精神の自伝として読むと私が言うとき、それは、これらの意味においてではないことは、前段落に述べたビランの「日記」の特徴から明らかであろう。
 ビランの「日記」について「自伝」という言葉を私が使うとき、それはフランス語の « autobiographie » の語源を念頭においてのことなのである。この言葉そのものの初出はフランス語においては一八三六年とロベールのフランス語歴史辞典 Dictionnaire historique de la langue française (Le Robert, 2011) にはあるが、英語・ドイツ語ではすでに前世紀に同意語の初出が確認できる。だが、この言葉の誕生とともに広い意味でのある一つの文学的ジャンルを指し示すことが初めて可能になったとしても、この言葉の誕生とそれによって指示される精神活動の誕生とが一致するわけではない。« Autobiographie » と形容しうる表現行為は、この言葉の誕生の遥か以前から行われてきたと考える立場を私は取る。こう言うとき、私は、Georges Gusdorf の浩瀚かつ洞察に富んだ記念碑的な思想史研究である二部作 Les écritures du moiAuto-bio-graphie(Odile Jacob, 1991. 両者は相俟って Lignes de vie と題された総合研究をなす)に拠っている。
 このフランス語は、auto-bio-graphieという三要素に分解できる。いずれもギリシア語起源であり、それぞれ « autos » « bios » « graphein » を語源とする。第一要素は「自分」「自分自身」「自分自身の」、第二要素は「生命(の様態)」「生き方」、第三要素は「書く」(という行為)をそれぞれ意味する(ちなみに、 « autonomie » は「自律」と訳されるが、やはりギリシア語の語源に遡って考えれば、 « autos » と « nomos » とに分解でき、後者は「法」「法律」「規則」という意味だから、「自律」とは「自らに自らが守るべき規則を与えることができること」と解することができる)。この意味での「自伝」とは、したがって、「自らの-生き方を-書き記す」ということである。だから、このフランス語(英語でもドイツ語でも同様)の和訳としては「自叙伝」の方がより適切なわけだが、前段落に示した理由でやはり「伝」は原意にそぐわないから、より原意に忠実な訳としては「自叙記」とでもすべきだろう。しかし、このような一般に馴染みの薄い言葉を使うことにも特に積極的な意味はなさそうである。そこで、上記のような語源的意味を踏まえていることを予め説明した上で、やはり「自伝」という一番簡素な言葉を使うことにしたのである。
 上記の定義に従えば、「自伝」は、三つの要素からなる。〈自己〉と〈生命〉と〈書記〉である。第一要素は、「自己自身によって」「自己を対象として」「自己自身に於いて」という三重の関係性を内包している。第二要素は、語源に忠実に考えると、生命体としての生命あるいは生物学的・生理学的対象としての生命ではなく、生き方・生きる様態として歴史の中にある社会において具体的に展開されていく持続として自覚された生命のことである。第三要素は、肉声による口頭表現に対する筆記用具を使った書記表現、つまり「声に出して語る」ことではなくて、「文字による記録が残るように書き記す」という行為を意味する。
 これら三要素は、それぞれ〈関係〉〈持続〉〈技術〉に関わる問題を胚胎している。第一の問題は、自己の自己に対する関係をどう捉えるかという認識論的問題、第二の問題は、生命を時間の中にある仕方で展開される持続として捉えることから発生する存在論的問題、第三の問題は、可視的文字記号によっていかに不可視の関係と持続を表現するかという方法論的問題である。
 ビランの「日記」を 上記のように定義された「自伝」の思想史という広やかで奥深いパースペクティヴの中で読み直そうとするとき、上に言及したジョルジュ・ギュスドルフの大著(本文だけで二部作合計九百頁)は最良のガイドの一つとなってくれる。実際、Les écritures du moi の第一四章 « Aveux complets » の中には、ビランの「日記」の性格についてのかなりまとまった記述が見られる。そこでは、ヴァレリーとアミエルが引き合いに出され、前者との対比と後者との親和性及び差異とを際立たせることで、ビランの日記の固有性と「自伝」としての真正性を、適切な引用と確証されている歴史的な事実を論拠に見事に論証している。ヴァレリーは、ビランの「日記」を、自らの思想を実行に移せない非生産的で病的な自己の症例のようなものと見なし、まったくその価値を認めていない。しかし、ギュスドルフは、ビランの政治家としての活発で誠実な活動に関してヴァレリーがまったく無知で、ビランの実存的苦悩の深みをまったく見損なっていると厳しく批判している。アミエルは、その膨大な『日記』の中でビランの煩悶に対して親和性を感じ理解を示しているが、やはり批判的な言及も見られる。ところが、ギュスドルフによれば、その批判は、ビランによりもアミエル自身によりよく当てはまるのではないかと鋭く指摘するのである。
 明日と明後日の記事では、この創見に満ちたギュスドルフの二部作をもう少し詳しく紹介し、「自伝」の思想史という途方もなく広大で肥沃な研究領野に一瞥を与える。












揺曳する哲学的精神の記録 ― メーヌ・ド・ビランの日記を読む(九)

2014-02-27 00:00:00 | 哲学

 一つの〈作品〉については、そのジャンルを問わず、その完成ということを一応語ることができる。したがって、その事実的な未完成ということも語りうる。もちろんこの問題はそう簡単に片付けられないことは、例えば、宮沢賢治の作品群を考えてみればわかる。複数遺された草稿のうちのいずれを決定稿として採用するかは専門家にとっても難しい問題であるし、何度も書き直されていくその過程そのものを創作活動の全体と考えれば、一つの作品について複数存在するヴァージョンのすべてが動的で開かれた作品形態だという見方も成り立つからである。そのような問題は常に付き纏うことは認めた上で、それを脇に置けば、一つの作品についてそれを完成したものとして扱うことは、少なくとも方法論上は許されるだろう。
 しかし、〈日記〉については、完成ということはその本性上ありえない。それは書き手の意志によってあるとき中断あるいは抛棄されるということはありうるが、それはその完成ではないのはもちろんのこと、意志された未完成ということでもない。書き手の死によって結果としてある日記に終止符が打たれたとき、それは、開かれたままの頁の上に置かれた一本の筆記用具とともに、書き手を失いもはや文字が綴られることもなく残された白紙の頁を想起させる。〈日記〉は、その本性上、完結しない書記行為なのである。
 ビランの専門家たちは、いくつかの完成度の高い論文・原稿・草稿から、これこそが「ビランの哲学」つまり「ビラニスム」だと呼べる思考のシステムを抽出しようと試みる。その作業の中では、類似した表現が比較検討され、いずれが最も完成された表現か、あるいはそれらが相補的な関係にあるかどうか等が問われる。単なる繰り返しは重視されない。思想の生成・変化を跡づけるためにはテキストの書かれた日付も重要になってくるが、そのような情報価値を持っていなければ、あるテキストがいつどこでどのような状況の中で書かれたかは副次的な問題に留まる。ビランのテーゼを哲学的命題として批判的に検討するためには、このような学問的手続きも必要であろう。
 しかし、それとは別の一つの読み方がありうるだろうと私は考える。それは、ビランの哲学的実践は日々の書記行為そのものであると考え、〈日記〉を哲学の一つの実践形そのものと見なす読み方である。このように見れば、同様な表現の繰り返しは、既得の知見の反復などではなく、その都度の新たな実践の軌跡として読まれなければならなくなる。より端的に言えば、繰り返しそのものが哲学的実践なのだ。もしビランの哲学がこのような意味での〈日記〉を基本的な表現形式としていたとすれば、その根本動機からして、ビランの哲学は、最初から完成あるいは成就を禁じられていたと言わなくてはならない。政治家として多忙で、健康に恵まれず、しかも当時としても早逝である五八歳で亡くなったから、惜しくも未完に終わったのではない。つまり、もっと時間があったならば完成できたであろうという事実的な未完成ではなく、それが実践され続けるかぎり完成はありえないという意味で、定義上未完成でしかありえない実践だったということである。
 ビランの哲学におけるこの本質的未完成性は、しかし、事実的不完全性とは違う。毎日書くという仕方で実践された省察においてその日その日が一つのまとまりとして回復される。そのまま経過するにまかせるだけならばただバラバラな断片に解体するほかない一日をひとつのまとまりとして取り戻すこと。日々記述し続けることによって自己の精神の分散・解体の危機に抗し、人格的同一性を未完の開かれた動態として書記行為を通じて形成し続けること。ビランの「日記」は、そのような自己の精神形成の持続する意志の顕現として読まれるとき、二世紀前のフランスの哲学者の古びた内省の記録であることをやめ、〈今〉〈ここ〉での生きた哲学的思索の現場として私たちの前に甦る。













揺曳する哲学的精神の記録 ― メーヌ・ド・ビランの日記を読む(八)

2014-02-26 00:00:00 | 哲学

 昨日の記事の最後に引用した一八一五年六月一二日の日記の一節に続けて、ビランは、自分の精神に欠けている「ある道徳的感情」について以下のように記す。

自分自身の裡に感じる種々の変化と空虚が、それらが私とともにあるものでありながら、私にある恒常的な形を持つことを妨げている。これらの変化と空虚とは、ある道徳的感情の不在に由来する。この道徳的感情がいわば「錨」のような役割を果たし、知的・感覚的装置を安定させる。この装置は、あちこちで無数の些細な印象によって、とりわけ、変化して止まず際立って動きやすい自らの内的状態によって引きずり回されている。ある道徳的感情がこの知的・感情的装置に欠けている安定性と一貫性をそれに与えることができる。様々な「堅固な」観念を規定し、それらをもたらすことができる「堅固な」感情は、唯一つしかない。以上が私自身の経験によって私にはっきりと証明されたことである。

 この一節に続けて、そのような「錨」としての役割を果たしうる感情の例が多数挙げられているのだが、それらは必ずしもいわゆる「良き」道徳的感情とは限らない。野心や強欲や虚栄心でさえ、それが一つの堅固な感情であれば、それ自体は不安定な知的・感情的装置に重心を与え、安定性をもたらす例として挙げられているのである。なぜだろうか。私は次のように推測する。おそらく、ビランが身近に接する機会を持った政治家たちの中にそれらの例に該当する人物がいて、それらの人物を念頭に置きながら、このような例も挙げたのであろう。しかし、他方では、神によって与えられた諸能力を最大限に生かして神に嘉される者となろうという高貴な感情、同朋たちへのいかなる見返りも求めない無償の奉仕という崇高な感情も例として挙げられている。そして、知性と感情に安定性を与える感情の最後の例として、自己充足感を挙げる。これは、ビランによれば、自らに与えられた諸能力にできるだけ良い方向づけを与えることによって、そして自らの良心のみを判断者とし「自分のために」良いようにすることによって生れる内的充足感のことである。
 ビランは、この内的充足感が自分の唯一の行動原則だと言う。仕事にとりかかるため、不活性状態に陥らないようにするためには、それだけで充分だと言う。ところが、そう言っておきながら、次のように続ける。

しかし、それ[=自己充足感]は、知的・道徳的システムのある一点に私を充分に固定してくれない。それは、ある目的のために様々な行為や考えを収斂させてくれない。それは、私の道徳的存在の裡に、生を一つにし、その諸部分においてよく結び合わされたものとする連続性を確立してくれない。その日その日の終わりに自分自身に満足できさえすれば、それで私には充分なのだ。ところが、翌日の一連の考えや行動が前日の考えや行動と結びつかない。それは、ただ一つの理由、私の裡に堅固な感情がないという理由、私の視野を遠くにまで及ばせ、時間と空間において離れたところにある目的を検討するよう自分を決心させる堅固な感情がないという理由に因るのである。

 ビランは、このような状態から発生する自分の「軽薄さ」、不安定さを責める。仕事の最中でさえ、心ここにあらずとなってしまう自分を責める。当然そのような仕事に堅固な一貫性などありえない。それに加えて、研究諸対象の不確かさ。同じ一日の中でさえ、それら対象間であちこちと注意が分散してしまい、それらのどれ一つとして「深い印象」を生じさせることはない。
 誰でも多かれ少なかれ似たような精神状態に陥ることはあるだろうと言うこともできる。しかし、ビランは、自己のそのような精神状態を医学者のように注意深く観察する。自分の弱さをごまかすことなく、つぶさに、繰り返し記述し続ける。ビランの「日記」を読むことは、自己の精神の揺らめきから片時も目を離すことができない繊細極まりない一つの精神に訪れた実存的危機に立ち会い、その精神の苦悩の告白に耳を傾けることでもあるのだ。まさにパスカルが言う意味での「呻きつつ求める人」であるビランが自らに問う問いに対して、私は無関心ではありえない。













揺曳する哲学的精神の記録 ― メーヌ・ド・ビランの日記を読む(七)

2014-02-25 00:19:00 | 哲学

 ビランは、フランス革命がもたらした諸々の悪習が、フランス社会のすべての構成要素をほとんどすべてバラバラに分断してしまい、一つの有機的な全体であったものを数量的に取り扱われうる相互に無関係・無関心な個体の集合にまで解体してしまったことを一八二〇年六月二〇日にフランス下院に提出された「選挙法案についての意見書」の中で述べている。関連する別の文書の中では、全国民に選挙権を与える普通選挙法に反対しているだけでなく、選挙権を得るために必要な納税額を引き下げることにさえ反対している。その哲学的主張においては〈私〉に全面的にその権能を認めておきながら、政治的主張においては、社会を構成する個々の国民の〈私〉に等しく信を置いていないのである。「普通選挙は投票数だけを数え、それぞれの票の重みを量らない」と言う。そして、一八一七年九月二九日の日記には、「平等は今世紀の狂気である。この狂気が社会を破壊するまでに脅かすに至るだろう」とまで書きつけている。
 ビランは自分の人間学のテーゼと政治的立場との矛盾を自覚している。しかし、真の自己である「深い自己」と社会化された自己である「表面的な自己」とをベルクソンのように対立させることはなく、自分の人間学を不十分であまりにも狭隘であると見なしている。自分がそれまでに書いてきた諸論文が開いたパースペクティヴは、政治的諸権利のシステムを基礎づけることはできるが、義務の方はできないと認めた上で、次のように日記に記す。

ド・メットル氏の『政治的社会の生成と保持の原理試論』を読みながら、次のようなことを感じた。私のこれまでの研究は、あまりにも自分の思考を社会から切り離してしまっていた。私の心理学的観点は、人間をまったく孤独な存在にしてしまう傾向があった。魂をそれ自身との抽象化された唯一の関係の下に考察することによって、魂の内に動力しか見ないことに慣れてしまい、魂を一切の社会的感情、内密で深い一切の感情から切り離してしまった。ところが、これらの感情の中にこそ、私たちの道徳性とともに、私たちが人間として享受しうる幸福あるいは甘受しうる不幸があるのだ。人間は、思考の内的生の外に、関係と良心の生をなお持っている。(一八一五年六月一二日)

 このように記した上で、ビランは、自分がこれまで従ってきた哲学的原則からどのようにして道徳的義務、あるいはもっと一般的な意味での「義務」を導き出すのかと自問する。まさにこの問題において、自分のこれまでの哲学的思考のシステムの中にもう一つ別の能力のシステム、魂のもう一つ別の観点を導入しなければならないとビランは考えるのである。
 各個人は自分がそこで同胞たちと共に生きる社会に対して働きかけ、その社会は全体としてその各個人に作用を及ぼす。一方では、自由で自発的な行動のもたらす感情から、私たちが「権利」と呼ぶものが生まれて来る。そのような行動はそれ自身の限界を知らず、そのことによって自らを正当化するからである。他方では、必然的な社会側の反応から、諸々の「義務」が生まれて来る。個人の行動に付いて回るその社会側からの反応が、個人の行動に物理的な反応のようには正確には対応せず、個人に従属を強制するからである。義務の感情は、このような社会的強制力から生まれてくる感情で、各個人はこの強制力から自らを解放することはできないと実感する。
 以上がビランの権利と義務についての考えの骨子だが、これだけでは道徳的義務を基礎づけることはできない。権利と義務の関係がまったく考察対象になりえていないからである。もちろん、ビラン自身それはよくわかっている。しかし、自らの哲学の抜きがたい内省的傾向からなかなか自由になれない。上に引用した日記の一節の少し後にこう記している。

抽象的な省察の不都合な点は、道徳的感情にそれに可能な発展を与えることができず、魂が自らの外に、魂の能力の少なからぬ部分が差し向けられている人間社会の中に見出すことを必要としている支点を魂から取り上げてしまうことである。











揺曳する哲学的精神の記録 ― メーヌ・ド・ビランの日記を読む(六)

2014-02-24 00:55:00 | 哲学

 ビランは、哲学者としてよりもむしろ政治家として同時代人たちには知られていた。穏健な共和派と頑固一徹な王党派との中間の政治的立場に立つ中道右派を代表する政治家の一人であり、「中道右派こそフランスの真の世論を表している」という確信には生涯揺るぎがなかった。政治家としてのビランは、旧体制の盲目と革命の過ちとを同時に避けようと政治的努力を重ね、王政復古こそが国家統一の唯一の保障であると考えていた。
 このような政治的立場とビランの哲学とはどのような関係にあるのだろうか。これはビラン研究にとっての大きなテーマの一つであり、簡単に結論を出すことはできないばかりでなく、ビラン研究における一問題という枠を超えて、「政治と哲学」「政治と個人」「政治的主体と思考の主体の二重性」「社会の統治と自己の統治」「公共的生と個人の自由」などのより大きな問題領域へと繋がっていく。
 ビランは、自分の政治権力理論を、自ら固有の哲学的テーゼ、つまり内的人間存在の哲学のテーゼと照応するように構築しようとしたのだという仮説をアンリ・グイエは立てている。確かに、政治において至高の権威を求めることと個人の精神的生において自己の外にその支えを索めることとの間には相似性を見て取ることができる。しかし、至高の外部から来る媒介者の力の必要性を訴える政治理論と真理の基準として自己の経験しか認めないという哲学的テーゼとの間には、容易には解消できない理論的対立があることも認めないわけにはいかない。
 内面世界ではその唯一無二の支配者として判断し決断するこの〈私〉が公的領域において同じような権威性を自らの権利として請求することは、ビランにとって耐え難く許しがたいことであった。内的人間は意志と権能そのものであるのに対して、外的人間は権威への従属と他者への敬意をその基本的徳目とする。このような内的人間と外的人間との亀裂さらには分裂にこそ、ビラン哲学の深刻な問題の一つがあると言えるだろう。
 一八一二年以降、ビランはまさにこの問題ゆえに精神的危機を迎える。一八一四年から死の年の一八二四年までの最後の十年間継続的に書かれた「日記」はこの問題との悪戦苦闘の記録としても読むことができる。その中でビランが探し求めていたのは、グイエの仮説が示す方向とはむしろ逆、つまり内的人間の哲学をいかに公的権力理論の上に基礎づけ直すかという問いへの答えであったと私は考える。この「日記」が書かれはじめて間もない一八一四年四月三〇日の日付を持つ記事の中にビランはこう記している。

哲学者たちは人間全体を個体性に還元してしまった。革命家たちとて同様で、彼らは個人の諸々の必要とそれに関連する私的権利のことしか考えなかった。彼らは皆「公的権利」の真の源泉と、従属と服従なしには存続し得ない社会の現実の必要とを見損なったのだ。フランス革命後の時代、真の国家がもはや存在しないのはまさにそれゆえなのだ。

 ビランの政治思想の限界を指摘することは難しいことではないかもしれない。しかし、安易な非難を控えつつ、ビランの苦悩の跡を日記の中に辿りながら、その問題とするところを理解しようと努め、そこから私たち自身の問題として個人と社会の関係を根本的に考え直していくことこそ、私たちに与えられた課題だと私は考える。
 最後に、予告として一言加えておくと(つまり自分に次の課題として課すために今から言っておくと)、この問題をさらに広く深く考えていく上で私がビランの次に取り上げるつもりでいるのは、ビランの次世代つまりフランス革命後に生まれた世代に属するフランスの歴史思想家であり政治家であり、一八三〇年代のアメリカ社会の鋭い観察とそれに基づいた深い洞察から民主主義の根本問題を鮮やかに剔抉したアレクシ・ド・トクヴィル(1805-1859)である。












揺曳する哲学的精神の記録 ― メーヌ・ド・ビランの日記を読む(五)

2014-02-23 02:57:00 | 哲学

 アンリ・グイエは、そのビラン研究『メーヌ・ド・ビランの回心』(Vrin, 1947)の中で、「ビランはたった一冊の本の人であり、そしてその本をけっして書かなかった」と言う(六頁)。この一言は、確かに、ビランのテキストの特異性をある一面からよく捉えている。グイエによれば、ほとんどすべての草稿はある一つの作品へと関係づけられており、その作品は、何度かビランによって異なった名前を与えられるが、その目的と方法、さらにはその内容によって、常に「同一の作品」だった。そしてそれはついに完成されることはなかった。
 ビランの膨大なテキスト群は、自己の存在に関する哲学的問いかけが片時もビランに思考の休息を与えなかったし、それに対する自分のその都度の思索がビランに精神的満足を与えることもなかったことを示している。ビランは書き続ける。何度でも同じ問題に立ち返り、書いては消し、別の表現を求めて呻吟することを生涯続けた。問題の困難を前に躊躇い、〈私〉の内なる声を捉えきれない言語の無力感に苛まれることもしばしばである。自分の考えについていよいよ最終的な形を与えようとするとき、内なるものを外へ表現しようとするとき、恐怖感に捕われ、思考が中断し、それが思想を形成する要素間の連鎖を損なってしまう。一八一九年六月の日記には次のようにその苦悩が吐露されている。ビランが五三歳になる年のことで、その前年には、長年の政治家としての功績を称えるレジオン・ドヌール三等勲章を受勲している。

私は自分から出てくるものに何の信頼もできない。けっしてそれに満足することがない。自分の考えを捉えようとしてその後を追いかけては、その考えをそれには値しないような別のものに置き換えてしまう…。これは本当に苦しいことで、文学的、哲学的あるいは政治的なほんの小さなテキストでもそれを書こうとすると、なんともいえない不安に襲われてしまう。

 この生涯付き纏った苦悩ゆえに、ビランは、フランス学士院あるはベルリンの学士院によって表彰された懸賞応募論文さえ、出版援助金まで提供されたのに、もっと改善してからという理由で、結局出版せずに終わってしまう。
 十三巻(二十冊)からなる『ビラン全集』と『日記』は、ビランの哲学的思索とそれに伴う苦悩の実録と証言であり、西田幾多郎の『自覚における直観と反省』「序」の言葉を借りれば、それはまさに「悪戦苦闘のドキュメント」だったと言うこともできるだろう。ビランの哲学者としての偉大さを語るとすれば、このような哲学的苦悩を最後まで生き抜いたことだと私は思う。












揺曳する哲学的精神の記録 ― メーヌ・ド・ビランの日記を読む(四)

2014-02-22 00:00:00 | 哲学

 死の前年に手帳に書き留められた断片の一つに、ビランがなぜ「日記」をこの十年間つけ続けてきたのか、その理由を見出すことができる。

 もしこの日記が公開されるとしたら、哲学者たちのために書いたわけではないから、彼らには軽すぎると見え、面白おかしい話を期待している人たちには、たいした出来事も出てこなくて退屈極まりないと見えることを恐れることだろう。
 しかし、私は主にこれを自分のために書いているのであって、それは自分に精神的な仕事の類を与えるためであり、今私が打ち込める唯一の仕事がこれなのである。そして、この日記は、三、四人の友人たちのため、言い換えれば、私の魂の底にあること、私の人生でもっとも落ち着かなかったこの最近十年間に自分の内外で起こったすべてのことを打ち明ける必要がある数人の人たちのためでもある。何かより真剣なことがらを企てる前に、この十年から離れ、休息する必要が今の私にはある。

 このような目的を持った日記を書き続けるという習慣を維持すること自体がビランにとって一つの持続する倫理的姿勢だったのである。そして、いろいろあったこの十年にここで区切りをつけ、一息入れ、「何かより真剣な企て」へと体勢を調えようとしているのがこの断片からわかる。しかし、その「企て」のためにビランに残されていた時間はその後一年もなかったのである。











揺曳する哲学的精神の記録 ― メーヌ・ド・ビランの日記を読む(三)

2014-02-21 00:00:00 | 哲学

 ビランの哲学的探究のいわば通奏低音をなしているのは、自己の存在を前にしての、より正確に言えば、疑うことのできない内的実感として与えられている自己の存在の事実への驚嘆の念である。死の九ヶ月前の日記にビランはこう記している。

子供の頃からもう、私は自分が存在していると感じることに驚いていたこと、どうして自分は生きることができ、自分であることができるのかを知るために、自分をその内面において見つめるように本能によってであるかのように導かれていたことををよく覚えている(一八二三年七月二七日)。

 ビランの哲学は、子供の頃に痛切に感じられた自己存在における〈在ること〉そのことへの原初的な驚嘆に始まり、生涯を通じて様々な出来事に遭遇しながらその驚嘆を何度も新鮮に感じ直すことでその自己存在についての問いを深化させ、最終的には、純化された静謐な精神的生を希求しつつ、ついにその驚嘆のうちに終った。まさにそうであるからこそ、ビランの日記は、それを読むものをその驚嘆へと絶えず連れ戻す。











揺曳する哲学的精神の記録 ― メーヌ・ド・ビランの日記を読む(二)

2014-02-20 02:34:00 | 哲学

 今、私の目の前には、ビランの『日記』(全三巻)が置かれている。この版は、アンリ・グイエの注意深く用意周到な編纂になるもので、一九五〇年代半ばにスイスの出版社から刊行された。簡素なデザインの薄緑の表紙も本体の紙質も、当時の出版事情を反映してなのか、けっして上質とは言えないし、出版から半世紀以上経っているので経年劣化もかなり進行しており、頁をめくる時に少しでも手荒くするとすぐに破れてしまう。さらに長期間の繙読に耐えるようにと、数年前に表紙には図書館で使われているような透明なビニールカヴァーを自分でかけた。この版が未だにビランの日記については最も信頼の置ける刊本で、パリの哲学専門出版社 Vrin から一九八四年から二〇〇一年にかけて出版されたビラン全集にも日記は収録されていない。しかし、この三巻本出版後に発見された新資料もあるであろうから、それらも含めた新しい校訂版の出版が望まれるところである。
 このビランの『日記』は、私にとってまさに「座右の書」の一つで、今この記事を書いている仕事机から後ろを振り向いて手を伸ばせば、椅子から立ち上がらなくても取れる場所にいつも並べてある。その脇には、Seuil 社版エックハルト説教集・論述集仏訳四冊が並んでおり、これらもまた私の「座右の書」である。その一段下の座ったままでもっと取り出しやすい棚には、新版『西田幾多郎全集』が並んでいる。時々これらの本棚の並べ替えをそのときの研究上の必要に応じて行うが、これらの本だけはいつも同じ位置に置かれており、私の本棚のいわば「不動のレギュラー・メンバー」である。
 数年前、エックハルト説教集・論述集とビランの『日記』を並行して毎日読む読書計画を立て、エックハルトの方は数カ月後には読了したのだが、ビランの方は最晩年の二年間の分を残して、中断してしまい、そのままになっていた。そういうこともあって、このブログの記事を書き続けることを一つの基本動機として、その読書計画を再開させようと思い立った次第である。
 しかし今週は土曜日まで大学の仕事が山積していて、とてもビランの『日記』を落ち着いた気持ちで読む時間的・心理的余裕がない。大学の仕事などすべて放り出して、ビランの世界に沈潜したいところだが、悲しいかな、宮仕えの身、そうもいかない。そこで今日から土曜日までは、ごく簡単な紹介記事にとどまってしまうであろう。今日の記事は、ビランの日記の中でもよく知られた一文を引いて、それに一言加えて締め括りとしたい。その文が見いだされるのは、ビランが四ヶ月後に五〇歳の誕生日を迎える一八一六年七月二三日の日付を持つ記事の末尾である。この記事のテーマである魂の内奥に潜むまだそれとして発見されていない領野について、ビランは次のように記事を閉じる。
 集中した反省がなしうるすべてのことを誰が知ろう、ある日だれか「形而上学者コロンブス」のような人によって発見されうるであろう内なる新世界がないかどうか、誰が知ろう。
 ビランは、自らの身体において直接的に覚知される、いかなる身体器官にもその機能にも還元され得ない原初的な意志を基点として、この「内なる新世界」を索めての終わりのない航海に船出したのである。ビランの『日記』は、そのような果てしなき哲学的探究の航海日誌として読むことができるだろう。












揺曳する哲学的精神の記録 ― メーヌ・ド・ビランの日記を読む(一)

2014-02-19 01:45:00 | 哲学

 哲学者がつける日記にもいろいろ種類があるが、その日記それ自体が自らの哲学を表現する重要な媒体だった哲学者たちがいる。そのようなフランスの哲学者たちの中で筆頭格なのがメーヌ・ド・ビラン(1766-1824)だと私は思う。
 生没年を見ればわかるように、フランス革命前後が青年期にあたり、フランス近代史の中でもとりわけ激動の時代を生きた哲学者であった。しかし、ビランはまた政治家でもあり、地方議会から中央政界にまで進出し、壮年期にはパリと出身地ベルジュラックとを行き来するような生活を送っている。革命前は一七八五年十九歳の時からルイ十六世の親衛兵、一七八九年の革命時はヴェルサイユ宮殿の防衛にあたり、奇跡的に死を逃れたと言われている。革命後一七九七年には五百人会議議員に選出され、帝政行政機関に属し、ナポレオンに対立する立場に立つ。ルイ十八世の下では、帝国議会財務担当を務める。地元の地方議会でも次々に要職を兼任している。
 他方、ビランの哲学は、「内感の哲学」あるいは「内面性の哲学」として紹介されることが多い。しかし、そのような哲学にのみ重点を置いた見方をすると、上記のようなビランの政治家としての経歴、それにともなって不可避的に発生した社交界での知名の人士たちとの交流がすっかり影に隠れてしまい、自分の内面世界をひたすら省察し続ける静謐な生活を送っていた書斎の哲学者であったかような誤った印象が生れてしまいかねない。確かに、ビランの日記には、議会での発言を嫌い、社交界での付き合いにうんざりしているような記述がしばしば見られるが、だからといって思索に明け暮れる田舎での隠棲生活だけに自足できるほど安定した精神の持ち主ではなかった。毎晩のように人を訪ね或は人を招き会食しているパリでは故郷での哲学的思索への沈潜を願う一方、生地の私邸にあっては自然の中での散策と静かな書斎での思索を楽しむ日々の中でパリでの社交生活を懐かしく思い出している自分に気づかずにはいられないビランの姿が日記から立ち上があってくる。健康には恵まれず、内臓疾患をかかえ、気候の変化には体が敏感に反応してしまう。日記には天候の記述が頻繁に出てくるが、それに応じて変化するビランの気分もあわせて書き留められていることが多い。両者は相俟ってあたかも「空模様即心模様」とでも形容できるような交錯した記述を形成している。
 政治と哲学、パリと地方、公生涯と私生活、社交と孤独、健康と病、議論と内省、気分の高揚と思索への沈潜など、様々なニ項間で揺れ動いてやまない精神の揺らめきの日々の記録がビランの日記だと言うこともできるだろう。このように様々なレベル・次元で対立するものの間に生きながら精神的生の平安の希求へと向かっていくビランは、絶えず「書く人」であった。ビラン固有の哲学研究として生前公刊されたのは、フランス学士院の課題懸賞論文に応募して「特別賞」を受賞した論文「習慣の思考能力への影響」(一八〇二年)だけで、他に公刊された小著・論文は他者の説の紹介に過ぎないが、他方で数千頁に上る様々な書き物が死後に残された。書簡、読書記録、手帳への覚書、講演草稿・原稿、ヨーロッパ諸国のアカデミーの懸賞受賞論文のオリジナルあるいはコピー、未完の著書の断片、そして青年期から最晩年まで断続的に書き続けられた日記(これは広い意味での日記で、その中には手帳・ルーズリーフ等に記された哲学的断片や心情の吐露がすべて含まれる。それに対して、ビラン自身が「日記」と呼ぶのは、一八一四年二月から死の二ヶ月前の一八二四年五月までの晩年十年余りの間に継続的に書かれた計四冊のノートのことである)。
 この日記には、自分の健康の脆弱さ、気分の移ろいやすさ、政治家としての公生活における軋轢等について延々と愚痴っぽい記述が続いたかと思うと、あたかも空を暗く覆う雲間から閃く稲妻ように、ある哲学的問題の核心にいきなり切り込んでいくような記述が突然現れるから油断がならない。哲学研究の分野では、そのような記述がビランの哲学的テーゼの例証として引用されることが多い。しかし、デカルト、マルブランシュに象徴される天才の世紀一七世紀後のフランスが生んだ最も偉大な形而上学者とベルクソンによって讃えられたこの精神の運動全体を把握するには、それら哲学的思索の前後の雑事・社交生活・家庭生活の記録、心の不安定・健康不安・実存的苦悩等を吐露する記述もやはり等閑視するわけにはいかないだろう。
 明日の記事から、何回になるかわからないが、揺曳してやまないビランの心の動きを日記の中で追いかけながら、ビランにおける日々の哲学的実践の姿を浮かび上がらせてみたい。