内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第一章(十六)

2014-03-19 00:00:00 | 哲学

3.2.4 〈表現〉

歴史的世界の作業的要素として我々の身体がロゴス的であるということは、同時に対象的なるものが何処までも表現的であるということである。かかる世界が歴史的生命の世界として自己自身を形成することが、我々が見るということである。

 私たちの行為的身体は、歴史的生命の論理を体現するロゴス的身体として、自らが生きる世界に論理的な形を与える。世界に現れる諸事物はこのロゴス的身体との関係において限定される。この世界において与えられた諸対象が表現的であるというのは、私たちのロゴス的身体によってそれらが相互に限定された形においてある関係を形成しているということである。私たちのロゴス的身体もまたその関係を構成する要素としてその中で行為し、その関係がそれとして現れるのはそのロゴス的身体に対してである。この関係がそれとして現れるのが「見る」ということである。

我々が創造的となる時、[・・・]物は我々の生命の表現でなければならない、即ち歴史的生命の表現でなければならない。[・・・] 物は歴史的世界に於ての物として、生命の表現となる時、我々は物に於て自己を見、物を自己と考える、我と物と一と考える。

世界は歴史的生命の自己表現であり、我々の身体的自己はその要素である。生命に於ては、要素は何処までも自己自身を限定するものでなければならない、独立的でなければならない。

 歴史的生命の世界では、その諸要素がそれぞれ固有の形を自らに与える。私たちの身体がそこで創造的な要素でありうるのは、それが自らに固有の形を与えることによって自らを表現するかぎりにおいてである。そのような私たちの身体に対して現れる諸事物は、ある限定された形において現れることそのことによって、歴史的生命を私の身体に対してある関係の相の下に現れさせる。そのとき、私たちは、その現れたものと共に、歴史的生命の自己形成作用に直接与っているのである。