昨日の学部三年生対象の近世文学史が今年度最後の講義だった。
はじめに、先週読む時間がなかった新井白石『折たく柴の記』の一節を読んだ。白石九歳の秋から冬にかけての学業修行の思い出を語った箇所である。父から課された書写の宿題(昼、行・草三千字、夜 、一千字!)がなかなか終わらず、夜になって耐え難い眠気を催すことがあり、そんなときは裸になって冷水を頭からかぶって眠気を覚まし、また衣服を身にまとって勉強を続け、それでもまた眠気が襲ってくると、また冷水をかぶり、最後までやり終えたという思い出話である(それにひきかえ、君たちはどれほどの覚悟で勉強してんだって、喉元まで出かかったが、あやうく自制した)。
今年に入って白石を主人公とした藤沢周平の『市塵』を読んだことも手伝って、白石の偉さ凄さに少し感じ入っていて、去年の講義ではさらっと教科書の記述をなぞって通り過ぎただけの白石の節に今回は少し時間を掛けたというわけである。主観的・希望的感想だが、学生たちもよく聴いていた、と思う。
そして、古学。これが今年度最後のテーマ。実は来週の試験に出る(まさかこの記事見てないよな、学生たち。まあ、ばれてたっていいけど、そう簡単じゃないから)。
素振りでわかるのだが、できる学生たちは、例えば、私が開口一番、「これは今学期最後の最も重要なテーマです」とか言えば、それだけでピンとくるわけである。彼ら彼女らはすぐにニヤッとするから、こちらも彼らが私の意図を理解したことがそれでわかる。
まず、伊藤仁斎の古義学から。私の若い頃、つまり遠い昔、仁斎ファンだった。生涯市井の町人学者。そこに弟子たちが押し寄せる。大名まで教えを請いに来る。一生仕官せず。生活、赤貧洗うが如し。先生、それでも最後まで志操を貫く。真に「豪傑」である。今の言葉でいえば、徹底したポジティブ・シンキング。かっこイイ。日本古典文学専攻時代に(って、いつのことよ、それ?)、『童子問』を近世文学史のレポートの課題に選び、エラい意気込みで原稿用紙三十枚の大作を提出した。が、成績は「B」であった(トホホ...)。
そして、昨日の講義の主役、真打ち荻生徂徠の登場である。一週間掛けて準備した講義である。もう、昨日までの三日間の記事で取り上げた吉川幸次郎「徂徠学案」が乗り移っている。これが徂来の古文辞学だっ、目に入らぬか(って、それ、水戸黄門でしょうが)、というような勢いでまくし立てた。明らかに学生たちは引いている。ままよ、と、最後まで突っ走った。結果? さあ、どうですかね。来週の試験の結果を見て判断すべし。
講義の後、この夏、東京のある大学の研修に参加する学生たちと打ち合わせ。参加学生たちのほとんどは優秀な学生たちだから、追試の必要はなく、今週の試験で今年度は実質終了。皆すぐに実家に戻る。だから金曜日に打ち合わせを済ませておく必要があった。
企画者の私としては、短期の研修だし、まあ楽しんでくればいいんじゃない、くらいのスタンスだった。ところが、学生たちの方がすごく真剣なんである。向こうでする日本語での発表のやり方について自分たちですでにいろいろ話し合っているみたいで、あれこれ質問してくる。それに対して、私の方からは、基本的に、「それ、いいじゃない。イケてると思うよ。とにかく自分たちがやりたいようにやってごらん。先方との調整は私が引き受けるから」という調子で、煽っておく。
これでいいのだ(あれっ、どっかで聞いたことがあるような...)。とにかく、ほとんど全員、日本に行くのは初めて。中には飛行機に乗るのが初めてなんて子もいる。話していて、彼女たち(一名の日本滞在経験者の男子学生を除くと全員女子なので)が今からワクワクしているのが伝わってくる。研修の後、みんな一月ほど日本に滞在する。もう今からあれもこれもと計画している。感覚を全方位に開いて、思いっきり楽しんでおいで。
彼らたちの滞在の後半は、私も東京での集中講義がある。「どっかで一度、皆で集まろうか」って、私から振ると、「先生、飲み会でもしましょうよ」って、男子学生から日本語で提案があった。
Pourquoi pas ?
「含蓄」は、古代の文章である「古文辞」の属性であるばかりではない。徂来の「訳文筌蹄」の「題言」には、「含蓄」は、古代の事実一般の属性であるとする思考が含まれている。
つまり古代の事実は、人間の事実の原形であり、後代の諸事実は、原形である古代の事実の中に含蓄されていたものの変化であり分裂であるにすぎない。いいかえれば、後代の諸事実は、新しいように見えるものも、古代の事実を研究すれば、みなその中に未分裂のものとして含蓄されているとするのである(六八一頁)。
「学問の方法は、まず古代の事実を抑えてこそ、後代の事実がわかるのであり、文章の勉強もまた、「古文辞」からはじめねばならぬ。たとい含蓄のゆえに読みにくくとも、むしろ読みにくいゆえに、そこからはじめねばならぬ」(六八二頁)というのが「古文辞学」の要諦であるが、「古文辞学」は、単に古代の文章を対象とし、その含蓄を読み解くことを最終目的とするのではなく、テキストに対するその方法的態度を現実の事象一般に適用する世界認識の方法論にまで発展・展開されていく。
この方法論を採用するとき、学者の任務とは何か。「古今という時間、天地人という空間、その差異を超えて、パイプを通す」ことである(六八四頁)。「古今を合して之れを一とつにす、是れ吾が古文辞学」と徂来は宣言する。
したがって、「古文辞学」は、古代を理想化し、後代現代を拒否することではない。
「古文辞」はパイプのむこうのはしであり、パイプのこちらのはしは、後代現代の生活、彼によれば後代現代の事実である。つまり「今」への知識がそなわってなければ、「古」へのパイプは通せない(六八五頁)。
では、どうやってパイプを通すか。「古文辞」の中に、自己を投入するのである。「古文辞」の通りの文体で、みずからの文章を書く。それを模倣、剽窃と批判する者がある。それに対して、徂来は堀景山あての書簡の中で昂然とこう切り返す。
すべての学問は、そもそも模倣ではないか。またそもそも日本人が中国語を書くということが、模倣ではないか。あなたたちのように宋人の文章をまねる場合も、その点は同じである。いかにもはじめのうちは、模倣であり剽窃であるかも知れない。しかし「久しくして之れと化すれば」、対象と融合すれば、「習慣は天性の如く」なり、「外自り来たると雖も」、むこうにあったものが、「我れと一とつと為る」。それがいやなら、学問などせぬがよい(六八五-六八六頁)。
吉川は、「大学」篇の有名なトピックである「格物致知」の徂来の解が、「古文辞学」の方法と連関しつつ生まれていると見る。徂来によれば、「「物格而後知至」とは、「物」すなわちいにしえの「聖人」によって与えられた標準的事実の中に自己を投げ入れ、それをこちらへ「格」(まね)きよせてこそ、「知」すぐれた叡智が「至」生まれ成長すること」である(六八六頁)。
この関係は、詩学において特に明瞭に現われる。徂来晩年の所説は以下の通り。
詩の勉強は、これら前人の定論を、標準的事実として、くりかえし勉強する。「習いて以って之れに熟し、久しくして之れと化する」。そうなれば、詩法は、「明るきこと火を観るが如く」なるであろう。それがすなわち「大学」の「格物致知」であって、「是れを之れ物格(きた)りて而る后に知至(うま)ると謂う」。そうしていう、「豈に翅(ただ)に詩のみならんや。凡そ修辞は皆な爾(しか)り。豈に翅に修辞のみならんや、先王の道は皆な爾り」(同頁)。
最後に、徂来晩年の学説の要点二点を摘録して、今回の「徂徠学案」読解を締め括る。
その第一点は、政治の道徳への優先。
「弁道」開巻第一の語は、「孔子の道は、先王の道也。先王の道は、天下を安んずる道也」。つまり人類を安定させるための政治の方法である。その方法は、聖人たる先王が定めた「道」である。それは万事に優先する。それに対し、「徳」は、個人的な道徳である。それは「道」より下位に置かれる。
なぜ政治の方法である「道」は、個人の道徳である「徳」に先行するか。個人の道徳の集積だけでは、人類の幸福は生まれないからである(七二〇頁)。
小さな構成要素を足して行くだけはでは集合体には到達できない。
そのように集合体ははじめから集合体として対処されねばならぬ。そもそも人間は、集合体として存在する。泥棒さえ集団を作る。「盗賊と雖も亦た必ず党類有り」。[中略] 集合体である以上、大きくそれに対処する方法が必要である。それがすなわち政治であり、政治の方法として「先王」の「聖人」が案出したものが、「道」である。それは集合体としての人間を大きくそだてる方法である。「大」を「大」としてそだてる方法である(同頁)。
晩年の学説の要点の第二点は、天の尊敬。
天への尊敬、より具体的には、超自然的な存在への尊敬である。一見、これは政治重視とうまく調和しないように見えるが、そうではない。
ひとしく現実の複雑さに対する敏感の所産である。現在の複雑さに対処する「大」の方法として選ばれたのが、政治であった。現実の複雑さを生み支え蔽うものとして求められたのが「天」である(七三〇頁)。
「天」を敬えというのは、「天」そのものばかりへの尊敬ではない。天の意思の作用としてある諸現実への尊敬となる。鬼神を敬い、君を敬い、上を敬い、父母を敬い、兄を敬い、賓客を敬う。みな「天」の意思としての存在だから、敬うのである。人民もまた為政者の尊敬の対象である、それを治めよと「天」から命ぜられたものが民だからである。またわが身を尊敬する。尊敬すべき存在である親の継承だからである(七三五頁)。
この意味で、敬天は、善政の形而上学的根拠である。
「古文辞」を直に学ばねばならぬという徂来古文辞学の根本的テーゼを帰結としてもたらす言語についての基本認識の要は、「古文辞」の「古言」と現代語の「今言」との間の非連続性にある。この非連続性は、時代の変遷に起因する。「世載言以遷 言載道以遷」(「世は言を載せて以って遷り、言は道を載せて以って遷る」)。この言語観もまた、今日の私たちにはほとんど常識に属する。しかし、吉川幸次郎は、当時にあって「彼の思考は、たとい完全な創見がないにしても、一つの画期であったのではないか。少なくとも徂来自身としては、新しい覚醒であった」と、徂来の時代の文脈において事柄を見直すことを私たちに促す(六七四頁)。
「古文辞」は、何故、それ以後の一切の言辞に優越するのか。その理由は、三つに分けて説明される。
その一は「叙事」。「古文辞」は事実を叙する文章である。文章には叙事と議論とがあるが、叙事こそ文章の本来である。この言語観は、議論の横行は信頼の欠如という倫理的認識と表裏をなしている。しかし、信頼の欠如は、単に倫理的な問題であるにとどまらず、次のような認識論的な問題を引き起こす。
なぜ議論は「一端」片はしを「明らか」にし得るのみで、一方的であるのか。複雑に分裂する現実のすべてを、人間は知り得ないとする思考が、基底にあるほかに、特殊な思考が併存する。議論は必ず論敵を予想し、それを克服しようとするゆえに、必ず一方的であり、誤謬におちいるという思考である(六七六頁)。
論争において論敵に勝つことは、その勝者の論理が真理であることを少しも保証しない。むしろ勝つための戦略は、私たちから真理を覆い隠し、誤謬へと導く危険をつねに孕んでいる。
「古文辞」優越の理由のその二は、「修辞による事実との密着」である。
古代中国人の「古文辞」は、なぜ事実に密着したすぐれた言語でありえたのか。それは古代人の特殊な修辞法に拠る。言語にまず必要なのは、「達意」すなわち事実の伝達である。孔子の語に、「辞は達するのみ」とある。同時にまた孔子は、「辞を修めて其の誠を立つ」という。つまり、「達意」と「修辞」の両者は、文章に必須な二つの条件である(六七八頁)。
「達意」の「叙事」は「修辞」と不可分であるというこの認識は、以下の帰結をもたらす。
すなわち「修辞」は、「叙事」のための「修辞」であり、事実を言語に密着させるための「修辞」ということにならねばならない(六七九頁)。
またかく事実に密着した「修辞」が「古文辞」であるとすることは、更にやがてその学説の結論として、「道」はすなわち「辞」において求められるという主張を完成して行ったとせねばならぬ(同頁)。
しかし、「道」を「辞」において求めるということは、「辞」をもって「道」を伝達する過程とするのには止まらない。
つまり「古文辞」は事実と密着した「修辞」であるがゆえに、それ自体が事実であり、事実であるゆえに「法」であり「義」であり「先王の道」なのである(同頁)。
徂来の思考はそこからさらに次のように勇躍する。
「修辞」こそ文章の正道であるとする文章論は、すべての事象が、修飾を価値とし、素朴簡単を価値としないという思考へとのびる、「弁道」また「弁名」の「文」の条に、「先王の道」、またその記載である「六経」は、修飾された存在すなわち「文」的な存在であるゆえに、至上の価値なりとする(六七九―六八〇頁)。
「古文辞」の尊重は、単純素朴な古拙なる言句を愛でることとはまるで違う。「古文辞」の「修辞」は、原事実を修飾語によって「飾る」ことではない。事実をその事実に内包された豊穣な可能性とともに表現する方法であり、それによって得られた表現そのものである。
「古文辞」の優越の理由のその三は、「含蓄」である。
「古文辞」は、「種種の方向へと伸びるべき意味の可能性を、渾然と未分裂に包括した文体である」(六八〇頁)。この含蓄について徂来のテキストからの引用を交えた吉川による説明は、徂来からの引用と吉川の地の文とが渾然一体となった見事な「祖述」になっているので、そのまま引く。
「訳文筌蹄」の「題言」に、「含蓄多くして、余味有り」。以下彼の用語にしたがい、「含蓄」の語をもってそれをいおう。「題言」には更にいう、そうした文体のゆえに、「古文辞を熟読する者には、毎に数十の路径有り」。意味が数十の方向に放射される。しかも秩序をもった放射であって、「心目の間に瞭然として、条理紊(みだ)れず」。ゆえに「読んで下方に到るに及んで、数十の義趣、漸次に用(はため)かず、篇を終るに至りて、一路に帰宿す」。光彩陸離と放射された数十の路線が、やがて篇末に至って、はっきり焦点をむすぶ。それが「古文辞」である。後世の文章は、議論の分析を事とするため、放射するものは、ただ一本の線である。そればかりか読んでいる人間は、「止だ一条の路径を見るのみ」。要するに「古文辞」は、その「修辞」のゆえに、包括的な、ひきいだされるべきすべての可能性を内蔵するところの、濃密な文章である(六八〇―六八一頁)。
岩波書店の日本思想大系の『荻生徂徠』の巻(一九七三年刊)に収められた吉川幸次郎の解説「徂徠学案」は、中国文学研究におけるこの稀代の碩学にしてはじめて書き得た卓越した徂徠思想の「祖述」である。
この「祖述」とは、しかし、先人の学説の単なる略説ではない。それを受け継ぎ、今の言葉において活かすことである。中国文学史についての他の追随を許さぬ深い学識とその学識に裏打ちされた透徹した歴史意識と鋭利な批判精神とに支えられた雄勁な文体で見事に彫り出された徂徠学の方法論を味読するためには、もちろんその「祖述」の全文を直に読むに如くはない。
今日から三回の記事では、その「徂徠学案」の中から特に学問の方法に関わる記述を摘録し、それに若干の私見を加えるに止める。
まず、徂徠学説の要を摘む第一節「学説の要約」から引く。
しからば人間の認識はいかにあるべきか。存在を個としてではなく集合体としてとらえるとき、集合体としてもつ方向が、大まかに把握される。かく存在が集合体としてもつ方向を、彼は「大」と呼ぶ。「大」の中の「小」は、無限に分裂している。「小」への認識をいくら積み重ねても、「大」には達しない。「大」による認識こそ必要である(六三〇頁)。
政治は、この「大」を対象とする。この「大」を対象とする政治の方法として与えられているのが、中国古代に出現した「先王之道」である。七人の「先王」が「聖人」として人為的に事実設定した「道」、それが方法である。この意味で、方法とは、事実歩まれた「道」に外ならない。それは、したがって、自ずから成るものではなく、人為的設定であるから、その実践と継続には技術が必要とされる。その「道」の実践の記録が「六経」である。
なぜかく「先王の道」は、標準的事実「物」のみを提示し、議論を交えないのか。議論は常に必ず不健全だからである。「天」への尊敬の延長として、人間に必要なのは、信頼の心情であり、信頼とは、相手との合致である。議論というものは、そうした信頼の心情が失われた場合に、発生する。自己を信頼しない相手への説得であり、論争である。ゆえに必ず不健全な偏向を生む。議論の基礎となって事実の原形から遠ざかり、原形を破壊する(六三一頁)。
古代の先王たちの事績を有無を言わさずに理想化することがここでの目的なのではもちろんない。徂来は、古代の価値を絶対化する復古主義者ではない。人為的に設定された「原形」を政治の初元に措定することで、それ以後のあらゆる政治的言説およびその解釈をその「原形」からの隔たりによって批判的に吟味する政治の方法を確立したのである。
先王たちによって事実として設定された「原形」は、それ自体の教条的かつ盲目的な順守を一方的・一律的に強いるものではない。まったくその逆である。
「先王」七人は[…]原形のままの事実のみを提示する。接受者をして、各自の個性にそいつつそれら標準的事実を自己のものとさせ、それによって各自に思考させ、各自の個性にそった成長を得させる(同頁)。
価値の基準たる「原形」の接受があってはじめて、各自、各時代に相応しい方法を導き出すことができるようになる。それなくしての議論は、ただ果てしなく、議論のための議論と化し、終いには、それと知らずに、「原形」を破壊する。「原形」が破壊されたところに、新しい制度の設立はあり得ない。
以上のような「先王の道」を現在の我々はいかにして獲得するか。それを記載した言語である「六経」六古典において、獲得するのである(六三二頁)。
ここから、原テキストの言語である古中国語、すなわち「古文辞」そのままに、つまり原音・原イントネーション・原語序によって、すべてを読まねばならぬという基礎的方法論が論理的に導き出される。しかし、ただ読むだけでは、「先王之道」を十全に接受・体得することはできない。
では「六経」の「古文辞」は、いかにして獲得されるのか。信頼とは、相手と自己との合致であるという方法が、ここでも取られねばならぬ。単に「古文辞」を読むのではない。みずからも「古文辞」を書くのである。後代の中国文が、議論という悪習によって事実から乖離するのなどを、自己の文体としないのはもちろん、それを読むことさえ忌避する。そうして「六経」のごとく用語も発想も事実と密着した修辞法で、みずからの文章を書く。かくて「六経」の「古文辞」は、みずからのものとなる。したがって「先王の道」がみずからのものとなる(六三二頁)。
このような方法論は、今日の目から見れば、当たり前のことように思われる。しかし、中国語の古典の読解において、返り点等の補助記号による訓読法が当然視され、漢文で書くにも、訓読法から生まれた和臭の染み込んだ偽中国語文が横行していた当時においては、まさに画期的な方法の提示だった。この外国語理解・体得における原典原音主義は、翻訳に関しては、荘重で曖昧ないわゆる漢文調を排し、当時の日本語での平易で明快な「現代語」訳を選択するという第二次的な方法論的帰結を導く。
今年の二月以前の記事でも、気楽な調子で語りかけるように書くときは、「です・ます体」、つまり敬体を採用していた。今年の二月下旬からは敬体で書く機会が増え、三月上旬からは哲学的な内容でも敬体で通すことを試みた。初めてのことで、私自身にとっては新鮮な実験だった。
結果として、書いている本人には、大変心地よかった。もし、読んでくださった方たちにとっても、表現がいくらかでもゆったりした感じになって、話を聴くような「親しさ」が少しでもそこから感じられたとすれば、とても嬉しい。もっとも、内容が内容だっただけに、文体が変わっても、相変わらず、難しくて訳が分からん、ということだったかも知れない。
今日から文体を常体に戻す。これは、何らかの方法意識に基づくのではなく、単に気分を変えるために過ぎない。だから、気分によっては、また敬体で書くこともあるだろう。
先週金曜から昨日までの四日間の記事では、本当につまらぬことを書いた。もう止める。自分でも、何くだらんこと書いてんだ、と自分にうんざりしてきた。
実を言うと、そうなるのを自分でも待ちながら書いていたようなところもある。実際、書いているうちに、気持ちの立ち直りの兆しも感じられるようになってきた(そんな拙文を読んで心配してくださった方々には、この場を借りて、心より感謝申し上げます)。
普段の記事は、それほど推敲することはない。というか、その時間もない。毎日投稿が自分に課した鉄則だから。ところがこの数日間の記事は、何回となく書き直した。推敲というのとは違う。書き直し続けることで、自分の気持ちに向き合い続けた。
一旦勢いで書いてしまって、数時間おいて見ると、なんとも情けない文章だと気づく。それに手を入れることでまた気持ちが動く。まだ不安定だから、さらにネガティブな方向にも傾きかける。書くのを中断する。時間をおいて、また読む。書き直す。この作業を金曜日から繰り返した。
何という時間の無駄だろうか。やらなきゃならない重要な仕事があるのに。しかし、私にはこの無駄が必要だった。
明日から三回、今年度最後の講義である金曜日の近世文学史の準備のために、岩波の日本思想大系『荻生徂徠』に収められた吉川幸次郎の解説「徂徠学案」について書く。
私的なメールでも、つまり非公開の個人的なやり取りでも、受信者にショックを与えないように、表現にはとても気を使っています。少なくとも、いつもそれを心掛けています。
手書きの書簡ならば便箋や筆跡から感じ取ることができる相手の気持ち・息遣いもそこにはなく、声・表情・身振りなど、その場に一緒に居合わせれば感じられる相手の雰囲気がまったく欠落したやり取り、それがメールです(その点、あの絵文字というのは、上手に使うと、多少はそういう欠落を補ってくれますね)。
画面上のちょっとした一言が相手を深く傷つけてしまっても、送った側はまったくそれに気づくことができません。送信してしまった後で、「しまった!」と思っても、もう後の祭りです。私自身、そうした苦い経験が過去に何度かありました。だから、最近は、とても控えめな表現を使いつつ、ときには何度も推敲した文章を送ることで、相手に気持ちを伝えるように努めています。
ところが、手軽さの裏返しなのでしょうか、大抵の場合はその時の勢いでつい送信してしまっただけなのでしょうけれど、受け取る側の日頃の気持ちやその時の精神状態など一切無視した、とても攻撃的なメールを送りつける人もあるようですね。
その中身は、受け取る側に弁明の余地を一切与えない、一方的な非難・否定・断罪の言葉であることが多いようです。そういう場合、発信する側は、「正しい者」、「罪なき者」あるいは「被害者」として、相手に対して、「すべてはおまえが悪い。おまえのせいで、こちらはいわれのない被害を被っているのだ。お前の味方など、この世に一人もいない!」などといった調子の言葉で、「石を擲つ」わけです。それらの言葉の中には、確かに、多分に、或いは少なくとも、幾分かは、真実も含まれている場合もあるのかも知れません。
しかし、裁判ならば、極悪非道の被告にさえ弁護の権利が認められているのに、こういう私的な断罪は、まったく一方的で、情け容赦がありません。特に、弾劾・告発している側が、自分たちは「罪なき者」、「正しき者」、あるいは全面的な被害者だと確信して疑うところがないとき、その裁きの舌鋒は、あたかも、身動きができないでいる相手の喉元に刃を突きつけるかのような苛烈さを見せることもしばしばあるようです。自分たち裁く側は、つねに、全面的に、「正しい」かのように。
そういう「正しい人」、「罪なき者」たちだけが生きる世の中になったら、すべての人たちがお互いを思いやり助け合う、さぞかし幸福に満ちた世界になることでしょう。幸いなことに、どうやら、この世の中は、そういう「正しい人」、「罪なき者」たちが多数派を占めているように私には思われます。
そのような「正しい」人たちだけからなる「よい」世界の中には、しかし、一度「間違った」人間たちの居場所は、どうやら、どこにもなさそうです。
SNSが我が世の春を謳う今日、それだけ、ヴァーチャルな世界での言葉の暴力も横行するようになりました。それは、ときに、身体に直接物理的に加えられた暴力以上の威力さえ発揮することがあります。社会的に再起不能な仕方で個人を打ちのめすことさえあるのですから。これは皆様すでによくご存知の通りです。
ツイッターは典型的なケースですが、あれだけ短い表現だと、そもそも文脈そのものがその表現の外部にほぼ全面的に依存していて、それゆえに、発信した本人はそんなつもりで言ってはいなかったとしても、ある可能な解釈あるいは意図的な曲解がまたたくまにネット上で拡散し、発信した本人にはほとんど対応困難な仕方で攻撃の嵐に曝され、果ては敢えなく炎上、あるいは公開謝罪を要求されることもあり、結果として、アカウント閉鎖に追い込まれてしまうことも珍しくありません。たった一言の不用意な「つぶやき」で職を失った方たちさえあります。
不特定多数の受取り手に対して発信するとき、善意の解釈だけを前提することはできませんし、一旦拡散してしまった発言の引き起こした騒動の収拾を事後的に図ることは非常に困難ですから、発信する側が発信する前にせいぜい気をつけるしかないのでしょうね。
私自身は、ツイッターでつぶやいたり、フェイスブック上に挨拶程度以上のコメントを自分から公開することは一切ありません。私が自分の気持ちを表現しているのは、このブログの中だけです。
そして、私のブログの記事に対していただくコメントにときどきお答えすることがあるだけです。それはつねに感謝とともにです。拙ブログの記事に、貴重な時間を割いて、暖かいコメントをくださったのですから、どうしてそれに感謝せずにいられましょう。そこに質問があれば、できるだけわかりやすく答えるよう努めています。
他方、明らかにこちらのブログの中身も読まずに機械的に送りつけられたと思われるコメント(そういう自動送信アプリがあるんですってね)は、当然これらを即削除していました。その類のコメントが多かったことがアメーバ・ブログの方を止めた主たる理由でした。
自分のブログの記事では、他人に迷惑のかかるような発言は一切しないよう、細心の注意を払うことを原則としています。それでも、ときどき、まったくこちらの意に反する、あるいはほとんど曲解に等しいコメントをいただくことがあります。しかし、それはこちらの不徳のいたすところ、相手を責める気にはなりません。
もっとも、「お前が日常を楽しげに語ること自体がこちらにとっては迷惑なんだよ。言動に気をつけろ!」というようなリアクションも過去にはあり、そのときは、さすがに悄気かえり、もうブログを止めようかとも思いました。
今日の記事のタイトルをご覧になって、奇妙に思われた方もいらっしゃったかも知れません。こいつ、とうとう頭が少しおかしくなってしまったのか、とさえ思われた方もいらっしゃるかもしれません。そうではないのです(と自分では信じています)。それを実証するために(って本人がそう力んでいるだけかもしれませんが)、今日の記事のタイトルの意味を説明します。
「糸の切れた凧」という慣用表現がありますね。自己あるいは他のものによる制御が効かなくなり、ふらふらとあてどなく彷徨ってしまう状態にある人を喩えるときに使われるのが一般的でしょう。
思えば、私は何十年とそのような状態にあるのかも知れません。あまりにも長期間そうだったせいで、とうとうそれが常態であるかのような錯覚さえ生まれしまったようです。だから、それがやはり普通じゃないということに気づかされると、情けなくも呆然としてしまいます。今更ながら、自分はこれからどうなるのだろうか、と。
しかし、ふと、こうも思ったです。私は、むしろ、「凧の切れた糸」を握りしめたまま、ぼんやりと突っ立っているだけの木偶の坊なのじゃないか、と。
空高く舞う凧をコントロールするように、何か一つ大切な事あるいは人につねに注意を払い、その事あるいは人を守るために必要な操作と配慮とを怠らずに実行しているとき、そうすることはその人の生活に緊張感ととともに快い充実感と持続的な喜びを与えることでしょう。
ところが、私にはその「凧」がない。だらんと垂れ下がり、その先端が地面に落ちている糸の他方の端を握りしめたまま、何をどうすればよいのかわからないまま、地面に落ちたその糸の先の空虚な空間をぼんやりと眺めながら途方に暮れているだけなのです。そうしているうちにいつのまにか人生そのものが黄昏れてしまう。
それだけのことなら、つまり、ただ独りそうであるだけで、誰にも迷惑を掛けていなかったのならば、それでも、外国で自分一人のことだけを考えて呑気に暮らしている身勝手な役立たずと呼ばれるだけのことで済みます。そして、それは、普通の真っ当な暮らしをしている人たちの立場からすれば、至極正当な裁定ですから、そのまま受け入れる他なく、それに対して腹の立てようもありません。
しかし、自分がそうであることで人に多大の迷惑を掛け続けているとすれば、それは許されることではない、罪深いことでさえある、そう思います。
自分で振り返って確かめてみたわけではありませんし、人からそう指摘されたわけでもないので、確たることは言えないのですが、ここ数年、何かほとんど周期的に、私の精神的気象状態は悪化するようです。しかも、その周期がだんだん短くなってきているような気がします。
その悪化の外的きっかけが特定できる場合もあるのですが、その場合は、むしろ対処法も自己処方しやすいので、比較的凌ぎやすいのです。ところが、そういうはっきりとしたきっかけがないのに、今年の一月初旬のある記事の中で記述したような精神状態に陥ることが最近多くなってきています。
何かの気晴らしによって一時的にでもそこから自分の注意を逸らすことができればまだしもなのですが(こんなことを言うと、パスカルに憫笑されますね)、何をしていても、今ではとうとうプールで泳いでいるときでさえ、まるで終わることのない単調な通奏低音のように精神の底に不気味な振動が唸り続けていて、それから逃れようがない、逃げ場がないのです。
人と接するときは、それでも、何とか普通にしていようと最低限の「社会的」努力をしていますから、見たところは、何の問題もなく日々を過ごしているだけの人畜無害な輩に見えるかもしれません。でも、自分ではよくわかりませんが、独りでいるときにしている顔は、それを見る者が思わず顔を背けたくなるようなひどく陰鬱な表情をしているのではないかと恐れています。
そんな精神状態にあるときに、昨日の記事で話題にした芥川龍之介の「羅生門」の次の一節を読んでしまったものですから、今更ながらですが、弱っていた心にその文章が棘のように突き刺さってしまいました。少しでもその文章を対象化する手段の一つとして、森有正の仏訳も併せて引いておきます。仏文を読むことで、日本語を読むよりも、いくらかでも事態を冷静に見ることができるかと願ってのことです。
どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいる遑はない。選んでいれば、築土の下か、道ばたの土の上で、饑死をするばかりである。そうして、この門の上へ持って来て、犬のように棄てられてしまうばかりである。選ばないとすれば ― 下人の考えは、何度も同じ道を低徊した揚句に、やっとこの局所へ逢着した。しかし この「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」であった。
Pour résoudre un problème insoluble, on ne peut pas s’attarder à choisir un moyen. Sinon, on pourrait bien mourir de faim au pied d’un talus ou au bord d’un chemin et son corps serait jeté dans la galerie de la Porte comme celui d’un chien crevé. « Si tous les moyens étaient permis ? » — la pensée de l’homme, après de multiples détours, se fixa enfin sur ce point décisif. Mais ce « si », en fin de compte, restait pour lui, toujours, le même « si ».
昨日が中古文学史の今年度最後の授業でした。説話がテーマ。その歴史的背景と成立・展開について手短に説明した後、『今昔物語集』について少し詳しく話しました。そして、一話だけ、原文と現代語訳とを横書きで左右に並べA4一枚に収まるように私が編集したプリントを渡し、学生たちと一緒に読みました。巻二十九、第十八話「羅城門登上層見死人盗人語」です。そう、芥川龍之介の「羅生門」の素材になっている説話の一つです。
それから、その芥川の「羅生門」の最初の三分の一ほどを仏訳との左右対訳版でA4裏表四頁にやはり自分で編集したプリントを学生に渡しました。芥川が今昔の原文の簡潔・素朴な文体の力強さをいかに活かしつつ、陰影深い情景描写と登場人物の内面描写とによって古典的品格を湛えた近代小説を生み出すことに成功しているかを見せるためです。ネット上に数多くアップされている「羅生門」の朗読の中の一つを聴かせながら、仏訳を追わせることで鑑賞させました。
仏訳は、名訳の誉れ高い森有正訳です。森有正の芥川訳は、「羅生門」の他十四作品を合わせた作品集 Rashômon et autres contes として、1965年にガリマール社からユネスコとの共同出版シリーズ « Connaissance de l’Orient » の一冊として出版されました。同作品集は、初版とは違う版型ですが、初版出版から半世紀以上経った今でも現役です。
この作品集の翻訳のために十年掛けたと森自身があるエッセイの中で回顧していたはずです。もう三十年以上前に読んだエッセイなので記憶もすっかり曖昧になっているのですが、確かその同じエッセイの中で、翻訳するにあたってどんな方法を採ったかも説明していたと思います。自分が芥川の原文を目で追いながら、フランス人の友人に仏訳を朗読してもらい、視覚と聴覚とから得られる印象が一致するまで推敲を重ねたということだったかと記憶しています。そして、結論として、日本語からフランス語への翻訳は可能だが、その逆は不可能だという意味のことも言っていたような...
いずれにせよ、森有正ならではの彫心鏤骨の名訳です。今では、その作品集から「羅生門」「地獄変」「藪の中」「芋粥」を選んでポッシュ版に編集しなおしたものも Gallimard の « folio2€ »シリーズの一冊として出ています。
元の作品集には、森自身による二十頁余りの解説的序論が付されていて、その中でなぜ芥川が自殺するに至ったかについて立ち入った分析も行っていて、なかなか読み応えのある文章です。