内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第二章(三)

2014-03-23 00:00:00 | 哲学

1.1 それ自身に於て有り、それ自身によって有るもの、自ら働くもの(承前)

 それ自身において有るものの内部では、自己知のためには、当然のことだが、知るものと知れられるものとの分裂は排除されなくてはならない。分裂があれば、捉えられるべきものは不可避的に探求するものの手を逃れてしまうからである。知るという作用とその対象とは、それゆえ、一つでなければならない。哲学的方法の探究の対象は、自らを感得するもの、「対象なき対象」、つまり、対象に対立し自らの独立と自律を要求するものによってはけっして対象化されえないものである。知る主体と知られる対象との二元的区別を前提するすべての思考方法は、それゆえ、探求の始まりにおいて排除されなくてはならない。ここで要求されているのは、距離なき、基底なき、自己に対する表象なき自知・自得である。つまり、自らに自ら固有の現実を与えるものが、隔たりなき内在的な自己贈与を経験することである。それゆえ、およそ因果律に従った推論によって知られるものはすべて排除されなくてはならない。もはや言うまでもないが、およそ機械論あるいは目的論に属する立論はすべて、真実在を求める哲学知とは本質的に異なったものである。この段階において、西田は、哲学的方法と、客観的な知の体系の構成へと向かうその他のすべての学問的方法とを本質的に区別するものをそれとして考察していることがわかる。哲学的方法は、真実在の根源的な知から不可避的に遠ざかってしまういかなる種類の表象によっても本質的に捉えられないものを探求する。この方法によって、西田は彼なりの仕方で「表象の形而上学の支配」(ミッシェル・アンリ)の批判を、より正確に言えば、二十世紀の初めに、「フッサールが徐々に設置した表象主義的客観主義と自我論的主観主義との問い直し」と「客観化する理性の帝国主義」(ルドルフ・ベルネ)への批判を敢行しているのである。
 この根源的な知は、それゆえ、〈いま〉〈ここ〉において探求されなくてはならない。それは、どこか他所に、あるいは現に現れているものの背後に、あるいは今感じられていることの彼方に覆い隠されているようなものではなく、いっさいの表象の媒介なしにそれが現実にあるところで自らに感得されるものなのである。それは、知の始まりにおいて獲得されながら後に忘却されてしまったものを回復することでもなく、それをこれから迎え入れる者たちに対して顕にされるはずのものを待機することでもない。忘れられる可能性があり、後に取り戻されうるものも、その開示を待たなければならないものも、哲学の〈始源〉である根源的な知ではありえない。
 捉えなければならないのは、完全に実現されるのに時空の枠組みの中で展開されなければならないものではなく、時空の枠組み内の諸々の限定された知識の完全な展開を可能にしながら、それ自体は各瞬間に直接的に十全に自ら感得されるものでなければならない。〈ここ〉には、一度限り確立された内部と外部の単純な区別、そのために自己と非自己とが互いに排除し合う区別はない。この区別を前提すれば、自己は非自己から自らを引き離し、自己は知を自己の所有とし、知に属さない非自己からその知の所有権を剥奪する。ところが〈ここ〉では、自己の領域を非自己の領域に対して確定することが問題のではない。〈ここ〉は、内観が見るものと見られるものとの距離を前提とすると考えられるかぎり、内観が行われる自己の内部を指すのでもない。〈ここ〉においては、内部・外部という二項性を用いて事柄を言い表そうとするかぎり、内部に属するものはすべて外部に顕にされ、外部にあらわにされたものはすべて内部に属すると言わなくてはならない。まさに〈ここ〉において、「絶対矛盾的自己同一」は、そこで生きられている事柄そのものの表現なのである。
 真実在の根源的な知を探求へと身を投ずる者は、それゆえ、いっさいの前提なく自ら始まる始まりを〈いま〉〈ここ〉において感得することを索めなければならない。現実の根底に不動の実体を構成するものを何らかの仕方で、一度想定してしまえば、〈自ら働くもの〉の代わりに基底となるものを据え、そのようにしてその基底とそれによって支えられるものとの隔たり生じさせ、〈自ら働くもの〉から必然的に遠ざかってしまう。自らを現成させるのにいかなる基底も前提することなく〈自ら働くもの〉は、たえず各瞬間に始まり、自らを唯一無二のものとする。しかしながら、それをある瞬間にある形態において与えられるものと同一視することはできない。ある場所に固定されたものに還元されることも、遅かれ早かれ後から到来するものに取って代わられることもない。それは、定義上そこにはないものに取って代わるものである表象すべてから逃れてしまう。とはいえ、諸現象の底にあるいは彼方に定義上自己同一性を保つ実体として措定されるものとそれを同一視することもできない。真実在の根源的な知は、したがって、すべての実定的同一化から逃れる作用であり、真実在の動的自己同一性を、つまりそれが自らに自らにおいて現れることを直接感得する作用にほかならない。