六月に著者の岩田文昭先生ご自身から頂戴した『近代仏教と青年 近角常観とその時代』(岩波書店、二〇一四年)について、拙ブログで七月三日から六日にかけて取り上げた。この御本の中に、三木清の親鸞理解に決定的な影響を与えた一書として、武内義範『教行信証の哲学』(初版は一九四一年、弘文堂より出版。私の手元にあるのは、二〇〇二年に法蔵館から出版された新装版)のことが詳しく取り上げられている。
この武内書に出てくる「信楽」という言葉が、今日、目に止まった。「しんぎょう」と読み、仏教で、教法を信じ、これに喜び従うことを意味し、浄土真宗では、特に、弥陀の本願を信じる心をいう。
武内書には、親鸞晩年の信仰について「信楽の炬火」(しんぎょうのこか)という表現が出てくる。
親鸞は晩年に至っても、衰えない気力を保っていた。彼の十八種の力作は、その大部分が八十三歳から八十八歳の間に製作せられた。「すでに眼も見えなくなった」と彼は、その頃の消息で語っているが、このよう衰残の身にも、なお烈々と信楽の炬火が燃え続けていたことを、これらの述作の調子の高い文章が、もっともよく示している。〔武内前掲書八頁〕
この「信楽の炬火」という表現を武内は近角常観についても用いている。
灼熱せる先生の信楽の炬火は、不良導体の私の心までも、同じ高熱に燃え上がらせたごとくにも見えた。〔岩田前掲書二五七頁。武内義範「真宗教化の問題」(一九五〇年)からの引用〕
いずれの場合も、弥陀の本願を喜び信じる心が烈々たる篝火のように人々の心を照らし、伝導し、導く、ということであろう。