うらうらと照れる春日の土曜の午後、禁断の葡萄酒を飲みながら、この駄文を弄している。
Shôwa(こうアルファベットで書くとShoahに似ている)の遠い昔、右も左も、上も下も、まだわからなかった若き日、二十歳前後だったか、小林秀雄を愛読していた。当時、文庫版で入手可能な作品はすべて読んだ。熱にうかされたように、繰り返し読んだ。それこそバイブルのごとく。で、感染した。以後しばらく、書くものすべて、ヒデオチックになってしまった。
当時最新の全集も購入したが、その後しばらくして症状は緩和しはじめ、そのうち一切読まなくなり、私の文体も変わった。恩知らずの誹りは免れ難いが、今はもう、まったく読む気がしない。職業上の必要から無理して数行読んでも、その先は読み続けられない。ほとんど生理的に受けつけなくなってしまっている。かつて聖典のごとく崇拝していたというのに……。
こんなことが書きたかったのではなかった。
今月も一日も休まず運動した。ほぼ毎日走った。ウォーキングだったのは八日と二十日の二回だけ。今年に入って運動しなかったのは二月六日のみ。二〇二二年通算走行距離は今日でちょうど1200キロ(うちウォーキングは67キロ)。一日10キロを維持している。
ふと、自問する。何のために走っているのだろう。健康維持のためには違いないが、そのためだけなら、必ずしも毎日でなくてもいいだろうし、日に10キロ走らなくてもいいだろう。記録を目指しているわけでもなく、マラソンに挑戦したいわけでもなく、大会の如きものに出場したいわけでもない。それらの目標を掲げることなしに、ただ続けているから続けているに過ぎない。
独りで、ゴールを目指さずに、ただ走り続ける「運動体」、サウイフモノデワタシハアリタイ、のかも知れない。