内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

来月の新刊 H・コバヤシ著『かん蛙ヒント」』 ― ゴールを目指さずにただ独り走り続ける「運動体」

2022-04-30 23:59:59 | 雑感

 うらうらと照れる春日の土曜の午後、禁断の葡萄酒を飲みながら、この駄文を弄している。
 Shôwa(こうアルファベットで書くとShoahに似ている)の遠い昔、右も左も、上も下も、まだわからなかった若き日、二十歳前後だったか、小林秀雄を愛読していた。当時、文庫版で入手可能な作品はすべて読んだ。熱にうかされたように、繰り返し読んだ。それこそバイブルのごとく。で、感染した。以後しばらく、書くものすべて、ヒデオチックになってしまった。
 当時最新の全集も購入したが、その後しばらくして症状は緩和しはじめ、そのうち一切読まなくなり、私の文体も変わった。恩知らずの誹りは免れ難いが、今はもう、まったく読む気がしない。職業上の必要から無理して数行読んでも、その先は読み続けられない。ほとんど生理的に受けつけなくなってしまっている。かつて聖典のごとく崇拝していたというのに……。
 こんなことが書きたかったのではなかった。
 今月も一日も休まず運動した。ほぼ毎日走った。ウォーキングだったのは八日と二十日の二回だけ。今年に入って運動しなかったのは二月六日のみ。二〇二二年通算走行距離は今日でちょうど1200キロ(うちウォーキングは67キロ)。一日10キロを維持している。
 ふと、自問する。何のために走っているのだろう。健康維持のためには違いないが、そのためだけなら、必ずしも毎日でなくてもいいだろうし、日に10キロ走らなくてもいいだろう。記録を目指しているわけでもなく、マラソンに挑戦したいわけでもなく、大会の如きものに出場したいわけでもない。それらの目標を掲げることなしに、ただ続けているから続けているに過ぎない。
 独りで、ゴールを目指さずに、ただ走り続ける「運動体」、サウイフモノデワタシハアリタイ、のかも知れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


メディア・リテラシーの試験問題 ― 集合知・ジャーナリズム・同調圧力/死刑の「合法性」

2022-04-29 23:59:59 | 講義の余白から

 今年度後期のメディア・リテラシーの授業は今日が最後の講義だった。来週は期末の筆記試験。今年度の後期は、日本学科と応用言語学科という二つの異なったコースの学生たちを一クラスにまとめての授業だった。後者の学生たちは四月から企業研修に入るので履修週が少ない。試験も一回だけ。
 その試験は三月二十五日に行われた。試験問題は両学科共通。キーワードは次の三つ。集合知、ジャーナリズム、同調圧力。授業で読んだ三書、西垣通『ネットとリアルのあいだ』、望月衣塑子『新聞記者』、太田肇『同調圧力の正体』からの抜粋に明示的に言及しつつ、同調圧力に抗して集合知を構築するためにジャーナリズムが果たすべき役割は何か、というのが試験問題であった。
 読み応えのある答案もあったが、集合知が皆よく理解できていなかった。これは無理もない。授業で西垣通の『集合知とは何か』(中公新書)を読む時間が足りなくて、私の説明が不十分だったからだ。学生たちの答案はそれを如実に反映していた。これは私の落ち度だから、それを考慮して採点した。
 来週の期末試験は日本学科の学生たちだけが受ける。四月中の四回の授業では、堀川惠子の『死刑の基準 「永山裁判」が遺したもの』(講談社文庫 2016年 初版 日本評論社 2009年)と宇野重規の『民主主義とは何か』(講談社新書 2020年)とをそれぞれ二回ずつ読んだ。読んだといっても、両書からの抜粋を私自身が訳しながら解説してくというスタイルだったが。
 来週の試験では、授業で読んだこの両書それぞれから取った一節と『民主主義』(角川ソフィア文庫 2018年 初版 文部省 1948‐1949年)から取った言論の自由に関する一節を読み、それらのテキストに明示的に言及しつつ、死刑の「合法性」についての公開討論の場を開くことを読者に提案する雑誌記事を書くことを求める。
 1981年に死刑が廃止されたフランスでは、今日、この問題について語ることはほとんどタブー視されているが、フランス人法学者の中にも死刑合法論を唱える人たちが今もいる。答案準備のための参考文献として、Robert Badinter の Contre la peine de mort (Fayard, 2006) と Jean-Louis Larouel の Libres réflexions sur la peine de mort (Desclée de Brouwer, 2019) を挙げておいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


新たな原稿依頼 ― ブログ継続にも弾み、あるいは現金な掌返し

2022-04-28 23:59:59 | 雑感

 今朝、まったく予期していなかったことでちょっと驚いたのだが、先日原稿を送った編集者の方から、新たな寄稿依頼をいただいた。その締め切りが二ヶ月後で、仏語での書評の締め切りと重なるのだが、とてもありがたく嬉しい依頼内容だったので、お引き受けするとすぐに返事した。掲載されるのは八月号(発売は七月末)。
 まだ出版社そのものがサイトで特集テーマを公表していないから、ここにそれを書くことは差し控えるが、私がこれまでこのブログで続けてきたことが、今回の依頼の理由にもなっていて、特に、哲学をどう具体的に形にして持続的に実践していくか、という問いに対して、私自身の考えを述べる機会をいただいたことにもなり、そうそうあることでもないと喜んでいるのである。
 先日の原稿はいわゆる論文スタイルであったのに対して、今回依頼された原稿はいわば随想録風に綴ることができ、それだけこちらも肩の力を抜いて楽しみながら書けそうで、そのためのメモや草稿と並行して、あるいはそれがちらちらと見え隠れするような仕方で、このブログも続けていけることにもなり、先日ブログ継続についてちょっと弱音を吐いてしまったが、今は(実に現金な奴だと自分でも苦笑してしまうが)、手のひらを返すように、あるいは何事もなかったかのように、あるいはすっかり忘れたふりをして、このブログも気楽に続けていけるなあという陽春のごとく明るい気分になっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


食べられるものたちの声なき声に耳を傾けるとき ― 『現代思想』6月号(5月27日発売)に寄稿した拙論

2022-04-27 15:10:56 | 雑感

 〈食べる/食べられる〉の関係につての哲学的論考をここのところ執筆していたことはこのブログでも何度か話題にしました。今週月曜日25日が締め切りで、その日の朝に完成稿を担当編集者の方に無事送信しました。本文は与えられた字数制限内の30枚(400字詰め原稿用紙)に収まったのですが、やたらと注を付けたのでそれも含めると40枚近くなってしまいました。それで、削るべきところがあれば指摘してほしいと編集者の方宛てに原稿送信の際に一言添えたのですが、ここままでよいと先程返事があって、ホッとしているところです。数日後に届くはずのゲラに最小限の修正は入るとしても、拙稿が掲載されることはこれで確定したので、一言、前宣伝させていただきます。『現代思想』6月号「特集=肉食主義を考える」(5月27日発売)に掲載されます。こちらが青土社さんの該当頁です。表紙も目次もまだ確定していないようなので、拙論のタイトルも伏せておきます。発売されたらまた宣伝させていただきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


反イズム主義者の悲哀

2022-04-26 23:59:59 | 雑感

 個人的には、エゴイズムにも、ペシミズムにも、オプティミズムにも、ヒューマニズムにも、イデアリズムにも、ニヒリズムにも、プラグマティズムにも、ヘドニズムにも、アニマリズムにも、エコロジズムにも……、数え上げるのが面倒くさくなったから一言で言えば、およそいかなる「〇〇イズム」にも陥ることがないように日々警戒するだけで、もう箸の上げ下ろしも厭わしいほどにヘトヘトなんですけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


多元的行動論序説

2022-04-25 00:00:00 | 哲学

 老生は、動植物の権利擁護を声高に訴える運動家でもないし、肉食を悪魔的行為として異端審問官のように糾弾する完全菜食主義者でもないし、ラディカルなだけが取り柄の乱暴な反種差別主義者でもない。すべての生物種は平等であるとする哲学的根拠を見出せてはいない(多分無理だろう)。一切の殺生を罪とする徹底的に非暴力的な宗教観にも到達できていない(これも自分にはありえなさそう)。
 日常の食事では、野菜料理中心とはいえ、肉食もするし、チーズは好きだし、卵はほぼ毎日一個食べる。ヨーグルトも、いっとき遠ざかったが、また「レギュラーメンバー」に復帰した。要するに、なんでもいただく一匹の雑食動物である。ただ、いただく以上は、どのような食材も無駄にすることなく、環境破壊に積極的に加担することなく、適量を美味しくいただきたい、ただそう願っているだけである。
 他方、食をめぐる(いや、食だけではないか)過剰と欠乏との間で均衡を失っている現代の巨大な生産・消費社会を現状のまま放置しておいてよいとも思ってはいない。個人としてできることを自己満足的にするだけでよいとも思わない。言論の世界で御託を並べるだけでよいはずもない。常に利害を巡る対立に左右される政治的活動は、それだけでは持続に自立した行動にはなりえない。
 行動は多元的であるべきだと思っている。具体的には言えば、その多元的行動を〈個人-社会-普遍〉の三次元で考えている。個人的次元においては、〈食べること〉が万有とのコミュニオンであることを自覚しつつ〈食べられるもの〉をいただくこと。社会的次元においては、現実の行動における漸進性と柔軟性とプラグマティズムを原則とした社会的・政治的運動への参加あるいは協力。普遍的次元においては、科学的知識に基づいたコスモロジー的省察。これら三次元は相互に有機的に媒介し合っており、単独では成立しない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


感性的環境論―動的均衡美の探究

2022-04-24 00:34:58 | 雑感

 論文には書けない心の叫びをここに書かせてください。

 特定の宗教によって肉食の是非に最終的な決着をつけることはできない。何を食べてよいか/食べてはならないかを政治的決定に委ねることもできない。倫理的存在価値を動物や植物にまで拡張しても、動植物の権利を主張しても、それだけでは動植物がそこで生きる環境を改善することはできないし、生態系の破壊も止まらない。
 動植物に関する哲学的言説が、哲学・思想ギョーカイの「売れ筋新商品」に過ぎないのならば、そして、それらの商品が紙媒体で売れるだけのことならば、著者と出版社は、森林破壊を糾弾する書籍で利益を上げながら、森林破壊に加担していることにならないのか。動物たちには理解できない言語で書かれた動物権利擁護本が売れたとき、儲かるのは出版社であり、印税を受け取るのは著者であって(慈善団体に寄付する人もいると思うが)、動物たちには一銭も入らない。そもそも、「私たちの代わりに私たちの悲惨な状況を訴えて」って、いつ動物たちが頼んだ? 
 言っておくが、だから何をしても人間どもの自己満足にすぎないなどと乱暴なことが言いたいのではない。ただ、いったい誰のための、何のための議論なのかと、私自身、論文を書きながら問わざるを得なかったのである。
 地球環境の現状を変えていくには、経済の力も政治の力も必要だ。悪化した環境を改善するには科学技術も不可欠だ。国際的な協力関係も必須だ。しかし、これらいずれの要素もそれだけでは現状改善のために十分に機能し得ない。現状の改善は、それらの可変的・可塑的な諸要素が協働しうる均衡点を見つける作業と不可分だ。この均衡点は固定的ではなく、その都度の所与の条件によって位置が変化する。この動的均衡点をどうやって見出すか。それを誰がやるのか。プロジェクトの規模が大きくなればなるほど、難問は山積する。
 人間の、限度を知らない欲望を満足させるためだけの―いや、限度を知らないのだから、決して満たされることはない欲望のための―森林破壊も動物の屠殺も美しくない。それらの光景は私たちに嘔吐さえ催させる。それらの行為は、生きている形あるものの破壊という点で同じである。
 残念ながら、現実的にはそれら一切の破壊行為を直ちに全面的に禁止することはできない。それを最終的には目指すとしても、今できることは、可変的諸要素間の常に危うい動的均衡を保つべく努力し続けることだろう。その均衡の具体的維持には、科学技術も政治も経済も必要だ。簡単なことではない。それはわかっている。
 どこに希望を見出せばよいのだろう。希望など、抱くのが間違いなのだろうか。
 バランスの取れたものは美しい。それは、人に教わらなくても、感性によって直感的に把握されうる。もしこの美の直感が人間にもっとも公平に付与された能力であるのならば、たとえナイーブだと言われようとも、私はそこに未来への希望を見出したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


売られた喧嘩はどうか買わないでください

2022-04-23 16:57:15 | 雑感

 今、私は、別に虫の居所が悪いわけではく、それどころか、原稿は推敲の最終段階に入って気持ちに余裕があるくらいなのだが、その原稿を書いているうちに、これはとても論文の中には書けないなあと思いながら、過激な肉食反対論者(完全菜食主義者と同義ではない。自分たちは善だと妄信して、「敵」に対してやたらに攻撃的な発言を執拗に繰り返すシソー家や運動家たちだけを指す)に対して、「温厚」な私にしては珍しいことなのだが、ちょっと喧嘩を売りたくなってしまい、勢いで書き殴った挑発的な文章がある。それを以下に恐る恐る公表する。

 肉食の是非について識者たちが激しい論戦を戦わせている間にも、生態系破壊は悪化の一途を辿っている。人類にとって、生態系破壊に歯止めをかける方策を立案し、実行に移すことのほうが、肉食が倫理的に悪であるかどうかの議論に決着をつけることより喫緊性の高い課題であると私は考える。
 しかし、それは、肉食の習慣を現状のまま放置しておいてよい、ということを意味するのではない。より大きくかつ緊急性の高い課題の中に、肉食の是非の問題を相対的位置づけ、現実的な妥協点あるいは均衡点を探るべきだと言いたいのである。
 個人的に肉食をやめること、肉食反対運動を同志とともに展開すること、食肉産業をめぐる法律・政策・行政を批判すること。これらのことと、肉食を人間の食生活から全面的に排除すること(abolitionnisme)とは次元がまるで違う問題である。後者は、動物倫理の個人的あるいは集団的実践やそのための市民運動や政治的活動という次元にはとどまらず、一国の、ひいては世界全体の産業構造・経済活動そのものの大きな変化に関わる問題だからである。
 繰り返し言うが、だから肉食廃絶は非現実的だと言いたいのではない。論争だけなら、とことんやればよい。問題点を明確にするためにもそれは必要だろう。完全菜食主義を実践する人たちはもちろん自由にそれを続ければよい。しかし、仮にある国でそれまでの肉食の習慣を廃絶する方向で全員の意見が一致したとしても、その実現のためには、複雑に絡み合う諸問題を一つ一つ時間をかけて解決していかなくてはならない。それは完全菜食主義者たちだけではできないことである。
 現状においては、大半の人が肉食を継続しているからこそ、畜産業・食品加工業・食品流通・食産業及び関連産業が成り立っているのであり、この経済的条件下においてのみ、菜食主義者は自らの主義を貫けているのである。もし皆が突然一斉に肉食を止めたら、この産業構造が破壊され、菜食主義者たちにとっても最低限必要とする食料の供給さえ困難になってしまうかもしれない。少なくとも現状においては、菜食主義者たちは、自分たちの主義を実践するために、実のところ、肉食を続ける多くの人たちとその人たちに食肉を提供する産業とを必要としているのだ。
 それに、人間が肉食を止めたことで、「解放された」家畜たちの世話は誰がするのか。「勝利した」肉食反対論者たちが責任を持つのか。それとも、今まで「悪業」に携わってきて、家畜解放のおかげで失業した肉食産業関係者たちに「罪滅ぼし」としてその世話を押し付けるのか。
 多くの肉食反対論者たちは、自国の肉食の習慣が突然なくなるなどということは実際には起こらないと確信しているから、そして、肉食に関わる業種で働いている人たちの大量失業など、「些末な」問題だと口には出さなくてもそう思っているに違いないからこそ、自分たちの菜食主義の継続に必要な食品の入手に不安を感ずることなく、肉食反対・廃絶という主義主張を、それが倫理的に善であることを信じて、声高に叫んでいるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


〈食べる〉ことの神秘 ― ジャン・ヴァール『ヘーゲル哲学における意識の不幸』より

2022-04-22 23:59:59 | 読游摘録

 「食べる」ことについての哲学的考察を二十世紀フランスの様々な哲学書の中から拾い出す作業をしているとき、ジャン・ヴァールの『ヘーゲル哲学における意識の不幸』(Le malheur de la conscience dans la philosophie de Hegel 初版1929年 第二版 PUF 1951年)の次の一節に行き当たった。

 L’acte de manger qu’un romantique comme Schlegel prend volontiers comme terme de comparaison est un acte mystique par lequel l’objet et le sujet se confondent : le Christ devenu objet redevient sujet, de même que la pensée devenue mot redevient pensée de celui qui lit. Mais la lecture donne une idée qui n’est pas encore très exacte du processus, car il faudrait que le mot disparût comme chose par le fait même qu’on le verrait comme esprit. La nourriture assimilée redevient être vivant. la vie rentre dans la vie. L’objet, produit de la séparation, retourne au sujet. Il y a vraiment ici une synthèse subjective. p. 164-165.

 ヘーゲルの宗教哲学の要所を説明している節の中の一段落である。シュレーゲルのようなロマン主義者たちが宗教と哲学との違いを説明するとき、あるいは哲学が最終的には宗教に至らなくてはならない理由を説明するとき、好んで引き合いに出すのが「食べる」という行為である。それは、〈食べること〉が〈食べるもの〉と〈食べられるもの〉とが融合する神秘的な行為だからである。聖餐式においてパンを食べることは、その行為を通じて、客体化されたキリストの体が再びに主体になることである。同化された食べものはかくして再び生けるものとなる。いのちがいのちの中に帰る。いったんは切り離されて客体化されたものが、再び主体へと帰る。まさにここに主体的総合がある。
 およそこのような内容だが、いろいろと考えるヒントを与えてくれた。今回の論文には引用しないが、後日別の機会に引用することもあろうかと、1951年の第二版を古書で購入した(参照したのが電子書籍版で頁数がわからなかったからである)。市場にはよく出回っているようで、日本円にして2千円程度で入手できた。
 ただ、七十年以上も前の本で、しかも紙質も悪く、製本も粗末で、背表紙は剥がれ落ちそうになっている。中身はおそらく開かれたことがほとんどなく、書き込みもなければ、折れもシミも虫食いもない。剥がれ落ちそうになっている背表紙を接着剤で貼り直した上で、表紙・裏表紙・背表紙を包むようにブックコートフィルムを貼って外側を補強した。こういう作業は嫌いではない。それに、これは、この本に、いやその著者に対する、感謝のしるしでもある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『中世に動物たちと共に生きる』― 出逢えてよかった一冊の本

2022-04-21 23:59:59 | 読游摘録

 今回の執筆した原稿のテーマは、大きく言えば、現代社会における〈食べるもの・こと〉と〈食べられるもの・こと〉との関係を問うことです。特に、肉食批判論の根拠を現象学的存在論の観点から考察しました。その考察の前提として、肉食批判、反種差別主義、完全菜食主義、動物権利論、動物倫理、環境倫理、自然倫理、地球環境危機、生態系破壊などの問題をめぐって前世紀末から欧米で展開されてきた議論を通覧しておく必要がありました。
 そこで、これらの問題に関してフランスでここ十年あまりに刊行された関連書籍を数十冊購入したのですが、その中には、いくら「動物つながり」とはいえ、購入を正当化するのがちょっと苦しい書籍も何冊かありました。その一冊が今年刊行された Chiara Frugoni, Vivre avec les animaux au Moyen Âge. Histoires fantastiques et féroces, Les Belles Lettres(イタリア語原書 Uomini e animali nel Medioevo は2018年刊)です。著者は、著名なイタリア人中世史家で、かねてよりアッシジのフランチェスコの優れた伝記の著者として存じ上げておりました。今月8日に82歳でお亡くなりなりました。ご冥福をお祈り申し上げます。
 本書は、中世人たちがどのように動物たちを見、共に生き、あるいは恐れ慄き、そして表象化し、見たこともない恐ろしい動物をいかに想像力豊かに空想したかを多数の図版とともに生き生きと叙述しています。そのなかには、聖書的な世界観から逸脱する動物観も示されており、キリスト教的世界像には収まりきらない中世人たちの現実生活が空想動物たちも含む動物たちとの多様な関係を通じて鮮やかに描き出されています。
 原稿執筆に倦むと、本書の図版を楽しみながら拾い読みして疲れを癒やしました。今回の原稿の主題に「歴史的な観点から関連している」といういささか無理のある理由づけで自分を納得させて購入しましたが、ほんとうに出逢えてよかった一書と喜んでいます。