内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第二章(七)

2014-03-27 00:00:00 | 哲学

2.2 行為的直観の原基的次元

 行為的直観には、区別されるべき二つの次元がある。まず、すべての種的な行動、つまり、ある種に固有の諸行動は、原基的次元にある行為的直観と見なされる。この意味での行為的直観には、諸動物たちの種的行動もすべて含まれる。それに対して、高次の行為的直観は、人間においてのみ現実化される。
 ある種に固有の行動がその種に固有の環境の中で生ずるとき、この行動は、その主体が見出される環境そのものの中に、諸事物の形態 ― 西田が「形」と呼ぶもの ― のある配置を描き出す。このことが意味するのは、世界のある構成形態は、この行動そのものによって直接に現実化されているのであり、この行動が、それが実行される環境にとっても、その行動の主体にとっても、現実的な、諸々の形のある配置を現出させているということである。生きた身体がそれ固有の環境においてある一定の仕方で行動するということは、その行動の主体によって環境がその環境として限定されるということと同時に、その主体もその主体として自らがそこにおいて行動する環境によって限定されているということを意味している。そこにおいて、環境を構成する諸事物の認知が身体的行為よって直接的に形として表現されているとき、行為的直観が実行されていると言うことができるし、その逆も言うことができる。このいわば動物的次元においては、主体と環境との関係の変化の可能性を認めることは、両者によって保たれている事物の諸形態の配置が変化を蒙ることがありうるかぎりにおいて正当と見なせるが、創造の契機をそこに導入することはできない。なぜなら、この次元では、主体はその環境にも自己自身にも、所与に対して新しい構成形態を自ら作り出すことはできないからである。この次元での行為的直観において現実化されているのは、主体と環境との形態的相互限定である。この意味において、西田は、「主体が環境を形成すると云うことは、逆に主体が否定せられることでなければならない」と言っているのである。
 この主体の否定についてのテーゼを上述した文脈の中で理解することができれば、「行為的直観的に物を見ると云うことは物が否定せられるべく見られることである。主体は自己自身を否定するべく形成するのである」と西田が書くとき、「否定する」という動詞にどのような意味が込められているのかがわかる。物が見られるとき、その物は、ある特定の限定された形において見られるという意味において、「否定」されている。しかし、これは、見る主体によって一方的に実行され、見られた物はただそれを受容するしかないような否定作用ではない。まったく反対に、ある物がある形において見られるというまさにそのことによって、主体は、ある限定された仕方でこの物を見ているという点において、その物から否定されているのである。