内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

電話の使い方についての愚痴愚痴愚考

2018-01-31 23:30:44 | 雑感

 あのーですね、一昨日・昨日と、ちょっとよさげな話をこのブログでしちゃった後なんで、いささか申し上げにくいんですけど、今日の記事は、一転、それを読む人をおそらくはげんなりさせるような、ちょっといやな内容になりそうなんです。前もってお詫びします、ごめんなさいね。
 それに、さまざまなコミュニケーション手段を颯爽と使いこなす今の若い人たちからすれば、「はあぁ? 何それ? いつの時代の話?」っていうような、つまらない話に過ぎないんです。
 あっ、別に酔っ払っているわけではありませんよ(って、酔っぱらいは必ず言うけど)。
 さて、皆様、いろいろな通信手段・コミュニケーション・ツールで日々相当な数の連絡を受け取られていることと拝察申し上げます。わたくしも、毎朝メールボックスを開くのが憂鬱になるほどの数のメッセージを受け取ります。
 そういう状況下にあって、私がそうであることを知っているであろうにもかかわらず、自分の一方的な都合で「電話しろ」ってメッセージ残す輩に対して、私は、原則、一切応答しません。そもそもかかってきた電話も無視します。
 先方にしてみれば、自分にとって簡単にことを済ませたいから、電話をするのでしょうし、メッセージを残すのでしょう。でも、こっちは多数の案件を同時に処理しなければならない立場にあるのです。客観的な重要度に応じて、何から処理からすべきか考えて行動しているのです。それを一切無視して、「電話しろ」って、メッセージを残す、あるいはSMSを送りつけてくる輩に対して、たとえそれがいわゆる「目上」であろうが、私は一切無視します。
 他に連絡の手段がない時代ではないのです。一行のメールで済む話なのに、電話しろって、どういうことですか。電話で話している間、その大して重要でもない話題のために、私は外のことが何もできなくなるのですよ。それがどれだけの時間の浪費になるか、それを思いやるだけの知力もないのでしょうか。嘆いているのは私一人ではないことを知っていただきたい。













私を手助けしようと声を掛けてくれた少女への感謝の言葉

2018-01-30 23:21:00 | 雑感

 昨日、昼の話し合いの後の帰り道、こんなことがありました。
 スーパーでちょっと買い物をしようと、自転車を駐輪用の柱に施錠をしようとしていたときのことです。見つけた柱には、すでに施錠してあった別の自転車がありました。その自転車は、私がそこに来る前に横倒しになっていたのです。それは無視して(倒したの私じゃないもんねー)、同じ柱の別の側に私は自分の自転車を施錠しようとしました。
 そのときのことです。そこを通りかかった、おそらくは下校途中であろう小学校四年生くらいの女の子が、その誰のものとも知れない自転車を私が倒してしまったと思ったのでしょうかね、「あのー、倒れた自転車起こしましょうか」と声を掛けてくれたのです。
 予想外のことで、ちょっとどきまぎしながら、「あっ、ありがとう。でも、いいよ、自分で起こせるから大丈夫だよ、うん」と私は答え、その倒れた自転車を引き起こし、柱に立てかけました。
 倒れていた自転車は大人用のけっこうごついやつで、華奢な少女に手伝ってもらうような代物ではなかったのです。でも、通りすがりのその少女の一言がなければ、私はその自転車を倒れたままにしておき、自分の自転車だけを柱に施錠し、買い物を済ませ、涼しい顔で帰宅していたことでしょう。少女に声を掛けられたからこそ、その誰のものとも知れぬ自転車を私は引き起こしたのです。
 彼女はなぜ私に声を掛けたのでしょう。家庭で、あるいは学校で、困っている人がいたら手助けの声を掛けなさいと教わり、それを実践したのでしょうか。それはわかりません。
 私の目をまっすぐ見ながら声を掛けてくれたその少女は、きっと勇気を奮って、仏語を解するかどうかもわからない貧相な異国人である私に声を掛けてくれたのでしょう。「ああ、ありがとう。じゃぁ、ちょっとこの自転車起こすの、手伝ってくれるかなぁ」、そう私は答えるべきだったのかもしれません。そして、少女といっしょに倒れた自転車を起こすべきだったのかも知れません。そうしていれば、今日こんなことがあったよと、彼女は嬉しそうに夕食の席で家族に話せたのかも知れません。
 ごめんね、鈍感で。でも、少女よ、ありがとう。君の一言は、確かに私を動かしたのだよ。君の一言がなければ、私は何もしなかった。君の一言で私がしたことは、確かに、してもしなくてもどうでもいいような、ほんとうに取るに足らない些細なことに過ぎません。
 だけれど、些細なたった一言が人を動かしうるということを、そういう一言を発する勇気をもつことの大切さを、君は私に教えてくれたのです。












明日から吹く風の色が少し変わるかもしれないという今日の午後の予感

2018-01-29 23:41:16 | 雑感

 今朝、目覚めたときは、ああ、また何もいいことがないであろう暗い一日が始まってしまったよという、ちょうどそのときの空模様と同じような重い気分でした。それはそれとして、午前7時からはいつものプールに泳ぎに行きましたけど。その後、午前中は、3月の発表原稿の準備になんとか気持ちを集中させました。
 昼、ある話し合いのために人に会いました。その話し合いの後、見上げる空は相変わらず曇っていましたが、心には晴れ間が広がるようになりました。
 傍から見れば、なんということはない一日でした。でも、私個人にとっては、ちょっと大袈裟に言えば、昨日までとは違った時間が明日からは流れるだろうと言ってもいいほどに、一つの転回点をなす一日になりました。
 具体的に何か特に大きなできごとがあったわけではありません。そういう意味では、何も変わりません、昨日と今日と。何か大きな案件について目に見える進展があったわけでもありません。心配事はやはりあるし、もしうまくいかなかったら諸方に迷惑がかかるだろうと懸念されることは、今でもあります。
 でも、それはそれとして、差し迫る案件に対して、一つ一つ、事の軽重と情況の変化に応じて対処していくことに、少し自信のようなものが、今日、得られたのです。
 もしかしたら、それは、しょうもない一人合点、手前勝手な勘違いかも知れません。またにっちもさっちもいかなくなって頭を抱えることになるかもしれません。
 ただ、たとえそうであったとしても、もう少し自分を信じてもいいのかもしれない、と思えるようになったのです。そんなに自分は駄目駄目ばかりでもないのかなという気持ちを、今日の午後、あたかも空を覆う鈍色の雲間から一筋の日が思いもかけず射すときのように、恵まれたのです。














運命と偶然との間で揺れ動きながら、私たちは生きている

2018-01-28 21:49:06 | 雑感

最近、仕事の後、毎晩のように映画を観ています。以下は、今日ある映画を観た後で心に浮かんだよしなしごとです。

 運命は物理的法則ではない。もしそうだったならば、それを愛することも憎むことも私たちにはできない。運命はそれを避けられない。その点は物理的法則と同じだ。にもかかわらず、運命を愛するか憎むかは私たち次第だ。そこが物理的法則とは違う。
 偶然は単なる不慮・想定外の事態ではない。もしそうだったならば、それを愛することも憎むことも私たちにはできない。偶然はいつでも起こりうる。想定外でしたと言って済ますこともできる。にもかかわらず、それを自分の人生の出来事として引き受けるかどうかは私たち次第だ。そこが単なる不慮・想定外の出来事とは違う。
 どうにもならない物理的法則と単なる不慮・想定外の事態という両極の間で、私たちは運命と偶然との間で揺れ動き、否応なくその都度選択せざるをえず、その選択の結果は自らのそれとして引き受けつつ、その結果に一喜一憂しながら生きている。
 私たちがそうであることを望むと望まざるとにかかわらず、そうできるように私たちが創られていることそのことが生命なのだろう、そう私は思う。














〈生命〉についての学問的対話への招待 ― ヤーコプ・フォン・ユクスキュル『生命の劇場』

2018-01-27 18:19:48 | 読游摘録

 本書は、1995年に博品社から出版され、2012年に講談社学術文庫として再刊された(私が参照しているのは、2017年2月刊行の電子書籍版)。
 独語原著は、1950年に遺稿として出版された、Das allmächitige Leben, Christian Wegner Verlag, Hamburg である。原著の表題は、直訳すれば、『全能なる生命』ということになる。訳者たちの判断で、邦訳の表題は『生命の劇場』とされた。理由は、訳者たちによれば、「総譜という音楽的な構成計画に従って生のドラマが演じられるという、生物の世界への演劇的なアプローチが本書に窺われるから」である(「訳者あとがき」より)。
 本書は、対話の形式をとっているが、そこに登場するのは、大学理事(フォン・K氏)、宗教学者(フォン・W氏)画家、動物学者、生物学者の5名である。この内、直接に論戦が交わされるのは動物学者と生物学者のあいだであり、ここで生物学者はおそらくユクスキュル自身の見解(環世界論)を示し、動物学者はそれに対立する(機械論)を代表している。宗教学者と画家は、それぞれの立場から、基本的には生物学者の見解を補強する役割を担っている。そして大学理事は、同じく基本的には生物学者の見解に同意しつつも、対話のまとめ役として、全体の議論を調整・総合する働きを示している。全体として、ユクスキュルにとって、「生命に関する長年の思索の総決算」と見なすことができる(「学術文庫版のあとがき」より)。
 本書は、個々の個体の生命を生かしかつそれらを超え包む〈生命〉についての学問的思索へと私たちを招いている。
 ユクスキュルの機械論的生命観批判は、サイバネティクスやシステム理論に引き継がれている。そのサイバネティクスとの批判的対話を通じて自らの理論を形成したシモンドンがユクスキュルに講義の中で何度か言及しているのは、だから、偶然ではない(特に、Communication et information, PUF, 2015(Les Editions de La Transparence, 2010) に収録された 1968年の講義 « Perception et modulation » 参照)。












3月から8月までに予定されている研究発表・講演・集中講義について(5)― 現代哲学特殊演習 「個体・技術・倫理(シモンドン哲学入門編)

2018-01-26 00:00:00 | 哲学

 すでに1月9日の記事で取り上げたことだが、今年で8年目になる東洋大大学院での夏期集中講義「現代哲学特殊演習②」では、5日間にわたってシモンドンの哲学への入門的演習を行う。シラバスはすでに大学のサイトに入力済みである。その中から「講義の目的・内容」をそのまま転載する。

 本演習は,日本では一般にまだほとんど知られていないフランスの哲学者ジルベール・シモンドン(Gilbert Simondon, 1924-1989)の哲学を紹介することをその目的としている.
 シモンドンの主な専門領域は,個体化の哲学と技術の哲学である.技術的対象(工業製品)を初めて哲学的考察の対象とした点で画期的な哲学者である.独自の個体化の哲学に支えられたその技術の哲学は,今日,正当に再評価・再検討されるべき時を迎えている.
 シモンドンは,1958年に国家博士論文の主論文 L’individuation à la lumière des notions de forme et d’information と副論文 Du mode d’existence des objets techniques を提出する.後者において展開された技術の哲学は同時代のフランスの哲学者たちから高く評価された.
 ところが,主論文の個体化の哲学の方は,その特異な出版事情もあり,シモンドンの生前に十分に理解されかつ正当に評価されたとは言いがたい(例外は、ドゥルーズが1966年に発表した書評).
 シモンドン自身にとっては,しかし,技術の哲学と個体化の哲学とは不可分である.後者が切り開く広大な総合的人文・社会・自然科学的パースペクティヴの中に位置づけられてこそ,前者の現実社会での実践的射程も明らかになることは最初からシモンドンによって十分に自覚されていた.
 シモンドンの哲学がその全体として再評価され始めるのは,その死後のことである.最初のモノグラフィー が出版された1993年以降、「シモンドン・ルネッサンス」は本格化する.特に,2005年に1958年の主論文の完全版が初めて出版されると,以後毎年のように講義録や講演記録が出版あるいは再刊されるようになり,それと同時に研究書の出版も相次ぐようになった.シモンドンの先見性と独創性とが広く理解されるようになるのに,約半世紀を要したのである.
 シモンドンの哲学の今日における重要性を理解するためには,1958年の博士論文の主論文と副論文とを精読することから始めなければならない.本演習では,仏語原文を随時参照しつつ,私自身が準備する邦訳をテキストとして使用する.

 シモンドンの著作すべてとシモンドン研究の主要な仏語文献とはすべて手元に集めてある。それらも随時参照しながら、少しずつ講義ノートを作成していきたい。

 日々、研究への集中を妨げる様々な雑音の襲撃を四方八方から受けている。立場上それは避けがたい。しかし、だからこそ、それら一切を遮断し、それらから己を離脱させ、考察されるべきことそのことに思考を集中させる時間を、毎日、たとえ数分でもいいから、必ず確保すること。それが、私にとって、日々の哲学演習にほかならない。






















3月から8月までに予定されている研究発表・講演・集中講義について(4)― 主体と個体 ― シモンドンの個体化の哲学から西田と田辺を読み直す

2018-01-25 15:10:50 | 哲学

 6月30日にはパリのイナルコで発表する。日本学研究センターの日本哲学研究グループの研究会での発表である。その日、ライプツィヒにお住まいの小林敏明さんが同グループに招かれて講演される。それに併せて何か発表してくれないかとグループの主催者から打診があったので、小林さんに会うのも久しぶりだしと引き受けた。講演の前座になるのか、その後の蛇足になるのか、それは主催者の判断に任せることにして、発表内容を考え始めた。
 2016年12月にブリュッセル自由大学での講演で、西田幾多郎、田辺元、G. シモンドンの三者の相互媒介的な読解の可能性について発表したのだが(発表原稿は、European Journal of Japanese Philosophy N° 2 2017 に掲載されている)、そのときは、西田哲学と田辺哲学とを「和解」させるためにシモンドンを援用するという形をとった。今回は、シモンドンに重点を移し、シモンドンの個体化の哲学の視座から、西田における主体概念と田辺における個体概念をとらえ直す視角を開きたい。
 発表のスタイルとしては、L’individuation à la lumière des notions de forme et d’information (Jérome Millon, 2005)の310頁の « Sujet et individu » と題された半頁あまりの短い節(2段落)の注解という形をとる。この一節には、個体化の哲学の全体が〈主体〉と〈個体〉との差異をめぐる論述の中に集約されている。だから、この箇所を一文一文注解していくことで、個体化の哲学の概観を示すことができる。その視座から開かれる視角の中で、最後期の西田哲学における〈主体〉と田辺の「種の論理」における〈個体〉とをそれらの可能性において読み直すことを試みる。












3月から8月までに予定されている研究発表・講演・集中講義について(3)― 古代日本における信仰と自然観

2018-01-24 23:59:59 | 哲学

 4月に予定されているのは、ブリュッセル自由大学での25日・26日の2日間の講義。それぞれ3時間の計6時間。対象は主に修士課程の学生たちとのことだが、日本のことはほとんど何も知らない学生たちを対象とした東洋哲学についての講義の一環だと聞いている(一連の講義のプログラムについては、この記事に貼り付けたポスターを参照されたし。クリックすると別のウィンドウで拡大版が表示されます)。昨年4月には、同じ枠組みで「心はどこにあるか」というタイトルで2時間の講義を行なったが、今回は時間が3倍に増えている。
 「古代日本における世界観の中の自然の諸要素」というのが自分で選択したタイトル。二日に分かれているので、それぞれひとまとまりになっている話をするつもり。
 一日目は、「カミと自然」と題して、古代日本におけるカミと自然との関係について話そうと思っている。参考文献は、大野晋『日本人の神』(河出文庫)、末木文美士『日本仏教史』(新潮文庫)、同『日本仏教入門』(角川選書)、鎌田東二『神と仏の出逢う国』(角川選書)、松前健『日本の神々』(講談社学術文庫)など。その他にも、折口信夫、柳田国男、上田正広などの諸著作も参照されるだろう。
 二日目は、「視覚と自然」と題して、萬葉集における「見ゆ」の用法に焦点を合わせ、古代日本人の自然との関係について話す予定。佐竹昭広「「見ゆ」の世界」(岩波現代文庫『萬葉集抜書』所収)を手がかりとして、伊藤博『萬葉集釋注』(集英社文庫)、白川静『初期万葉論』(中公文庫)、唐木順三『日本人の心の歴史』(筑摩書房)なども参照しつつ、「見ゆ」という動詞に込められた自然との繋がり方を解きほぐしたい。












3月から8月までに予定されている研究発表・講演・集中講義について(2)―「空」の立場から見られた〈実体〉・〈個体〉・〈主体〉、あるいは宗教・哲学・科学の相互関係について

2018-01-23 19:22:25 | 哲学

 3月21日にシンポジウムで発表した翌週の火曜日27日には、大学の中央キャンパスに大通りを挟んで面しているドミニコ修道会付属のエマニュエル・ムーニエ・センターで講演をする。
 この講演は、 3月から4月にかけて国立ライン歌劇場で開催されるフェスティヴァル Arsmondo Japon に合わせて、同センター主催で行われる。フェスティヴァルのメイン・プログラムは、三島由紀夫『金閣寺』を原作とした黛敏郎作のオペラ『金閣寺』のフランス語での上演であるが、講演の依頼内容は、なぜか西谷啓治の『宗教とは何か』について話してほしいということであった。
 同書に見られる「空」の立場については、2013年に一度パリで話したことがあり、そのときは一部しか読めなかった原稿は、現在、« Le Ciel vide et la terre saturée. Le néant médiateur, silencieux, ouvert et passible » と題して、論文集 Notions esthétiques. Résonances entre les arts et les cultures, Harmattan, 2013 に収録されている。
 今回も、同書の中心的テーマである「空」について話す。特に、実体、個体、主体などの概念が「空」との関係でいかに規定されているかを見ることで、「空」の立場から宗教と哲学と科学の相互関係をどのように捉え直すことができるかを問題にする。その中で、 Francisco Varela / Evan Thompson / Eleanor Rosch, L’inscription corporelle de l’esprit. Sciences cognitives et expérience humaine, Seuil, 1993 と Gilbert Simondon, L’individuation à la lumière des notions de forme et d’information, Jérôme Millon, 2005 とが問題場面を明確化するために援用されるだろう。













3月から8月までに予定されている研究発表・講演・集中講義について(1)― 言葉の受肉、あるいは logophanie

2018-01-22 20:45:38 | 哲学

 3月から8月までの半年間に予定されている研究発表・講演・集中講義のテーマについて、それら全体を包括する見通しを立て、概念的考察のレベルでの相互的な脈絡をつけるために、今日からの五日間、このブログの中で一日に一テーマずつ取り上げ、その概略を整理しておきたい。
 最初は、3 月 21 日から三日間にわたってストラスブール大学で開催される国際演劇・視覚芸術学会シンポジウム「身体とメッセージ/ 翻訳と翻案の構造」で行う発表のテーマについてである。昨年6月の応募の際には、「行為的身体の詩学 ― 舞台における言葉の顕現あるいは「言葉の受肉」」というタイトルで発表するつもりで、タイトルに合わせて数行の要旨もシンポジウムの学術責任者に送っておいた。
 ところが、最近になって、発表内容がタイトルと要旨から遠ざかる方向に展開しはじめてしまった。これはこれでしかたがない。もうプログラムは印刷に回されてしまっているだろうから、タイトルはそのままにし、発表当日になんとか辻褄をあわせることにする(ちょっと苦しいが)。
 この発表では、多声部からなる詩作品が舞台空間で複数の人物によって演じられた場合を想定し、その仮想的舞台空間の中でその詩作品の演劇的効果を分析することを試みる。分析対象となる詩作品は、『万葉集』巻第八の山上憶良の「七夕の歌十二首」(1518-1529)である。
 実際、この一連の七夕歌は、多声部からなる複数の短歌の掛け合いとして宴席で披露されたと考えられ(伊藤博『万葉集の歌群と配列〈下〉(古代和歌史研究)』、『萬葉集釋注』)、複数の登場人物と作者のナレーションからなる演劇性をもった歌群として読むことができる。このような読み方によって、複数の肉声の交響の中の「言葉」の顕現、あるいは「言葉の受肉 logophanie」をこの歌群の中に捉えることがこの発表の目的である。