内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

明日から私は

2023-09-30 23:59:59 | 雑感

 今日が締め切りだった論文を、午後一時過ぎ、その論文が収録されるはずの共著の編集責任者に送信した。夕刻、受領のメールが届く。これで一応、今回の論文作成は完了。
 来月は、論文の締め切りはないが、五日にカナダのラヴァル大学でのシンポジウムでのオンライン発表があり、半ばまでに査読がひとつ、月末までにある論文の改定作業を終える必要がある。それに十一月末のパリ・ナンテール大学での発表の準備も十月から少しずつ進めておきたい。「ハイデガーとともにパスカルを読む」というテーマで三木清のパスカル論を取り上げるので、主要文献をじっくり読み込んでおきたいからだ。
 月初めには、今月は論文の締め切りがあるから、ジョギングはすこし控えめにしようかと思っていたのだが、結局、毎日走り、走行距離もちょうど三百キロ。上旬にネット上でスロージョギングを勧める記事を読み、そこに説明されていた走り方を取り入れたら、とても調子良く、楽に走れるようになった。十月も、毎日、同じ調子で淡々と走り続けたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「当たり年」を言祝ぐ

2023-09-29 23:59:59 | 講義の余白から

 今年度の授業が始まって今日で三週目が終わったところだ。全体としてほぼ順調だ。学部二年の日本古代史の授業は特に楽しい。去年とほぼ同じことを話しているのに、教室の雰囲気が去年とまるで違う。毎回、最後までよく集中して聴いてくれるし、質問もよく出るし、私の問いかけに対する反応も概してよい。
 出席者数は五十数名。去年も同じくらいだったが、二百五十名収容の窓のない階段教室だった。今年は七十名収容の平らな教室で、ちょうどよいサイズだ。それに、その側面の一方にはキャンパス中央に向かって大きな窓が並んでおり、電気を付けなくても十分に明るい。今月は暑い日が続き、窓を開けて授業をしていると(あっ、フランスの大学をご存知ない方のために一言申し上げますが、一般の教室に冷房装置はありません)、キャンパスのメインストーリートからのざわめきが聞こえてくるが、授業の妨げになるほどではない。
 前期の前半の六回しか担当しないから、もう半分は終わったことになる。六回目の授業の翌週に中間試験を行えば、この授業に関してはお役御免となる。その気楽さも手伝っているのかも知れないが、こちらの舌も滑らかだ。
 先週、授業のはじめのほうで、一瞬、教室の中も外も静まり返ったとき、メインストーリートから、意外なことに、「パパ、パパ、どこにいるの?」と小さな男の子の半泣きの声が聞こえてきて、私が「お父さん、見失っちゃたんだね。かわいそうだねぇ」と一言反応したら、教室がどっと笑いに包まれた。
 毎年、年度初めに思う。同じ学年なのに、どうしてこう年によって雰囲気が違うのだろうか、と。授業内容そのものは、それに左右されることはないが、話しているこちらの気分はまるで違う。こっちが気持ちよく話していれば、それは学生たちにも伝わり、彼らの方も活気づく。いわば相乗効果があるわけで、今年のようにプラスに働くときはいいが、マイナスに働きだすと修正は簡単ではない。去年の二年生の後期は実に陰惨だった。
 去年の三年生もとても雰囲気のよいクラスだった。それが学年を通じて変わることなく、最後まで出席者数が落ちることもなかった。そのクラスの半数近くの十八名が今年のマスター一年に進学していて(うち三名は文科省の奨学金で一年間日本に留学中)、去年のいい雰囲気がこのマスター一年のクラスにも保たれている。
 それぞれの学年全体の雰囲気は簡単に変えられるものではない。今年は私にとっていわば「当たり年」で、その幸いを言祝ぎたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「将来」は「不安」の別名でしかなくなってしまった現代の若者たちへ

2023-09-28 22:14:50 | 雑感

 今日の午後、学科長の要請に応じて、学部二・三年生の教育担当責任者として、学部最高学年である三年生を代表する六名と約二時間にわたって面談した。彼らのクラスが今感じている不安とストレスについて聴いた。
 彼らの話を聴いていると、将来に対する彼らの漠たる不安が現在の学業への集中を妨げていることがよくわかった。まだ新学年が始まったばかりであるこの時期にそんな状態にある彼らに対して、「甘ったれるんじゃない!」と一喝したところで、どうなるものでもない。
 まずは、聴く。彼らが今言いたいことはすべて吐き出したと思えるまで話を聴く。その上で、彼らの認識が必ずしも現実をよく捉えているわけではないことを、具体例を挙げながら学科長が説明していく。私は、ただ学科長の脇にいて、うなずいたり、一言二言、口を挟んだりするだけだ。
 学生たちの精神的幼さを感じないわけにはいかなかった。が、他方、どうしてここまで若者たちは打たれ弱くなってしまったのだろうかと、痛々しい気持ちになってしまった。それは彼らの責任ではないから。
 これからの人類の未来にあまり希望が持てないという気分が現在いたるところに蔓延しているとすれば、そのような状況のなかで、それでも未来は希望なのだと、その未来を生きていかなくてはならない若者たちに、白々しくは言えない。
 学生諸君、ほんとうに、生きづらい時代に生まれ合わせ、生きていくことになってしまいましたね。君たちの人生はこれから長い。こっちはそろそろ店じまい。わかり合うのは難しいね。君たちに同情なんかしませんよ。それは君たちに対する侮辱でしかありませんから。
 きっと悪いことばかりじゃないよ、だから、希望をもって生きていってください、と、無責任に体裁のいい御託を並べて、「はい、では、お後がよろしいようで、このへんで失礼いたします」と、しずしずと立ち去ることくらいしか、私にはできそうにありません。
 それでも、あと二、三年は、君たちのそばにいることになります。いや、さっさといなくなったほうがいいのかな。それはともかく、君たちのために私でもできそうなことは試み続けるつもりです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


問題そのものに関心を持つことが語学学習を促進する

2023-09-27 23:59:59 | 講義の余白から

 日ごと拙ブログの記事を書くとき、同じ話題を以前すでに取り上げていないか、一応確認します。どっちにしても老いの繰り言ですから、そんなこと気にしなくてもいいのかなぁとも思います。誰に迷惑かけるわけでもないのならば、「何書いたって、書く本人の勝手でしょ」って感じでしょうかね。
 でも、読んでくださる方たちのなかには、ほぼ同じ内容の記事の繰り返しを見て、「あれっ、これって、ひょっとして、例の、あのさ、なんて言うんだっけ? あっ、あれ、NINCHI-SHÔ ってやつ?」 って、かたじけなくも、ご心配くださる方もいらっしゃるかも知れません。あらかじめ、御礼申し上げます。
 実際、自分で過去の記事を読み返してみて、同じ話が繰り返されているのを「発見」して、「あちゃ~、やっちまったかぁ」と愕然とすること、ありましたもの。
 さて、ここまでは前置きに過ぎません。話題にしたいことは別のことなのです(なんなの?)。
 今日の修士の演習で、動物を「正当に扱う」とはどういうことなのかという問題に逢着した、というか、そういう問題を私が学生たちに提起したのです。「えっ、これって、日本学科の修士の演習ですよね? いったい何の授業?」と疑問に思われた方もいらっしゃるかも知れませんが、ごもっともです。
 演習のタイトルは Histoire des idées ととてもざっくりしているので、日本語のテキストを読むという条件さえ満たしていれば、まあ、どうとでもなるんですね(ありがたいことです)。
 今日で一応「他性の沈黙の声を聴く 植物哲学序説」を読み終えたのですが、植物とは何かという問題を人間の植物に対する関係の中で考えようとすると、生態系における植物と動物との関係という問題、人間と動物との関係という問題とも関連するので、上記のような問いも出てきたわけです。それに、次回から読み始める「食べられるものたちから世界の見方を学び直す」への導入という意図もありました。
 今日までの三回の授業を通じて感じたことは、学生たちの反応は、意外に、悪くない、というか、けっこう問題そのものに関心を持ってくれている、ということです。日本学科の授業かどうかはいわば二の次で、問題そのものが自分たちにも切実な関わりがあることだという認識が共有されているようなのです。つまり、動植物に対して人間が取るべき態度という問題は、自分たちにも共通の問題として考える必要があるという点では考えが一致しているようなのです。
 しかのみならず、これからこの問題について日本語で日本人の学生たちと四ヶ月にわたって議論を重ね、最終的には、四つのテーマ(今年度は、昨年度の反省を踏まえて、教員が提案する)について、四つの日仏合同チームがそれぞれ一つのテーマについて日本語での発表を準備していくにあたって、テーマそのものについて強い関心が共有されていることは日本語学習への動機づけとしてもとても大切なことです。
 なぜなら、問題についての自分の考えを、日本語で、より正確に、より発展した形で表現したいという動機が維持されることで、日本語学習意欲も高まり、進歩を促進すると期待できるからです。期待通りになるように学生たちをアシストしていきたいと思っております。


オンライン日仏合同授業今年度第一回目

2023-09-26 15:05:50 | 講義の余白から

 本日午前六時一〇分から七時五〇分まで(日本時間午後一時一〇分から二時五〇分まで)、来年二月のストラスブールでの合同ゼミの準備の一環としてのオンライン日仏合同授業が行われた。
 登録学生は、法政側が一九名で、全員出席。こちらの日本学科も登録者数は同じく一九名なのだが、今朝は病欠と早朝バイトがそれぞれ理由で二名欠席。それでも学生総数三六名、それに私たち教員二人がそれぞれの側に加わるから、いままでにない大人数のオンライン授業であった。
 まず、教員である私たちがそれぞれ今後の予定について学生たちに説明した後、ストラスブール側から、拙論「他性の沈黙の声を聴く 植物哲学序説」(『現代思想』二〇二一年一月号)について一人一人発表していった。先週すでに四つのグループに分けてあったのだが、グループとして話し合う時間はまだなかったので、グループごとに分けて発表はしたものの、実質は個人発表であった。
 先週の授業ではフランス語で全員が個人発表をしており、そのときなかなか面白い論点や批判が出ていたので、今日はそれをごく簡潔に日本語で報告するように予め伝えてあった。それぞれによくまとめてあった。ゆっくりはっきりと話すように注意しておいたが、それも概ね守られていた。法政側のK先生がそれらの発表についてグループごとにコメントしてくださった。
 法政側は今日が今年度後期のこの授業の第一回目で、まだグループもできていないので、自ずと個人発表となったが、個々の発表に私がコメントしていくと時間がかかりすぎるので、四、五人ずつ続けて発表してもらい、それらに対して私が手短にコメントするという形を取った。これはよいアイデアだった。
 学生たちはもう一つの拙論「食べられるものたちから世界の見方を学び直す」(『現代思想』二〇二二年六月号)もすでに合わせて読んでくれていて、両論考にコメントしてくれた学生も、むしろこちらの論考を中心に話してくれた学生もいた。
 筆者の私としては、ちょっと感激してしまうくらい、みんな丁寧に読み込んでくれていた。内容をよく把握し、面白い論点を提示してくれたり、読後に自分で調べたことや自分で考えたことを話してくれたりと、正直、予想をはるかに上回る充実した内容であった。
 というわけで、第一回目の日仏オンライン授業は、学生たちの考察と議論がここから大いに発展することが期待できる上々の滑り出しであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


学部二年生読書レポート推薦図書リスト

2023-09-25 17:40:09 | 講義の余白から

 毎年前期後期それぞれ一回、研究入門の一環として学部二年生に読書レポートを書かせる。専任教員たちがそれぞれ自分の研究分野から選んだ推薦図書の中から学生たちは一冊選ぶ。それぞれ違った本を選ばなくてはならない。だから教員たちは学生総数を上回る推薦図書リストを準備する。
 前期は、日本美術史、近現代文学及び現代ポップカルチャーがそれぞれ専門の教員と私がリストを準備する。今年度からこのリストのまとめ役を担当することになり、今日そのリストが完成した。早速学生たちと共有した。
 学生たちは、書式・形式・内容についての詳細な規定に従って書かなくてはならない。いわゆる感想文ではない。長さは、日本語に直せば、およそ1200字から1500字くらいである。締め切りは12月31日。
 私たち三人が選んだ推薦図書の総数は七十七冊。登録学生数は約六十名だから、選ぶのに困らないはずだが、学生が敬遠しがちな本もあるから、これくらい余裕があったほうがいい。
 私が選んだのは日本思想関連で、かなり重厚な著作も含まれている。大著を選ぶ場合、一冊まるごと読まなくてもいい。それでも、少なくとも百頁くらいは読まなくてはならない。毎年、丸山や西谷を選ぶチャレンジャーが何人かいる。
 すべてフランス語の文献だが、私が選んだ二十五冊のうち、日本語からの翻訳が十五点、英語からの翻訳が二点ある。
 日本語からの翻訳リストは以下の通り。

道元『正法眼蔵随聞記』(懐奘編、ちくま学芸文庫版)
福沢諭吉『学問のすすめ』(文庫・新書判多数)
中江兆民『三酔人経綸問答』(岩波文庫)
幸徳秋水『帝国主義』(岩波文庫)
九鬼周造『「いき」の構造』(岩波文庫その他)
谷崎潤一郎『陰翳礼讃』(中公文庫その他)
和辻哲郎『風土』(岩波文庫)
中井正一『美学入門』(中公文庫)
西谷啓治『宗教とは何か』(創文社)
丸山眞男『日本政治思想史研究』(東京大学出版会)
三島由紀夫『葉隠入門』(新潮文庫)
勝俣鎮夫『一揆』(岩波新書)
高橋哲哉『靖国問題』(ちくま新書)
加藤周一『日本文化における時間と空間』(岩波書店)
Philosophie japonaise. Le néant, le monde et le corps, Paris, Vrin, 213 (これは編者たちが独自に選んだ日本の哲学的文章のアンソロジー。道元、荻生徂徠、本居宣長、西周、中江兆民、西田幾多郎、田辺元、戸坂潤、井筒俊彦、大森荘蔵からそれぞれ一つずつテキストが選ばれ、解説が付されている)

 日本人の英語の著作からは次の二冊。

新渡戸稲造『武士道』(文庫・新書判多数)
岡倉覚三『茶の本』(岩波文庫その他)

 残りの八冊はフランス語で書かれた著作である。

ANSART, Olivier, Une modernité indigène. Ruptures et innovations dans les théories politiques japonaises du XVIIe siècle, Les Belles Lettres, 2014.
ANSART, Olivier, Paraître et prétendre : L’imposture du bushidô dans le Japon pré-moderne, Les Belles Lettres, 2020.
BARTHES, Roland, L’empire des signes, Éditions du Seuil, 2005. 
EBERSOLT, Simon, Contingence et communauté. Kuki Shûzô, philosophe japonais, Vrin, 2021.
JAQUET, Chantal, Philosophie du Kôdô. L’esthétique japonaise des fragrances, Vrin, 2018.
LÉVI-STRAUSS, Claude, L’autre face de la lune. Écrits sur le Japon, Seuil, coll. « La librairie du XXIe siècle », 2011.
LUCKEN, Michael, Nakai Masakazu. Naissance de la théorie critique au Japon, Les Presses du Réel, 2015.
SOUYRI, Pierre-François, Les Guerriers dans la rizière. La longue histoire des samouraïs, Flammarion, 2021.


「……と考えることができる」とか「……と見ることは不可能ではない」とかの危険な誘惑

2023-09-24 17:24:46 | 哲学

 自分でもつい使ってしまう表現に、「……と考えることができる」とか「……と見ることは不可能ではない」とかがある。
 ある条件の下では、あるいは、歴史的文脈を離れて(あるいは無視して)その部分だけを見れば、そのように考えることも論理的にはできなくはない、と言っているだけのことで、多くの場合、厳密な論証や煩瑣な史料的裏付けを省略して、ある文献の一部を自分の議論にとって都合のいい方向に利用しようとするときに多用される。
 今日読んでいた本にもそれらの「好例」が見つかった。著者の名誉のためにその名も書名も伏せて問題の箇所を引用する。エックハルトの説教から二箇所引用した上で著者はこう述べている。

しかし引用文のなかでは、それ(=「神への没入」)が働くことである技術的作業との対比概念として用いられている点を考慮するなら、エックハルトの主張のなかに精神活動と身体的な活動、あるいは、観想的生活と活動的生活とを連関づけ、さらには、その順序を逆転させることが示唆されていると考えることができる。そしてその点では、ここに観想から製作への転換の方向を見ることは不可能ではないし、また、「プロテスタントの倫理」にはるかに先行する形で労働のエトスを見ることも不可能ではないだろう。

 ヨーロッパの技術史の展開を叙述する文脈の中でこの一節が出て来る。著者はエックハルトの専門家でもなく、ヨーロッパ中世史の研究者でもない。
 自分のことを棚に上げて言うと、これはもう、完全に「アウト」である。エックハルト思想の内的脈絡をまったく無視して、自分の議論に都合がいい部分だけを切り取って使っているだけである。不可能でなきゃ、なんでも言っていいってわけじゃねぇーでしょ、センセイ!
 こういう「操作」が実に巧みな先生たちがいる。そういう先生方の書かれた書物が世に氾濫している。開いた口が塞がらないほどのその古今東西に及ぶ博覧強記と、読むものをして唸らせずにはおかないその万華鏡のごとき切り貼り術とには、称賛の念を抱くことしか浅学菲才の老生にはできない。
 自戒の念を込めて、当該の説教の結びの一節を引いておく。

人々は私に向かってしきりに、「わがために祈れ」というが、私は「何故あなた方は外に向かって求めてゆくのか? 何故あなた方はあなた方自身の中にとどまり、あなた方自身のもつ財宝の中を探し求めようとはしないのか? あなた方はあなた方の中に一切の真理を本質としてもっているではないか?」とあえていいたいのである。願わくは、そのように私たちがこのものの中にとどまることができ、あらゆる真理をば媒介なしに、そして差別なしに真の浄福において所有することができるように、神の我々を助け給わんことを! アーメン。
                              相原信作訳『神の慰めの書』(講談社学術文庫、308頁)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「これから」から「ここから」へ

2023-09-23 19:45:55 | 哲学

 今日午前中に、論文を書き終えてしまった。締め切りまでまだ一週間ある。もちろんぎりぎりまで推敲を続ける。が、とにかく一応書き終えて、安堵している。と同時に、こんなことしか書けない自分が情けなくもある。でも、身の丈にあったことしか書けないのは致し方ないではないか。
 原稿の執筆自体は正味五日間。原稿の依頼を受けたのは一年以上前。その間、ずっと論文のことを気にかけ、準備もあれこれしたが、そのあれこれを報告するのが論文ではない。かといって、何か発見があったわけでもない。一端の議論ができたわけでもない。だったら何。この一年間の自問自答と煩悶の果てに逢着した私の「現在地」を示す。それが今回の論文であった。
 今から四十年ほど前、「君はこれからの人」だと、若干の揶揄も含めて、周囲から期待されていた。以来、ずっと「これからの人」のまま今日に至っている。期待だけされて、いや、期待だけさせておいて、その後がないのだ。
 一言負け惜しみ。この論文を書き終えて、「これから」の意味が変わった。「ここから」に変わった。より正確には、すべてがそこからはじまる「ここ」に、今、私は立っている、そう自覚できるようになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「無窮の動性」って何?

2023-09-22 23:59:59 | 雑感

 今日も論文にはまったく触れることさえできなかった。午前と午後の二コマの授業とその間のオフィスアワーで日中は占められ、夕方帰宅して気分転換にジョギングに出かけたら、走り出してまもなく雨が降り始め、五キロも走らずに自宅に戻った。土日月の三日間は論文に集中できる。
 昨日の記事の話題と関連する話であるが、「無窮の動性」という言葉に強い違和感を覚える。なんでそれが無批判に肯定されてしまうのか、わからない。平たく言い換えれば、「いつまでも動いていること」であろう。なぜ、まったく動きもせず、変わりもしないものは駄目なのか。後者は死に近く、前者は永遠の生命に近いからなのか。しかし、いつまでも動いていることはそんなに目出度いことなのか。「無窮」という言葉をありがたがる理由は何なのか。どうやって無窮であると確かめられるのか。誰にも確かめようがないのではないか。
 難癖をつけているに過ぎないが、こういう言葉に対して虚しさを感じてしまうのをどうすることもできない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「脱却」は適訳なのだろうか

2023-09-21 22:24:05 | 哲学

 ほぼ一日、明日の授業の準備に費やす。その合間に雑用の処理。論文の推敲はまったく進まず。
 一昨日の記事で引いたエックハルトの説教の別訳をここに書き写しておく。ただし、こちらの訳の方がいいと思っているわけではない。なにか訳者の「色」が付着してしまっていると感じる。もちろん、無色透明な訳など、そもそもあり得ない。が、この訳を読む度に感じる、なにか押しつけがましい、と。でも、そう感じるのは、こちらの狭隘な精神の歪んだ受け止めた方に過ぎないのだろう。

神が魂のうちで働こうと欲し給う場合は神自身がその働きの場所である[…]というほどに、人が神と神のあらゆる働きから脱却し切っているのが精神の貧だからである。人はそれほどに貧であるのを神が見出し給うならば、神は神自身の働きをなし、そして人はそのように働き給う神を自分の内に受け、かくして神は、神自身のうちで働き給う故に、自らその働きの固有の場所であり給うのである。ここに至って、すなわちこのような貧において、人は、彼が嘗てそれであったところの、今それであるところの、そしていつまでも恒にそれであるだろうところの、永遠なる存在を再び取り戻すのである。