内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「健康で文化的な最低限度の生活」だけで人は生きていけるか

2018-09-14 22:30:37 | 雑感

 ちょっと疲れてしまいました。身体的にではなく、精神的に。それは、この週末何もする気になれないほどに。
 日本からこっちに戻って今日でちょうど三週間になりますが、その間、気持ちがまったく休まらずに今日まで来てしまいました。物理的には特に拘束時間が長かったというわけでもないのです。フルタイムで働いていて、しかも毎日サービス残業が当たり前の方たちからすれば、むしろ「楽でいいよねぇ~」って言われてしまうであろう程度の仕事量に過ぎません。いわゆる「健康で文化的な最低限度の生活」はちゃんと送れていますしね。
 とは言うものの、今週月曜日から新学年が始まって、雑務と講義の準備で気持ちにまったく余裕がなくなってしまい、帰国翌日から十九日間一日も休まずに通っていたプールも、昨日今日とニ日続けて休んでしまいました。それ自体はちっともたいしたことではありません。体調が悪いわけでもありません。ところが、時間的には行く余裕は十分にあったのに、行く気になれなかった。それほどに、気持ちの上で疲れてしまっていることに溜息が出てしまいます。なんか頑張る気になれない。でも、仕事は休めない。
 仕事をしていれば、こんなこと、全然珍しいことじゃありませんよね。それはわかっているんです。でも、毎日大学関係のメールを処理するだけでも、それはもううんざりするほどです。送ってくる方のせいではもちろんありません。それぞれに必要があるから送ってくるわけで、だからそれらにはできるだけ速く応えています。ただ、こんなことを来る日も来る日も続けていては、心身ともに疲弊するばかりです。
 そのせいでそれ以外のメールへの対応が疎かになり、不義理を重ねてしまっています。それらに対してもさっと返信できるだけの余力が今はありません。どうかお許しください。











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滞仏丸二十二年

2018-09-10 11:33:49 | 雑感

 このブログを2013年6月2日に開始してから、毎年9月10日にフランスでの生活を振り返ることが個人的な年間恒例「行事」の一つになっている。
 1996年9月10日に渡仏してから今日が二十二回目の「記念日」である。当初は、こんなに長く居るつもりは毛頭なかった。というか、翌年自分がどこにいるのかさえ想像できないような体たらくであった。それが思いもよらぬ様々なきっかけで、というか、奇しきめぐり合わせで、とうとうフランスで還暦を迎えるに至った。感慨深い、というよりも、茫々と過ぎてしまった時間の長さにただ呆然としている。
 想定外の事情が突発的に発生しないかぎり、少なくともこれから定年までの九年間もフランスに居ることになるだろう。積極的にそうすることを選ぶというよりも、他の選択肢は非常に想像しにくいから、高い確率でそういうことになるだろうというのだけのことである。
 今日が大学の新学年度の授業開始日である。私自身は火曜から金曜まで授業がある。火曜は修士二年の作文技術の演習(二時間)が隔週、水曜日は修士一年のテキスト講読と口頭発表を組み合わせた演習(二時間)、木曜日は学部三年生の古典文学の講義(二時間)、金曜日は同じく学部三年生の日本現代社会史(二時間)と日本文化についての日本語での講義(一時間)。今年から新カリキュラムに切り替わり、昨年までの講義資料・ノートをそのまま使える古典文学の講義を除いて、すべて新たに毎回零から準備しなくてはならないから、毎週そのために相当な時間がかかるだろう。これは、しかし、教員たるものの主たる職業的義務であり、少しも嫌ではない。
 学科長としての雑務もひっきりなしにある。今日もこれから大学に出向く。しばらくは月から金まで毎日出勤であろう。普通に会社勤めをされている方たちには当たり前のことだが、大学教員にとって、これは過重な負担である。しかも、大学に行っても研究室などないのである。もちろん学科長室など夢のまた夢である。五人の専任教員に対して机が四つあるだけの狭い教員室が一つあるだけである。つまり、そこでは講義の準備などできたものではないのである。
 こんなぱっとしない灰色の現実を従容と受け入れつつ、毎朝プールで泳ぎ(今朝も泳いだ)、毎日このブログの記事を書き、大学では課された任務を粛々とこなし、その合間を縫って自宅で講義と研究発表の準備もするという滞仏二十三年目が今日から始まる。











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万事うまくいくなんてありえない、ええ、でも、それにしても……

2018-08-24 23:59:59 | 雑感

 今朝、午前四時過ぎにシャルル・ド・ゴール空港着。定刻より三十分ほど早かった。機内ではいつになくよく眠れた。午前零時過ぎに出た一回目の機内食の後はすぐに照明が暗くされたので、映画を見る気にも読書する気にもならなかったから寝るしかないということもあったが。
 ストラスブール行きのTGVの出発時刻まで四時間以上待たなくてはならなかったが、メールの返事を書いたり読書したりしているうちに時間が経ち、時間を持て余すということはなかった。定刻に出発し、ストラスブールにもほぼ定刻に着いた。
 重量制限ぴったりに荷物を詰め込んだ大型のスーツケース二つを持って駅のホームからタクシー乗り場まで移動するのがちょっと大変そうだったので、あらかじめKさんに連絡してホームまで迎えに来てもらった。ホームから地上階に降りるエレベーターが故障していて使えず(こちらではよくあることです)、階段で降りるしかなかったので、来てもらってほんとうに助かった。
 タクシーで自宅に戻り、Kさんには日本で買ったお土産を渡した。着いたのが昼少し前だったので昼食を一緒に食べることにした。Kさんがあるものでさっと作ってくれた。食後、日本滞在中に撮った写真などを見せながら、しばらく雑談。午後三時過ぎにKさん帰る。
 ここまではすべて順調だったのだが、万事うまくいくなどということはけっしてないのがこの国である。たまに事があまりにもスイスイ運ぶと、かえって不安になるくらいである。案の定、今日も、そうは問屋はおろさなかった。
 今週火曜日に本を詰め込んだダンボール箱一箱をEMSで東京から発送した。十八キロとかなり重い。今日金曜日に着くだろうとの見込み通りになったのはよかったのだが、こちらが自宅に帰り着く前に配達に来てしまい、不在通知が郵便受けに入っていた。それを見ると、荷物は届け先住所から最も近い保管場所に移送されるから、クロノポスト(日本のEMSに対応する)のサイトでどこに荷物が預けられたか探せとある(日本なら当たり前の再配達はしてくれないということである)。
 探してみて、驚いた。自宅から約八キロもある集配所で預かっているというだ。私は車を持っていない。自転車で行くしかない。片道三十分はみなくてはならない。
 過去には、最寄りの郵便局に保管されていたり、同じ建物の住人が代わりに受け取ってくれていたこともあるのに、いったいどういうことなのか。長旅の疲れもあり、取りに行くのが億劫だったが、明日に延ばしても面倒なのは同じだと、意を決して自転車で取りに行った。
 集配所は郊外のわかりにくい場所にあり、何度か道を間違えて、やっとのことでたどり着いた。受け取りそのものは簡単だったが、帰り道は自転車の後ろのかごに重たいダンボールを乗せての走行だったので、ときどきよろよろしてしまい、来るとき以上に時間がかかった。
 金を払って送った本人がなんでこんなことしなければならないのかと恨みたいところである。こんなことで時間とエネルギーを浪費するのは馬鹿げている。しかし、それに対して腹を立てているうちに過ぎてしまう時間ももったいない。というわけで、自力でさっさと問題を解決するほうを選んだ。
 かくして、フランスにおける顧客サービスの向上という夢はまた一歩遠のいた。












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六十回目の誕生日に帰仏の途につく ― 羽田国際線ターミナルで搭乗便を待ちながら

2018-08-23 21:06:28 | 雑感

 今日がこの炎暑の夏の約四週間の日本滞在の最終日です。今回、帰仏する日としてこの日を選んだのには理由があります。今日が六十回目の誕生日なのです。
 正直なところ、そんなに長く生きたという実感がありません。何も仕事らしい仕事もせずに徒に馬齢を重ね、人間としてなんら成熟することなく、右往左往しているうちに、気がついたらこんな年になってしまった、というのが、謙遜ではなく、偽らざる感懐です。そこには悔恨の苦い味が染み込んでいます。
 しかし、それはそれとして、還暦という人生の一つのサイクルを幸いにもこうして終えることができたのだから、今日という日を一つの大きな区切りとして、生まれ変わったような新たな気持ちで、定年までに残されている九年間を今の職場で時間を大切に健康に留意しつつ生きたいと思います。それは今日まで命を恵まれたことに対する感謝の徴でもあります。あと三年間は学科長を務めなければならないでしょうけれど、それ以降は、願わくは、研究を主としてフランスでの二十年余りの大学教員生活を締めくくりたい。その間、同僚たちの理解を得た上でのことですが、雑務からはできるだけ解放してもらえれば……、でも、無理かな、これは。
 何はともあれ、良くも悪くもこれが私の仕事だと人に胸を張って示せる著作を一つくらいは残してから定年を迎えたい、そう切に願っています。
 末筆ではありますが、今回の滞在中、いろいろとお世話になったお一人お一人にこの場を借りて心より感謝申し上げます。
 あと一時間ほどで搭乗開始です。明日の記事からまたフランスからの発信になります。










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旅の疲れを癒やす午睡、そしてふるさとを蘇生させる言葉の雫

2018-08-14 23:22:58 | 雑感

 今朝は7時半起床。昨晩遅くまでかなり焼酎を飲んだせいもあり、やや体が重く感じられたが、午前中、中学のプールで2キロ泳いだ。お盆休みということもあり、私以外にも四、五名の利用者があったが、コースロープが張られた一コースを前回同様ほぼ独占状態だった。午後、昼食後、録画されていた番組二つを妹夫婦と見た後、旅の疲れが出たのか睡魔に襲われ、二時間ほど午睡。それで気分はすっきりした。
 夕食後、福地滞在中に著者であるK先生ご自身からいただいた『福地便り』第2巻(福地文庫叢書9)をところどころ読んだ。先月刊行されたばかりの本書は、先生が2004年から2015年にかけて書かれたブログの記事に本人による大幅な修正と加筆がほどこされた撰集(全3巻)中の一巻である。この本については、その全体をちゃんと読んでから拙ブログで改めて取り上げたいと思っている。ちなみに、第1巻は現在増刷中、第3巻は九月刊行予定である。
 K先生がご自身の撰集と併せてくださったもう一冊は、平野屋留治著『福地村九十九曲がり行進曲 ― ぎふけん山の里茫々譜(「麦の会」出版会版、2005年、「譜」には「うた」とルビが振られている)である。かねてよりK先生から本書についてのお話は聞いていたが、その本そのものを手にとったのはこれが初めてである。著者は福地文庫の創刊者である。
 この本、巻末の「刊行の辞」以外はすべて福地弁で書かれている。例えば、「まえ口上」からその一部を引いてみよう。

 そやがここ四十数年がとこまったく忘れとった福地弁やその言いまわしょ頭ひねりひねり思い出しょうったら、不思議やないか、それにつられて昔のお爺ぃやお婆ぁんたの顔やら仕草さのあれこれが飛び出してきよって、なんやかんやしゃべったり動き出しょうらっせるやないか。ありゃりゃちゅう感じやった。[…]福地弁しゃべらんことにゃ昔が戻ってこんちゅう仕掛けゃおもしろいもんやと思った。そんでこうやって言いまわしょひねくりまわしながらひとくさり語らせてもらうわけや。

 全編この調子で、注記まで「方言、言いまわしの解説は本文末尾の「福地弁小事典」を参照してくりょ」と徹底している。
 その内容の面白さについては読んでからでなければ語れないから今は控えるが、言葉(特に実際に幼少の頃から自分が話していた土地の言葉)と記憶との関係についてきわめて示唆的な試みであることは間違いない。巻末の「刊行の辞」には、「ひとにはふるさとを蘇生させる力がある」とあるが、本書は、その蘇生を可能にしているのが自分が生まれ育った土地に響いていた言葉であるということを実際に証明する試みであると言えよう。










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岐阜県八百津町福地村訪問記 ③ ― 棲まう場所と人との間の内的共鳴

2018-08-13 23:59:59 | 雑感

 今朝早く、K先生夫妻はじめ何人かの「いろどりむら」の「住人」たちに見送られ、福地を発った。Cさんに美濃太田駅まで車で送ってもらい、高山本線で岐阜駅下車、そこで東海道本線新快速に乗り換えて名古屋まで、そこからは指定席を取ってあった「のぞみ4号」で新横浜まで。新横浜からJRで一駅の菊名へ、菊名から東横線急行で学芸大学下車。そこからは徒歩で滞在先の妹夫婦の家に昼頃戻った。
 今朝まで木曽路の山奥の小さな村に居たのに、わずか四時間半ほど後には首都東京の住宅街の中に再び自分を見出して、身と心の間に時間差が生じてしまったかのような不思議な気持ちになった。僻村と首都とを隔てる時間的・物理的距離には還元することのできない遠さ・奥深さをその地に感じ、車窓からとはいえ昨日何時間と眺めた山深い木曽路の山里、渓谷、清流の美しさは、棲まう場所と人の内的共鳴(résonance intérieure)―これもまたシンモンドンの用語―について私に考えさせた。
 夕方からは、昨年北海道に訪ねたご家族がちょうど東京のご実家に滞在中という機会を捉え、互いの滞在場所のほぼ中間点に位置する下高井戸で一年ぶりの再会。愉しいひとときをご一緒することができた。
 七日から始まったこの夏の暑い日本での旅と再会の八日間は、こうして私の心に生涯忘れないであろう想い出の種子を植えつけて終わりを告げた。













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岐阜県八百津町福地村訪問記 ② ― ことなりの花咲くコミュニティ、文学と芸術の源泉としての家郷、そして、やっぱ温泉でしょ、日本人は

2018-08-12 22:24:06 | 雑感

 今朝、三年前にK先生とその仲間たちが立ち上げた福地のコミュニティ「いろどりむら」の夏休み企画の開会に立ち会った後、K先生に車で岐阜県東濃を一日案内していただいた。それは、島崎藤村『夜明け前』の書き出しの著名な一文「木曾路はすべて山の中である」を如実に確証する行路であった。
 まず、馬籠の藤村記念館を目指した。藤村の作品は、『破戒』といくつかの詩を高校時代に読んだことがあるだけであったが、今日、記念館を見て回ることで、いかに家郷の原風景が未来の作家の想像力の源泉になっているかということを、木曽の山並みに枠取られ真夏の光の下に光り輝く田園風景を写真に収めながら実感した次第であった。
 次に訪れたのは、付知の熊谷守一つけち記念館であった。さりげなくこじんまりとしていながら洗練された記念館で、守一の展示作品と藤森武の守一の写真にはとても惹きつられるものがあり、見ごたえがあった。守一は、その文章や語録も魅力的で、ある写真の下に貼り付けられた語録の一節に「独楽」に触れた一言があって、自分は独りでいることが好きで、コマに「独楽」(独り楽しむ)という漢字をあてた妙を褒めていた。
 軸がぶれず高速で回転している独楽は、あたかも一点に止まっているかのように見える。しかし、独楽はたった独りで回っているのではない。独楽だけでは回ることさえできない。コマが独楽でありうるのは、それに必要十分な回転を与えるもの、独楽が最大限に回転し続けることができる平滑な面がなければならない。それに、そもそもそれを可能にする物理的法則が絶対的前提だ。
 今日の締めくくりは、熊谷守一つけち記念館と同じ街にある「おんぽいの湯」であった。ゆったりと温泉につかり、今日の疲れだけでなく、今日までの旅の疲れを一挙に洗い流すことができた。
 二年前に大病をされ、大手術を受けられた御年八十二歳のK先生自らの運転でご案内していただき、ご一緒に過ごす機会を恵まれた今日一日は、私にとって本当にかけがえのない経験であった。ありがとうございました。













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岐阜県八百津町福地村訪問記 ① ― 山奥の過疎の村に生まれつつある新しい現代の惣村

2018-08-11 23:59:59 | 雑感

 一年で新幹線が最も混むこの日、東京駅で一時間待って新大阪行「のぞみ333号」に乗り、名古屋下車、名古屋から岐阜まで東海道本線新快速、岐阜から美濃太田まで高山本線と乗り継ぎ、そこからは、迎えに来てくれたK先生とCさんの車で、やはり東京から来たK先生の娘家族と一緒に、八百津町福地村に向かう。福地村は山奥にあり、美濃太田から車で約一時間かかる。
 廃校になった小学校を改造してK先生がこの地に棲まわれるようになって二十数年が経つ。その間、東京ではときどきお目にかかる機会があり、その都度福地村での活動についてはお話を聞いていたが、福地を訪れる機会はなかなか巡ってこなかった。しかし、機会は、それが到来するのを待つものではなく、こちらから捉えるものだと思い、ようやく今回の訪問が実現した。
 先生がこの村でここ数年取り組んでこられた新しいコミュニティ創りの話は先生ご自身からたびたび伺ってはいたが、ようやくそれをこの眼で、たとえ垣間見る程度であれ、確かめることができるこの機会を喜んでいる。
 晩には、K先生家族とCさんと一緒に二台の車に分乗して、村から六十数キロ離れた多治見市まではるばるお蕎麦を食べに行った。多治見本町オリベストリートにあるお蕎麦屋さん「井ざわ」で美味しいお蕎麦と天ぷらその他のおかずをいただいた。美味だった。











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沖縄今帰仁村訪問記 ④ ― 平和祈念公園、ひめゆりの塔、平和のためのレクイエム、インフォメーション、そしてコミュニケーション

2018-08-10 22:49:48 | 雑感

 沖縄滞在最終日の今日の午前中、M先生のお車で本島南端に位置する平和祈念公園を訪れた。
 その敷地の広大さにまず驚いた。沖縄での戦争犠牲者の慰霊塔が全国の三十数県の各県ごとにそれぞれ数十平方メートルの敷地内に建てられている。それらをカート案内でざっと回り、今も新たに刻まれつつある犠牲者名簿の石碑「平和の礎」を間を歩いて見てから、平和祈念資料館の常設展示を見に行った。夏休み中ということもあり、小中学生の見学者も少なくなかったが、拡大展示された写真の中には残虐な戦闘の犠牲になった女性や子供たちの無残な写真もあり、それらは小中学生たちには衝撃が強すぎるのではないかと心配になるほどであった。
 祈念公園は丸一日時間を掛けてゆっくり訪問すべき場所だったが、飛行機の時間もあるので、簡単に昼ごはんを園内で済ませた後、ひめゆりの塔へと向かった。
 その平和祈念資料館内に展示された二百数十人の女学生と教師たちの顔写真を一枚一枚見ながら、いかなる仕方でも正当化し得ない仕方で惨酷な戦争がその命を奪った彼女たち彼らたちへのレクイエムは、ひどく唐突に聞こえるかも知れないが、シモンドンがいう意味でのインフォメーション(新しい形を与えるアクション)とコミュニケーション(異なった大きさのオーダー間の関係形成)とによってこそ現実化されるのだと私は思った。このインフォメーションとコミュニケーションの媒介者、それが個々の主体であるところの私たち個体であることは言うまでもない。
 ひめゆりの塔から那覇空港まで先生に送っていただき、そこでこの四日間の歓待と心遣いを謝し、お別れした。空港の混雑により定刻より30分ほど遅れて出発したANA便はそれでも午後6時前には羽田に着き、そこから京急で品川まで、品川から渋谷まで山手線、渋谷からは東急バスで滞在先の妹夫婦の家に7時半に帰り着いた。
 明日からは岐阜県福地に二泊三日。午前11時過ぎの東京駅発の新幹線に乗る。










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沖縄今帰仁村訪問記 ③ ― 辺野古の美しく碧き海、基地建設阻止デモ参加、東村高江区のヘリパッド建設地区訪問記

2018-08-09 18:33:19 | 雑感

 辺野古新基地建設反対を貫いた翁長雄志沖縄県知事の突然の訃報が昨晩伝えられたばかりの辺野古をM先生にお車でご案内していただき、キャンプ・シュワブ前の集会に参加し、正午からのデモ行進にも参加した。小学生の時に父に連れられて参加したデモ行進(プラカードを首から下げ、父と手を繋いで行進している自分の写真がアルバムに残っているが、今アルバムで確かめようがないので、なんのためのデモだったのかはわからない)を除けば、これが生まれて初めて参加したデモ行進である。「新基地建設絶対反対」とシュプレヒコールを他の参加者たちと共に唱えながら基地前通りを行進し、ゲート前では、皆で拳を突き上げ、シュプレヒコールを繰り返した。
 これまでの反対運動の経過をそれほどよく知っていたわけではないが、この新基地建設計画がまったく民意を無視し、自然環境を平気で破壊する国家権力の横暴であることは誰の眼にも明らかなことであり、私もこの反対・阻止運動に賛意と支持を表明する意味でデモ行進に参加した。
 その後、辺野古の海辺まで先生にやはり車で連れて行ってもらい、その美しく碧き海の色とそれを破壊しつつある建設現場、そこに立つ民間会社の雇われ警備員を写真に撮った。
 辺野古の後、ヘリパッドが建設された東村高江区へと向かった。ヘリパッドそのものは見ることはできなかったが、反対運動を続ける人たちのテントを訪れ、当番の人たちに話を聞くことができた。そのテントでもらったパンフレットの一節を引いておく。

高江区は2度に渡りヘリパッド建設反対の決議をしてきましたが、国は工事を強行し、2016年に6箇所のヘリパッドが完成し、米軍に提供されました。その中でもN4のヘリパッドは県道から約150メートル、一番近い民家まで約400メートルしか離れていません。現在はひどい時で3機のオスプレイが夜11時近くまで、超低空で住宅の上空を飛び回ります。そしてその訓練が約3週間毎日続くこともあり、住民はゆっくり寝ることもできず、騒音と低周波と墜落の不安の中で暮らさなければいけません。子供たちを守るために引っ越しをする世帯もあります。しかしそんな世帯に対しての補償などは一切ありません。国はそこで住み続けなければいけない住民の暮らしがどうなっていくのかなどの調査や聞き取りなども一切することはありません。結局住民がすべての犠牲を背負うことになるのです。そして今、日本全体で同じような軍事の拡大が「抑止力」と「負担軽減」という名目で進んでいます。もう高江だけの問題ではありません。











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