内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

永遠への路銀 ― ジャンケレヴィッチ、不在の苦悩 ― カミーユ・クローデル

2013-08-05 07:00:00 | パリの散歩道

 パリの街中を散歩していると、過去の著名な作家、詩人、芸術家、科学者、政治家等の旧居であることを示す石板が、その旧居がある建物の入口脇あるいは上方に嵌めこまれてあるのをよく見かける。ただ生没年と居住期間、職業あるいは活躍した分野などが示してあるだけのことが多いが、中にはその人物の著作からの引用が刻まれていることもある。その中で、初めて見たときから私の心に深く突き刺さった引用が2つある。
 1つ目は、ノートルダム大聖堂の裏手、シテ島とサン・ルイ島とを結ぶサン・ルイ橋、Quai aux Fleurs、Rue du Cloître Notre Dame が交差する角にある建物の入口左脇の石板に刻まれている。その石板には、「この建物には、哲学者ウラジミール・ジャンケレヴィッチ(1903-1985)が戦前から1985年に亡くなるまで、戦中のレジスタンス運動の時期以外住み続けた」と記されており、その下に、彼の著書の1つ  L’irréversible et la nostalgie(仲澤紀雄訳『還らぬ時と郷愁』国文社、1994年)から、次の1節が引用されている。

« Celui qui a été ne peut plus désormais ne pas avoir été : désormais ce fait mystérieux et profondément obscur d’avoir vécu est son viatique pour l’éternité. »

「存在した者はそれ以来もはや存在しなかったということはできない。それ以来、生きたという、この不可思議で奥深く冥暗な事実は、その者の永遠への路銀となる。」(私訳)

 私たちは、この世に到来し、そこにしばらく滞在し、そしてあるとき何方へか立ち去る。このような言い方を耳にすることは珍しくない。しかし、ジャンケレヴィッチはそれとはまったく異なった生の実存的了解の仕方を示す。その生がいかなるものであったとしても、その人が存在したということは、もはやいかなる手段をもってしても、事実として消し去ることはできない。存在しなかったことにはできない。この不思議といえば不思議、その深い奥行きを汲み尽くしがたいこの事実が、この世に生きた者の永遠性への旅のために必要十分な〈路銀〉となる。このことについて、生ける者誰一人として例外はないのだ。レジスタンス運動の闘士であったこのソルボンヌの哲学教授が、この文を書いたとき、ナチスによって強制収容所で大量虐殺された人たちのことを思わなかったとは考えられない。
 もう一つの引用は、サン・ルイ島の Quai de Bourbon にある。ロダンの愛人であり、詩人・劇作家・外交官ポール・クローデル(1868-1955)の姉、才能豊かで類まれな美貌の彫刻家カミーユ・クローデル(1864-1943)の旧アトリエがその中庭奥にあった建物の入口右側の1つ目の格子窓のさらに右側の石板上に、その引用を読むことができる。
 精神に異常をきたし、1913年、パリ郊外の病院の閉鎖病棟に強制入院させられる直前まで、カミーユはそのアトリエに住んでいた。第一次大戦中の1915年に南仏の精神病院に移管され、そこで1943年に78歳で誰も看取る者がないままに死を迎える。30年間を病院内で過ごし、外交官として日本大使にもなったことがある弟のポールが数年に一度見舞いにくる以外は、誰も見舞いにも来なかったという。
 引用は、19歳でロダンの弟子となり彫刻家としての才能を開花させていく一方、報われぬロダンへの愛に苦悩していた22歳の彼女がロダン宛に送った1886年の手紙の1節である。

« Il y a toujours quelque chose d’absent qui me tourmente. »

「いつも欠けている何かが私を苦しめています。」(私訳)

 この1文を石板上に読む度に、あるいは彼女の書簡集をふと思い出したように手に取り、偶然開かれた頁を読む度に、類まれな力動感に溢れ、高貴さをも感じさせる彼女の大作の傍らに置かれた、切ないまでに美しく磨き上げられた小作品群のことを思い出す。それらの作品は、今ロダン美術館で見ることができる。