内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

明日の発表準備に奮戦中

2015-07-31 09:53:12 | 雑感

 なんでこんなに暑いんだ、などと愚痴ってはいられない。発表は明日である。
 昨晩は、引用箇所を絞り込み、取り上げる論点を限定したところまでで就寝。今日は、朝六時から、それら限定した論点それぞれについての議論の粗筋をまとめている。同時に、少しでも発表がわかりやすくなるようにパワーポイント作成の準備も並行して進めている。
 午後は、一つ外せない約束があって出かけないといけない。夕方には帰って来られるだろう。
 その後はもう発表準備に一意専心する。深夜までかかるだろうが、徹夜はしない。それが非効率的で非生産的であること、これまでの経験から明らかだから。それに、この暑さに徹夜の疲労も加われば、発表の際の集中力低下を招くだけで、いいことは何もない。だから、まだ終わってなくても、疲れたら途中で投げ出して、寝る。三時間くらい寝れば、体もいくらか安まるし、頭もはっきりする。
 幸い研究会は明日の午後からである。まだ二十四時間以上ある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


明後日の研究会の発表原稿ついに書けず

2015-07-30 07:28:00 | 雑感

 明後日の八月一日(土)午後、東洋大学の国際哲学研究センターで、同センターの客員研究員の一人である私が企画した研究会が開かれる。今年の三月初めに同センターから企画の依頼があり、集中講義の内容と重なってもいいのならと引き受けた。タイトルは、さっぱりと、「「種の論理」の可能性」とした。
 研究会は三部構成。私と早稲田の立花史さんがまず続けて発表し、ディスカッサントとして参加してくださる明治大学の合田正人さんと発表者二人との間の討議の後、出席者全員での議論。同センターのスタッフの方が綺麗なポスター(こちらでご覧いただけます)も用意してくださった。
 折角いただいた機会だから、田辺の「種の論理」を巡って、参加してくださる方々と大いに議論したいと思っている。そのためにもちゃんと叩き台なるような発表原稿を予め用意し、関係者に研究会前にお送りしておきたかった。ところが、浅学菲才如何ともしがたく、考え倦ねるばかりで、とうとう間に合わなかった。
 今朝は四時起床、五色のラインマーカーで論点に応じて色分けされた田辺のテキストのあちこちを読み返しながら、パソコンの前に向かっているが、今日明日で発表概要とラフなスケッチを準備するのがせいぜいだろう。当日はそれを基に発表するしかない。しかし、少なくとも、論点を明確に提示し、議論の端緒を開きたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


集中講義を終えて

2015-07-29 22:20:00 | 講義の余白から

 今日が集中講義の最終日だった。
 なんとか田辺元の論文「種の論理と世界図式」を読み終えた。出席者三名は、この猛暑の中、五日間、最後まで欠席することなく、よくついてきてくれた。毎回、難解なテキストと格闘しつつ、私が要求した書式にしたがって要旨を準備し、それに基づいた報告をよく果たしてくれた。
 難渋する読解作業を通じて、田辺の哲学的思考が、今まさに自分たちが生きる現実世界とどこでどう切り結ぶのか、それぞれに手掛かりを攫んでくれたようである。いい質問も毎回出たし、活発とまではいかなかったが、いくらかは実りある議論もできたと思う。
 最終日の今日は、少し早めに切り上げ、大学近くの喫茶店で彼らの労を労いつつ、哲学教育の社会的意味、実践的語学学習法、就活最前線などについて、一時間ほど歓談した。
 遥遠かつ多難であろう彼らのこれからの人生に幸あれと願いつつ、皆で読んだ論文の中から次の一節を彼らに贈ろう。

哲学はただ主体の実践的歴史的行為における相対即絶対の統一の自覚覚醒に外ならない。その体系は歴史の発展における絶対否定的主体の自覚の内容である。その否定的媒介として歴史的基体の相対性が介入する故に、永久に完結した体系というものは初めから問題にせられない。不断に更新する運動に即する活動のみが哲学の生成的存在である。(「種の論理と世界図式」『田辺元哲学哲学選Ⅰ』267頁)

 


















心の乾きを癒してくれる文学作品を求めて神保町を彷徨う

2015-07-28 01:09:00 | 読游摘録

 田辺元の哲学論文の恐ろしく硬質な文章と毎日何時間も向き合っていると、悲しいかな、浅学非才かつ卑俗の身、段々心身ともにしんどくなってくる。著者の真摯なる哲学的思索の持続力を讃仰しつつも、心が乾いてくるのをどうすることもできない。脳が脱水症状を起こし、痙攣しそうになる。
 そんなとき、その精神の乾きを癒してくれるような、潤いのある文章が無性に読みたくなる。脱水症状を起こしている人にアルコール飲料などもってのほかであるのと同様、そんなときに人を酔わせるような美文はもちろんいけない。そうかといって、気楽に読み流せるような娯楽的文章では、またすぐに喉が乾いてしまう。古典を味読しながらゆっくりと静養している時間もないし、またそこまでの必要もない。滋養があって味わい深く、そして息長く生き続ける現代の文章がいい。
 そんな内語に誘導されるように集中講義の帰り途に途中下車した神保町の本屋街を彷徨っている私の目に向こうから飛び込んできたのは、以下の五冊。即座に購入したのは言うまでもない。

藤沢周平『市塵(上・下)』(講談社文庫、2005年)
足立巻一『やちまた(上・下)』(中公文庫、2015年)
原民喜『原民喜戦後全小説』(講談社文芸文庫、2015年)

 藤沢周平は三十年来愛読している作家。特に市井ものの短編を好む。『橋ものがたり』『時雨のあと』『時雨みち』など。絶妙の筆致で描き出される、健気で凛とした藤沢作品の女性たちには、本当に惚れてしまう。『市塵』は、しかし、新井白石を主人公とした長編。さりげない仕草の描写一つで登場人物たちの性格や心の動きを見事に描き出すその文章は、その人物たちが生動する物語世界へと読み手を一気に引き入れる。歴史の教科書や学者の書いた伝記の中では出会えない新井白石がそこに生きている。
 足立巻一もかつては新刊が出るとすぐに買って読んでいた。『夕刊流星号』『戦死ヤアハレ』『虹滅記』など。しかし、なんといっても、本居宣長の長男として生まれ、三十代半ばで失明しながら、日本語の動詞活用研究に不朽の業績を遺した本居春庭の評伝『やちまた』が、質量共に圧倒的である。この大著を最初に一気に読んだ三十年数年前の感動を今も忘れない。
 原民喜の小説もこれまで繰り返し読んできた。最愛の妻を病で失い、広島で原爆の言葉に尽くせぬ惨禍を目の当たりにし、最後は線路に身を横たえて自ら命を絶った、普通に世間を渡って行くにはあまりにも繊細な感受性を持ちすぎたこの詩人作家が私たちに遺してくれた奇跡のように美しい作品を、私はこれからも繰り返し読み返すだろう。
 岩波文庫の今月の新刊の一冊は、『原民喜全詩集』である。原民喜が遺書として友人遠藤周作に遺した最後の詩は「悲歌」と題され、その最後はこう結ばれている。

私は歩み去ろう 今こそ消え去つて行きたいのだ
透明のなかに 永遠のかなたに

 民喜の作品は、その透明な永遠のかなたから、私たちの生きる世界を今も逆照射し続けている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


哲学は歌わない

2015-07-27 22:30:00 | 講義の余白から

 仮に猛暑の最中でなかったとしても、田辺元のテキストを真剣に読むことは、骨の折れる作業だ。例えば、今日の演習で読んだ次のような箇所は、田辺哲学の取り立てた難所ではないが、それでもしばらくはそこに立ち止まり、学生たちと何度も前後を含めて読み返しながら、少しずつ解きほぐしていかなければならない。

しかしてこの主体的個の否定すべき限定者として特殊の内容はいわゆる基体的種となる。絶対としての神に対する自然に外ならない。原偶然として時成する時間の内容を成す限りは自然の種的特殊は偶然であるけれども、これを基体として否定即肯定する個の主体は必然にして自由でなければならぬ。この必然が時間の進行に方向を与え、その内容の必然即自由なる形成として歴史が成立するのである。歴史の時間的進行はかくしてその一々の瞬間の時成において原偶然の意味を有しながら、それの主体的形成において必然性をもつ。かかる偶然と必然との媒介がすなわち絶対の全一に外ならない(「種の論理と世界図式」『種の論理 田辺元哲学選Ⅰ』岩波文庫、p. 252)。

 このような硬質な漢語からなる概念の連鎖で厚く鎧われた散文の奥に、言葉にならない柔らかな哲学的直観の生動を捉えることは、容易ではない。著者の真摯さを疑うことはできない。浮薄な言辞など微塵もない。自己の言説に酔うような甘さもない。膨大な知的研鑽で鍛えられた脳髄を絞り、あらん限りの知力を傾け、田辺は哲学を実践する。先達であろうが同輩であろうが、学問上の遠慮会釈はかえって無礼だと言わんばかりに、苛烈な批判も辞さない。田辺の文章は決して歌わない。その文章を読んでいると、人気ない薄暗い道場で、一人真剣で型を倦まず繰り返す、孤独な剣士を見るような痛ましささえ感じる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


猛暑の最中、夏期集中講義始まる

2015-07-26 14:17:00 | 講義の余白から

 一昨日の金曜日から、今年で担当五年目になる夏期集中講義が始まった。
 今年の主題は、昨年の続きで、田辺元の「種の論理」である。テキストは、同じく『種の論理 田辺元哲学選Ⅰ』(岩波文庫)。昨年は、同書第一論文「社会存在の論理――哲学的社会学試論」を読んだ。今年は、その第二論文「種の論理と世界図式――絶対媒介の哲学への途」を読んでいる。
 出席者は三名。博士課程前期二年生が二人、一年生が一人。学生たちに聞いてみたところ、前期在学者中休学者を除くと、現在五名しか在籍していないという。ちょっと寂しい気もするが、それだけ先生たちと親しく話す機会も多くなるだろうから、よりよい指導が受けられるかもしれない。
 私が担当する「現代哲学特殊演習②」は、毎年猛暑の最中になるので、教師も学生たちもそもそも体力的に楽ではない。それもあって、今年は、五日連続にならないように、金曜日から始め、日曜日に一日休めるようにした。いくら建物の中は冷房が効いているとはいえ、炎天下の行き帰りは、遠方から通う学生たちにとっては、それだけでかなりの体力消耗である。
 そこへもってきて、難解極まるテキストを読まされるのであるから、この演習は、学生たちにとって、知的訓練というよりも、精神的修行、あるいはより端的に、「苦行」と言ったほうがいいかも知れない。自分たちの母語である日本語で書いてあるテキストなのに、いったい何が問題なのかさえよくわからないとき、心理的ストレスも小さくないであろう。難解で毎回少しずつしか読めない原書講読の場合、その歩みの遅さに情けなく思うことはあっても、自分の担当した短い箇所が一応訳せただけでも、何がしかの達成感は得られるであろう。ところが、田辺のような難解な文章は、かなり哲学的訓練を積んでからでないと、どうにも捉えようがなく、本当に途方に暮れてしまう。
 もちろん教師である私は、その難渋する読解行路の道案内役なわけであるが、登山が登山者それぞれ自分の脚力で実行しなければならないのと同じように、テキスト読解もそれぞれの学生の知力が拠である。
 毎回、三人全員に約十頁ずつテキストの内容を報告させる。A4一枚に、重要語句・要約・図式的説明をまとめたものを予め準備させ、そのコピーを全員に配布し、それに基づいて、互いに担当箇所を説明する。一つの報告が終わると、質疑応答に入る。私が質問し、学生からの質問に答えることが主になってしまうことが多いが、質疑応答がうまく噛み合えば、そこから全員での討議に発展することもある。しかし、そこまで行くのはなかなか容易ではない。それはともかく、皆それぞれにテキストを理解しようと努力してくれている。田辺がいうところの「種」を捉えようと、皆格闘している。
 その助けになるようにと、田辺の文章をできるだけ易しい表現に解きほぐしたり、具体例や視覚的イメージを使って説明を試みたりしているが、それが新たな問題を引き起こしてしまうこともある。それはそれでよい。テキスト読解そのものが最終目的なのではなく、それを通じて田辺の哲学的思考の現場に立ち会い、そこから現実の問題を自ら哲学的に考えることこそがこの演習の目指すところなのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


深い憂慮の念 ― 連載「ヴァンサン・デコンブの対談を読む」を終えて思うこと

2015-07-25 00:00:00 | 雑感

 昨日の記事をもって、ようやく Vincent Descombes, Exercices d’humanité — Dialogue avec Philippe de Lara, Les Dialogues des petits Platons, 2013 の第二章 « Les individus collectifs » を読み終えた。
 わずか二十四頁ほどの章だったが、これだけ時間をかけてそれを辿ってきたその背景には、ある深い憂慮の念があった。記事連載中には、ところどころにそれを仄めかしただけで、あからさまには言及しなかったが、今の日本の政治的状況を深く憂えつつ、記事を書き続けた。日本での、迷走、というならならまだしも、明らかに暴走しつつある政治的言説を、冷静に分析するために必要最小限の論理的手続きを、デコンブ氏の議論が提示してくれていると考えてのことであった。慧眼なる読者諸氏(と言っても、ごく少数の方たちであることを残念かつ不安に思うが)は、おそらくそのことにすぐにお気づきになられたことであろう(と信じたい)。
 同章での、あるいはそこでの議論を詳細に展開した L’emabarras de l’identité (Gallimard, 2013) でのデコンブ氏の所説に賛成するかどうかが問題なのではない。私自身、必ずしも全面的に賛成ではないし、よくわからないところもある。ただ、私たち日本人も、近代民主主義国家「日本」の成員であるならば、これくらい丁寧にゆっくりと時間を掛けて論理的手続きを踏んだ上で、政治的問題の議論に入るような知的成熟が必要だろうと思うばかりである(百年たっても叶わぬ夢だと言われるであろうか)。
 国民的レベルでのそのような知的成熟のためには、中長期的観点からは、教育がきわめて大切な国家事業(国家百年の計!)になるわけだが、個々人がそれぞれに自分の意見を自由に言えない、あるいはそもそも持たせないように実のところはしておいて、軽佻浮薄なことを「流暢に」英語でしゃべるだけの、どこにも通用しない似非「国際人」を養成しようという、今の教育システムにどんな期待を託せばよいというか。
 一体誰のための国家なのか。
 今月16日の安全保障関連法案の強行採決による衆院通過によって、「日本」(私たちの祖国の名は、いまや為政者が濫用する集合的個体概念の一つになってしまっていないであろうか?)は、後世にまで長く禍根を残す過ちを犯してしまった(石川健治氏(東京大学法学部教授)「あれは安倍政権によるクーデターだった」を参照されたし)。「日本の平和と安全のために」― しかし、実のところは国民を無視して、自己の幻想のために ― 暴走するのは、その名に値せぬ現宰相やその取り巻き連中には限らない。自分たちの利権の確保とその拡大しか眼中にない金持ちたちばかりでもない。知性と良識と批判精神を欠いた、単なる権力の走狗たちがメディアを支配している。そんな中で真の公共の議論など成り立つはずもない。テロリスムに脅かされた国だけで、言論・報道の自由が危機に曝されているのではない。権力そのものがテロリスム化した日本は、それよりももっと恐ろしい国だと私たちは気づくべきなのだ。
 そのような今の日本においては、日本史の教科書の明治維新の章で皆が必ずや学んだはずの、「五箇条の御誓文」第一条 ―「万機公論に決すべし」― は、もはやその文の意味するところさえ理解されず、決定的に忘却の彼方に沈んでしまったのであろう。もしそうであるならば、いっそのこと、もう歴史を学ぶことなどやめてしまえばいい。猛進する猪にも劣る頭脳しか持ち合わせぬ愚かな宰相をいただいた日本には、それこそ相応しい「ポスト・近代」の姿であろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「私たちのアイデンティティ」と哲学 ― ヴァンサン・デコンブの対談を読む(27)

2015-07-24 00:30:00 | 読游摘録

 « Les individus collectifs »(〈集団的個体〉)と題された、Exercices d’humanité の第二章で、デコンブ氏に向けられた最後の質問は、次のような質問であった。
 集団的同一性の定義 ― 例えば、国家的あるいは国民的アイデンティティの定義 ― を巡る今日の論争の結果とは、どのようなものか。
 以下がこの問いに対するデコンブ氏の回答である。
 哲学者は、政治的議論の中で提起された問題をそのまま取り上げ直すこともできないし、それに自分の答えを与えようと宣言することもできません。哲学者として、私は、この公共の問題を自分自身に対してまず解き明かす必要があるし、その問題について提出された結論の理由や前提を把握しなくてはなりません。それゆえ、公共の議論が考慮に入れることができない様々な考察に立ち入る必要があります。これらの手続きを経てはじめて、公共の議論の争点について自分の立場を表明することが可能になります。「私たちのアイデンティティ」と呼ぶのが相応しいものをどう定義するかという今日の議論に関して言えば、それに対して哲学者ができる貢献とは、同一性の基準を確立することの必要性を明らかにすることでしょう。その認定基準は、それぞれの場合によって異なります。誰がこの村の住人か、誰がこのサッカー・クラブのメンバーか、誰がこの宗教団体の信徒か、それぞれ基準は違います。私たちが今その中で生きている近代国家についてはどうでしょう。そこでは、国籍の基準は、純粋に政治的なものでなければなりません。それが意味することは、その基準は、市民権(citoyenneté)の基準と一致していなければならないということです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


自己命名可能性が集団に「人格」を与える ― ヴァンサン・デコンブの対談を読む(26)

2015-07-23 00:00:00 | 読游摘録

 一個の「人格」として認証されることを要求するグループは、それとして尊重される権利があると考える。それらのグループは、自分たちが「人格」としての尊厳を持っていると考えており、倫理的に自分たちの社会的立場が保証され、それに見合った敬意を払われることに特に重きを置く。それらのグループが具えているこれらの「人格」としての性格を、今日、心理学者や社会学者たちの言う意味において、「集団的同一性」と呼ぶ。
 「人格」を持ったグループは、その同一性の危機を経験することがある。その危機を理解するために、まず、私が同一性の危機を経験する場合を考えてみよう。その場合、私の社会的身分が何であるのか言えなくなる。その身分を回復し、認証を求めるための戦いとは、私の社会的身分がどのようなものであるか私は知っていると信じ、私を取り巻く他者たちに自分の主張を認めさせようとすることである。同じようなことがグループの同一性が危機に曝されたときにも観察されるのである。
 集団的同一性の言語は、論理的言語との紐帯を断ち切ることはできない。なぜなら、「人格」としてのグループの心理を発展させることができるためには、それらのグループを現実的な全体性として、この世界で実在性を持つ当体として、指し示すことができなくてはならないからである。言い換えれば、それらのグループが命名され得るかぎりにおいて、とりわけ自ら命名することができるかぎりにおいて、「人格」としての心理をそれらのグループは発展させることができるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


固有の感情を持ちうる「人格」としての集団的存在 ― ヴァンサン・デコンブの対談を読む(25)

2015-07-22 00:00:00 | 読游摘録

 論理的同一性基準に照らして純粋に論理的に規定できる「人格」と社会学的意味での行動の「主体」としての「人格」との間に位置するのが、法的な意味での意思を持った「人格」である。
 この後者から社会学的意味での「人格」への移行がどのように起こるのか、見てみよう。
 法律家は、「誰」が負債を負っているのか、と問う。それは、債務契約に署名できる法的に実体があると認められたものに負債を負わせる方法を規定しなければならないからである。債務契約締結には、返済履行責任能力のある法的「人格」が必要なのである。簡単にいえば、契約書の内容を理解した上で、それにサインすることができる「人格」が必要なのである。
 ある集団が負う債務が問題となるとき、それを負うのは、個々ばらばらな人たちの集まり、あるいは、それぞれ個別に考えられた成員ではない。例えば、個々のフランシスコ会修道士の資格においてではなく、フランシスコ会の名において、あるいは、パリ市内のここかしこの住人たちとしてではなく、パリ市の名において、集団的意志を表明できる「人格」が債務契約締結には必要なのである。
 ところがそうなると、事は純粋に法的な契約の話では済まなくなる。契約書にサインした集団に、それ固有の心理的構造つまり様々な感情を持ちうる「人格」が発生する。
 それは、「己」の意志や感情を表明するグループという経験的事実に私たちは立ち会うことになる、ということである。それらのグループは、例えば、「私たちはある外国勢力によって屈辱的な扱いを受けた」、「私たちは感情を傷つけられた」「私たちは名誉の回復を求める」「私たちは恥辱が拭われることを欲する」等々、「人格」として一人称(複数)でその感情を表明することができる。
 それらのグループは、以後、一個の「人格」として行動する。つまり、グループの名において署名することによって、名誉と承認を求めるシステムの中で、同定可能な或る「身分」を己自身に与えたのである。