内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第二章(八)

2014-03-28 00:00:00 | 哲学

2.3 人間存在の自己形成作用としての行為的直観

 西田における厳密な意味での行為的直観、つまり高次の行為的直観は、歴史的実在の世界あるいは歴史的生命の世界の中で人間存在によって現実化される。行為的直観は、歴史的世界において形が形自身を自ら限定するということからなる。それは、この世界の「歴史的身体」によって、この世界において、現実化される。それゆえ、もはやそこでは主体と環境との相互限定的な関係、つまり、本質的に連続性、反復性、画一性によって特徴づけられる二項関係が問題なのではない。人間存在による行為的直観は、世界が自らの内部そのもので、諸々の形のある構成形態を自らに与えることからなる。この動的で創造的な構成形態の知覚的中心が私たちの行為する身体にほかならない。この身体は、また、「歴史的身体」とも呼ばれる。「形が形自身を限定することが、行為的直観と云うことである。」つまり、世界が私たち行為する身体によって自己自身を限定し、自己自身を形作り、その行為する身体も含めたすべての自己構成要素に〈形〉を与えることが行為的直観にほかならない。
 人間存在による行為的直観は、世界の諸事物の配置あるいはその構成形態の創造の起源に、世界の世界自身についての新しい認識ならびに世界の新しい自己形成作用の産出の起源にある。世界のこれらの諸配置あるいは構成形態は、私たち歴史的身体を構成員とする共同体によってそれと認知され、共有され、保存されうるが、と同時に、それらは、一つの歴史的身体によって否定され、破棄され、変容させられることもありうる。自己形成的な歴史的実在の世界における行為的直観の起動点として、人間存在は、これらの諸配置あるいは構成形態との関係において、それらの只中にあって、自らをある一定の形に自己限定する。この意味での行為的直観によってこそ、世界は自らを理解し、自らを表現し、その内部そのものにおいて自らに〈形〉を、つまり諸々の形の構成形態を与える。
 西田において、生物の世界とはただ「作られたもの」からなる世界であり、ある限定された諸形態の無際限の繰り返しにとどまり、そこには創造性が見出されない世界である。それに対して、人間存在がそれとして生きる歴史的現実の世界は、生物の世界とは異なって、「作られたものから作るものへ」と展開する。私たちの行為する身体は、作られたものであると同時に作るものであるから、まさに私たちの身体においてこの作られたものから作るものへの転回、反復から創造への転回がこの世界の只中に到来するのである。歴史的生命の世界では、作られたものは作るものを産出するために作られている。いわば、被造物は、創造者が被造物の只中に生れるように作られているのである。この意味において、被造物の創造性ということも問題にすることができるであろう。
 「行為的直観とはポイエーシス的自己の過程である。」この定義が示しているのは、ポイエーシス的自己は、歴史的身体として、歴史的現実の世界の只中で行為的直観を実行するということである。一つの歴史的身体として具体化されている私たちの行為的自己は、世界の自己形成の起動点として、自らを取り巻く諸々の形との関係において限定されたある形に自らを限定しながら、世界の構成形態を創造する。それゆえ、この世界における行為的直観に先立つ独立で自律的な自己の存在は排除される。私たちのポイエーシス的自己は、私たちの歴史的身体が〈いま〉〈ここ〉において歴史的現実の世界の中でそれぞれ個別的な仕方で自己限定するという意味において、かけがえのない事実である。私たちの歴史的身体それぞれのかけがえのなさが私たちのポイエーシス的自己の創造性の起源にある。しかしながら、ポイエーシス的自己は時間空間の中で限定された身体的自己においてのみ具体化されるまさにそのことゆえに、私たちの自己における作られたものから作るものへの展開は必然的ではなく、しばしば危険に晒される。私たちの自己の脆弱さは、私たちの歴史的身体が出会うこの不確実性あるいは困難に由来する。













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