内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

石の謎、死体の局部研究、民俗学者としての渋沢敬三の開花

2021-07-27 14:58:16 | 読游摘録

 二日連続で二時間走った。といっても、速歩のほうが速いのではないかというスローペースで18,5キロ。今日はナイキのペガサス38で走った。シューズによって走り方を少し変えたほういいこともわかった。それはより速く走るためではなく、より疲れにくい走り方、膝、前脛骨筋、アキレス腱などにより負担がかかりにくい走り方をするためである。今日はまったくどこにも痛みが出ることもなく完走できた。ほんの少しずつペースを上げて、どこにも痛みがでないように気をつけつつ、二時間で20キロあたりを目標にしようと思う。
 五来重『石の宗教』(講談社学術文庫 2007年 初版単行本 1988年)をところどころ読む。石は不思議だ。五来は「謎だらけ」だという。

これは自然界の謎を石が背負っているように、人間の心の謎を石が背負っているからだろうとおもう。そして人間の心の謎は宗教の謎である。したがって宗教の謎が解ければ、石の謎も解けるにちがいない。その宗教というものも、人間の頭でつくった文化宗教では石の謎は解けない。仏教の唯識の三論の、天台の真言のといっては、石仏の謎一つも解けないだろう。キリスト教の神学でも、儒教の哲学でも石には歯が立たない。それは自然宗教としての原始仏教、未開宗教、あるいは庶民信仰や呪術宗教の分野だからである。

「謎の石―序にかえて」より

 植木雅俊『仏教学者 中村元 求道のことばと思想』(角川選書 2014年)、半分ほど読み終える。この稀代の碩学がどれほど偏狭なアカデミズムやセクショナリズムを嫌い、それと戦い続けていたかがよくわかり、とても興味深い。心に触れるエピソードも多い。同書には『比較思想の軌跡』(東京書籍 1993年)から数カ所引用されているが、その一つを孫引きする。

日本の哲学的諸学問の大きな欠陥は、人間の生きること、人間の思考・感情の諸様相の生きた体系を、そのものとしてとらえようとせず、細分化してしまって、人間そのものを見失っていることである。いわば生体解剖をした死体の局部局部を研究しているようなものである。

 こう中村元が述べたのは比較思想学会第五回大会(おそらく1978年)でのことだが、それから四十年以上経った現在も、解剖された死体の局部研究のような論文を書かなければ、ガクジュツ的論文とみなされず、したがって研究者として認められないという状況は、さほど変わってはいないのではないだろうか。
 佐野眞一『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』(文春文庫 2009年)第四章「廃嫡訴訟」を読む。渋沢栄一の嫡子篤二の廃嫡が東京地裁により正式に決定されたのは、大正二年一月十五日のことであった。それは、敬三が十六歳のとき、東京高等師範学校附属中学の卒業を間近に控えていた。大正四年八月、渋沢同族会は株式会社に改められ、十九歳の敬三が初代社長に就任する。栄一の「放蕩息子」篤二の代わりに渋沢宗家当主となることがこれで決定的となる。祖父栄一が九十一歳で大往生を遂げたのが昭和六年十一月。翌昭和七年一月、篤二の若き日の養育係であり、敬三に対してもなにくれとなく世話をやいた穂積歌子も六十八歳で他界。同年十月、父篤二、白金の妾宅で死去。

偉大なる祖父と、その重圧にうちひしがれたまま蕩児として生涯を終えた父、そして渋沢一族の繁栄をひたすら願った謹厳実直な伯母の相次ぐ死は、敬三を悲嘆のどん底にたたきこんだ。だが、渋沢家の一つの時代の終わりを告げる三人の死は、一面、敬三にとって一種の解放でもあった。

敬三が本格的に民俗学者として開花するのは、祖父栄一の死後である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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黒い緑の森 ― いつかまた熊野を歩きたい

2021-07-25 18:40:44 | 読游摘録

 今朝は起きるのが少し遅かった。朝七時にウォーキングに出かける。ここ数日、痛みがあるわけではないが脚部が少し疲れ気味なので、ジョギングは昨日今日と休むことにした。それでも、昨日土曜日は、街中への買い物の行き帰りに十二キロ歩いた。今日日曜日は、森までの行き帰りは歩き、森の中で少し走った。総歩行・走行距離は二十キロ。三時間余り、休まずに歩き、走った。
 どんな変化が体に起こっているのかよくわからないが、先週火曜日から体脂肪率が一段と下がった。12%台に入った。特に体幹の変化が目立つ。二ヶ月前にはあった腹回りの贅肉がほぼすべて削ぎ落とされ、皮下脂肪は7%台まで落ちた。BMIも20,5だから、もう痩せなくてもいいところだが、脚部の皮下脂肪が一桁に落ちるところまで絞りこみたい。
 五来重『熊野詣 三山信仰と文化』(講談社学術文庫 2004年 初版単行本 1967年)を少し読む。2010年夏に熊野坐神社(本宮)を友人と二人で訪れた。本宮までまず車で行き、中辺路を滝尻王子址まで徒歩で往復した。那智勝浦は、1984年春にバイク仲間二人とツーリングに行った。いつか本宮から新宮まで歩いてみたい。

 熊野は謎の国、神秘の国である。シュヴァルツ・ワルトともいうべき黒い緑の森と、黒い群青の海。その奥にはなにかがかくされている。海と山と温泉の観光地なら、日本中どこにでもある。しかし熊野にはほかのどこにもない何かがある。南紀のあの明るい風光の奥にはこの世とは次元のちがう、暗い神秘がのぞいている。
 熊野は山国であるが、山はそれほど高くはないし、森も深くはない。しかしこの山は信仰のある者のほかは、近づくことをこばみつづけてきた。山はこの秘境にはいる資格があるかどうかをためす試練の山であった。ただ死者の霊魂だけが、自由にこの山を越えることができた。人が死ねば、亡者は枕元にたてられた樒の一本花をもって熊野詣をするという。だから熊野詣の途中では、よく死んだ親族や知人に会うといわれた。これも熊野の黒い森を分ける山径が、次元のちがう山路――死出の山路と交叉するからであろう。私も那智から本宮へむかう大雲取越の険路で死出の山路を分けすすんでいるのではないかとう幻覚におそわれた。尾根道であるのにじめじめとうすぐらく、徽くさい径であった。草に埋もれたその径には手の込んだ敷石が延々とつづいていた。その中世のめずらしい舗装道路は、中世人が「死者の国」にあこがれる執念のかたまりのようにおもわれた。

五来重『熊野詣』「はじめに」より

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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孫少年のこと ― 佐野眞一『旅する巨人』より

2021-07-24 23:59:59 | 読游摘録

 今日、集中講義事前ミニ演習の第二回目。立川武蔵『空の思想史』を読む。西谷啓治『宗教とは何か』に展開されている空の思想のよりよい理解のための準備作業。「諸法実相」が日本における空の思想の鍵鑰であることを強調する。参考文献として末木文美士『日本仏教史-思想史としてのアプローチ-』(新潮文庫 1996年 初版単行本 1992年)を挙げておく。とくに「FEATURE 2 本覚思想」が参考になる。
 昨晩、佐野眞一『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』の第二章「護摩をのむ」を読む。深く感動する。

 宮本が住んだのは、昭和二(一九二七)年に役場が改築され、そのあまった資材で建てられた教員住宅だった。泉州沖をのぞむ松林のなかにポツンと建てられたその教員住宅に、毎晩のように子供たちが押しかけた。
 宮本は子供たちがくると自炊する手を休め、何時間でも話しこみ、日曜日には、村を中心に十キロくらいの範囲を子供たちと一緒に歩きまわった。そういうとき、宮本はきまってこんな話をした。
「小さいときに美しい思い出をたくさんつくつておくことだ。それが生きる力になる。学校を出てどこかへ勤めるようになると、もうこんなに歩いたり遊んだりできなくなる。いそがしく働いてひといきいれるとき、ふっと、青い空や夕日のあった山が心にうかんでくると、それが元気を出させるもとになる」

 宮本はとりわけ被差別部落出身の生徒や、片親で育った生徒には肉親同然の愛情を注いだため、女生徒たちはみな宮本を兄のように慕ったという。宮本は孫普澔という朝鮮からきた少年にとりわけ目をかけていた。

 宮本は貧しい孫に目をかけ、朝鮮はいつか必らず日本から独立する、それまで頑張れと励ましていた。あるとき、孫が行方不明になった。別の先生がきつく叱ったのが失踪の原因だった。
 警察に捜索願いを出すと、一週間ほどして、信州の木曾福島の山中でそれらしき少年を発見したとの連絡が入ってきた。その夜、宮本が信州へ行く旅仕度をしていると、校門のところにたたずんでいる黒い人影がみえた。学生帽をまぶかにかぶって、小わきには風呂敷づつみをかかえている。
 宮本が「孫くんか、入りなさい」というと、孫は宿直室に飛びこむなり宮本にむしゃぶりついて、うめくように泣きつづけた。信州から飲まず食わずの旅をつづけ、家にも帰らずまっすぐ宮本のところにやってきたという。宮本は、「いい経験だったね。私にもいい経験になった」とだけいった。

 その後、宮本は、無理が祟って肺結核を発症する。

 宮本の発病を知った子供たちは毎日のように教員住宅につめかけた。
 家出した孫は、自分の家から布団を運びこみ、それを敷いて宮本のそばで寝た。夜半に目をさますと、台所で水枕の水をかえる孫の小さな姿がみえた。宮本は眠ったふりをしていたが、孫の小さな冷たい手が額にあたるたび涙があふれた。
 学校の近くに、春日神社というかなり大きな社がいまでもある。孫はその神社に毎朝、裸足まいりの願をかけた。
 数日後、宮本は危篤におちいった。医者が枕元で、「今夜がヤマでしょう」と、郷里からかけつけた両親に伝えているのを朦朧とした意識のなかで聞いていた。
 熱はその日から次第に下がっていったが、数日後、宮本はまた危篤におちいった。その知らせを聞いた孫は一日じゅう泣きつづけ、学校も休んだ。裸足まいりが通じなかったことに憤った孫はその日から、一里近い道のりにある別の神社へ日参し、水垢離をとりはじめた。
 宮本は、孫のためにだけでも元気になりたいと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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日本に帰れないこの夏、忘れられた〈日本〉を旅する

2021-07-23 05:55:49 | 読游摘録

 昨日の記事で話題にした山本博文『対馬藩江戸家老』の「はじめに」の中に、「対馬は、宮本常一氏の著作に示されるように民俗学調査の宝庫であり、亀卜などの宗教学的に珍しい風習もある」という一文がある。実際、宮本常一は、昭和二十五年七月に八学会連合によって行なわれた対馬調査に参加し、翌年も九学界連合に発展した同連合の対馬現地調査にも参加している。対馬についての著述も多く、名著『忘れられた日本人』(岩波文庫 1984年 初版 1960年)の冒頭の一文は「対馬にて」である。
 この夏も昨夏に続き一時帰国をあきらめた。この年末年始には帰国したいと思っているが、年末年始は帰国期間がせいぜい三週間だから、なかなか旅行に出るチャンスもない。2017年夏は北海道を訪ねた。2018年夏は沖縄と岐阜を訪ねた。今度夏に帰国するときは、また別の土地を訪ねたい。その機会を夢見つつ、この夏は書物を通じて「忘れられた日本」を旅することにした。
 手始めとして、佐野眞一の『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』(文春文庫 2009年 初版単行本 文藝春秋社 1996年)を読み直し始めた。本書は傑作評伝である。
 その第一章「周防大島」の中に、常一が故郷周防大島を離れ大阪に出るとき、父善十郎が十六歳になる前の息子に書き取らせた十カ条のメモの全文が引用されている。この十カ条は宮本の回想的自叙伝『民俗学の旅』に全文紹介されている。小学校も出ていない父親が長い旅の暮らしのなかで身につけたその人生訓は実に味わい深い。少し長いが、全文引く。

①汽車に乗ったら窓から外をよく見よ。田や畑に何が植えられているか、育ちがよいか悪いか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか、そういうところをよく見よ。
 駅へ着いたら人の乗りおりに注意せよ。そしてどういう服装をしているかに気をつけよ。また駅の荷置場にどういう荷が置かれているかをよく見よ。そういうことでその土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかそうでないところかよくわかる。
②村でも町でも新しく訪ねていったところは必らず高いところへ登って見よ。そして方向を知り、目立つものを見よ。
 峠の上で村を見おろすようなことがあったら、お宮の森やお寺や目につくものをまず見、家のあり方や田畑のあり方を見、周囲の山々を見ておけ。そして山の上で目をひいたものがあったら、そこへは必らず行って見ることだ。高い所でよく見ておいたら道にまようことはほとんどない。
③金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。その土地の暮らしの高さがわかるものだ。
④時間のゆとりがあったらできるだけ歩いてみることだ。いろいろのことを教えられる。
⑤金というものは儲けるのはそんなにむずかしくない。しかし使うのがむずかしい。それだけは忘れぬように。
⑥私はおまえを思うように勉強させてやることができない。だからおまえには何も注文しない。すきなようにやってくれ。しかし身体は大切にせよ。三十歳まではおまえを勘当したつもりでいる。しかし三十をすぎたら親のあることを思い出せ。
⑦ただし病気になったり、自分で解決のつかないようなことがあったら、郷里へ戻って来い。親はいつでも待っている。
⑧これから先は子が親に孝行する時代ではない。親が子に孝行する時代だ。そうしないと世の中はよくならぬ。
⑨自分でよいと思ったことはやってみよ。それで失敗したからといって親は責めはしない。
⑩人の見のこしたものを見るようにせよ。そのなかにいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分の選んだ道をしつかり歩いていくことだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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本を読んでいる間、人は人を殺せない ― この夏の読書リストのために

2021-07-21 21:49:55 | 読游摘録

 今日の記事のタイトルは、なにやら三流(いや五流ですね)ミステリー小説っぽいタイトルですが、奇を衒ったわけではなく、とても単純な気持ちで、本に読み耽っている間は他のことはできないですよね、と言いたかったに過ぎません。
 「小人閑居して不善を為す」と古来言われておりますが、私など、自慢じゃありませんが、小人の中の小人であり、閑居しまくっておりますから、不善を為す危険、マックスなわけでございます。ですから、まかり間違って不善を為さないように、ちょっと対策を講じたほうがいいわけです。で、とりあえず、本でも読みましょうかってことです。
 なんかひどくつまらない前置きをいたしましたが、今日もまたぞろ、「よしっ、これ全部読んでやる!」って意気込んで、ポチッと買ってしまった電子書籍八冊のタイトルを以下に列挙します。なんですべて講談社学術文庫なの?というご質問に対しては、だって、今日が講談社の本の30%引きの最終日なんだもの、とお答えしておきます。
 でも、それらの本の名誉のために言っておきますが、読んで絶対損しない名著ばかりです。カッコ内の最初の出版年は、講談社学術文庫としての紙の本の出版年です。電子書籍版がほぼ同時出版される場合もありますが、十数年後の場合もあります。でも、それは示してありません。いずれの本も学術文庫版は再刊ですので、底本である原著の出版年を学術文庫としての出版年の後に付け加えてあります。本文はほぼ底本のままの再刊の場合もあれば、若干の改変が施されている場合もあります。本の配列は、底本の出版年順です。

鳥越憲三郎『出雲神話の誕生』(2006年 1966年)
五来重『熊野詣 三山信仰と文化』(2004年、1967年)
五来重『日本の庶民仏教』(2020年、1985年)
増田四郎『ヨーロッパ中世の社会史』(2021年 1985年)
五来重『石の宗教』(2007年 1988年)
渡辺公三『レヴィ=ストロース 構造』(2020年 1996年)
渡邊昌美『異端審問』(2021年 1996年)
片桐一男『阿蘭陀通詞』(2021年 2016年)

夏休みの読書計画リストにまだ空きがある方、ご興味に応じて、上掲の八冊の中から一冊リストにお加えになってはいかがですか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「“伝統"はそれぞれの時代において創られるものである」― 義江明子『女帝の古代王権史』より

2021-07-19 15:03:53 | 読游摘録

 昨日の記事で取り上げた『女帝の古代王権史』の「あとがき」で、著者義江明子は、歴史研究者としての中庸を守りつつ現在の女性/女系天皇容認を巡る議論に言及した上で、さらに一歩踏み込んだ発言をしているところを引いておく。

 本書はこうした議論に直接答えようとするものではない、ただ、“伝統"の重要性がいわれながらも、その“伝統"の内容と成り立ちをほとんどの国民が知らないのではないか。これもすでに歴史の常識ではあるが、“伝統"はそれぞれの時代において創られるものである。王権構造は社会の変化に応じて組み替えられ、“伝統"の中身も時代ごとに塗り替えられてきた。本書ではおもに六世紀~八世紀、男帝女帝が並び立っていた時代に焦点を当てて、その社会的背景と変容の過程を明らかにしたものである。
 主権者たる国民の象徴として位置づけられた現行憲法のもと、天皇/皇室のあり方も時代の要請に応じて変わり、新たな“伝統"が国民によって共有されていくのは当然のことである。だとすれば、ことは女帝容認の有無にとどまらないことが見えてこよう。男女の平等はもちろん、婚姻の自由、職業選択の自由といった憲法の基本理念を最大限活かす方向を、国民が皆で考えていくべきではないか。

 知性も品性も徳性もない「非国民」でしかない政治家たちによって愚弄されるだけの国民でありたくないとすれば、そのような亡国的な政治家たちによって自分たちの国を破壊されたくないと願うのならば、歴史に学びつつ、これらの問題を自分で考え、自分の言葉で表現できるような一個人でそれぞれがなければならないだろう。と同時に、次世代のためにそのような自立した個人を育てる教育が小学校から大学まで(少なくとも高校まで)地道に積み重ねられなければならないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「古代の倭/日本は、もともと双系社会だった」― 義江明子『女帝の古代王権史』より

2021-07-18 20:19:12 | 読游摘録

 昨日の発表に対して、その主旨からは逸れるがと断った上で、「日本はもともと母系(女系)社会であったのに、それが父系(男系)社会に転じたのはなぜなのか」という質問があった。それに対して、「日本はもともと双系社会であったのが、持統天皇が導入した直系継承が契機となり、八世紀後半に女帝が終焉し、父系直系継承へとシフトしていった」と簡単に答え、三浦佑之『神話と歴史叙述』(講談社学術文庫 2020年)と武澤秀一『持統天皇と男系継承の起源』(ちくま新書 2021年)を参考文献として挙げるにとどめた。
 しかし、今日になって、義江明子『女帝の古代王権史』(ちくま新書 2021年)をむしろ挙げるべきだったと気づいた。著者は、歴史学者としてまさにこの問題に取り組み、『日本古代女帝論』(塙書房 2017年)を上梓しているからである。
 以下、『女帝の古代王権史』から上掲の問いに関わる箇所から摘録しておく。

六~八世紀の倭/日本には、女の王を普遍的に生み出す条件があり、八世紀後半以降はそれが失われていったとみなければならない。

女帝を普遍的に生み出した条件とは何か。それは双系的親族結合と長老原理である。

双系的親族結合を基本とする社会では、父方と母方のどちらに属するかは流動的で、父方母方双方の血統が子の社会的・政治的地位を決める上で重要な要素となる。人類学的な知見によると、こうした社会は東南アジアから環太平洋一帯に広がりをみせていて、日本列島もそこにつらなる。古代の倭/日本は、もともと双系社会だったのである。

長老女性が退位後も太上天皇として年少男性を支え育成するというシステムが持統によって築かれ、八世紀を通じて律令国家における君主権の強化を実現した。双系社会の長老原理を土台に、新たに導入された直系的継承へのソフトランディングがなされたのである。八世紀後半に女帝が終焉した後、数々の模索を経て、父系直系継承原理のもと即位した幼帝を母后と外戚摂政が支えるという新たなシステムは、九世紀半ば以降に築かれていく。

 最初の二つの引用の中で使われている「普遍的」という言葉に引っかかるが、それを除けば、これらの引用に示されている見方は学界の女帝研究の最新動向を反映していると見てよいことが「あとがき」を読むとわかる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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近江荒都歌の背景を織り成す人の世の綾

2021-07-12 00:00:00 | 読游摘録

 森公章『「白村江」以後 国家危機と東アジア外交』(講談社選書メチエ 一九九八年)によれば、「白村江の敗戦後の不安定な世相の中、中央豪族たちは、天智大王が慣れ親しんだ飛鳥の地から畿外の近江に都をうつし、新しい政治を展開しようとしていることにとまどいを覚えていたのに加え、百済人を登用することに抵抗を感じていたものと思われる」。
 柿本人麻呂が近江荒都歌の第一反歌で「大宮人」と詠い、第二反歌で「昔の人」と詠うとき、その中には近江大津宮に仕え、大友皇子とも親しくしていた百済からの渡来人たちも含まれていたであろう。何かが決定的に過ぎ去ってしまい、もう二度と戻っては来ない、という痛切な想いが人麻呂にこれらの歌を詠ませたと思われる。
 すべての百済人が近江方についたわけではない。天武朝以後も、数多くの百済人が学問や技術で朝廷に奉仕している。ただ、「一方で天武朝以降は新羅との通交が活発におこなわれ、新羅の影響を受けながら、中国風の律令制が導入されたことも事実である。したがって壬申の乱は、天武天皇の朝廷が亡命百済人との関係や百済文化に依存する度合いを考え直す契機になったと位置づけることができよう」(森公章上掲書)。
 これらの政治的背景を念頭に置いて近江荒都歌を読むとき、歌そのものの文学的解釈の彼方に、その歌の背景として織り成されていた人の世の綾が見えてくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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すぐには読めないけれど気になる本を性懲りもなく買い続ける悪癖に効用がないわけではない

2021-07-10 10:39:57 | 読游摘録

 その本が属する分野、取り扱っているテーマ、視角の開き方、問題の設定の仕方、採用されている方法などに関心はあっても、実際にはそこまでは手が出せない、そもそも読む時間が取れないからと素通りしようとして、でも、やっぱり気になってしまい、ちょっと覗くだけでもいいからと、つい買ってしまう本のなんと多いことか。
 紙の本であれば、それらの本は積読ということになるが、ここ数年、紙の本に対する私的購入選定基準は相当に厳しくなり、その 嵩はかなり減少した。これには収納場所の限界という理由もある。ところが、電子書籍にはこの物理的スペースという問題が発生しない。それだけ購入を躊躇わせるハードルが下がる。特に、紙の本そのものへの所有欲は小さく、書かれてある内容に興味があり、それがわかればよいという場合、買わないように自分を説得するのに苦労する。そんな自己説得で時間を無駄にしているくらいなら、とっとと買っちまえ、という結果になる。
 買ったときにちょっと覗いただけだった本が何年も経ってから意外なところで役に立ったことも過去に何度もあったから、それらの本がけっして無駄になるわけではない。これは嘘でもないし、強弁でもない。でも、買ったことさえ忘れてしまうこともなくはなく、何年も経ってから、「あれっ、この本持ってたんだぁ」と苦笑することもある。そういうことが年々増えてきていることも認める。
 最近そんな買い方をした電子書籍の中に以下の三冊の講談社学術文庫が含まれている。五百旗頭真『日米戦争と戦後日本』、下斗米伸夫『日本冷戦史 1945-1956』、清宮四郎『憲法と国家の理論』(編・解説:樋口陽一)。いずれも優れた内容の本であることは確かで、じっくり読むべきなのだが、すぐには読めない、でも、およそ何が書いてあるかは覚えておこうと、昨日と今日、全体を走り読みし、ところどころ集中して読んだ。それだけでも私としては得るものがあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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発表の隠し味、それそのものも美味しくいただけます

2021-07-09 12:46:26 | 読游摘録

 今日は、来週末の発表の準備の一環として、発表の中では引用しないが、いわば隠し味として発表の際に念頭に置く書物から摘録しておく。

 三浦佑之『改訂版 神話と歴史叙述』(講談社学術文庫 2020年)。
 「歴史そのものを成り立たせる根拠として、神がみの世界は描かれねばならなかったのである。神話とは、〈今〉を根拠づけるところの、その起源を明らかにするものであった。」
 「古代律令国家において〈法〉と〈史〉とはつねに対になる存在として認識され、その撰録・編纂の事業は並列的に行われてきた。」
 「神話的な起源というのは過ぎ去ってしまうものではなく、つねに繰り返し再現され想起されることで〈今〉に向き合っているのだから、両者を繋ぐための説明としての直線的な時間は必要ないと言ったほうがよい。」
 「無時間的な世界では国家は機能しない。それゆえに、歴史(史書)への企てが国家の成立とともにはじめられることになったというは必然である。」
 「家族史の流れとしては、男系も女系もありえた時代があり、それが六世紀以降になると次第に男系へと傾斜することになり、律令制度の導入が列島の男系優位を決定づけることになった。その男系の中心に位置する天皇家でさえ、男系の血筋を主張しながら女帝を擁立するのには、政争を理由とした中継ぎというだけではすまない、女性の能力の顕在化を認めなければならないはずである。」

 佐藤信編『古代史講義 【宮都篇】』(ちくま新書 2020年)、第三講「大津宮―志賀の都の実像」(古市晃)。
 「近江遷都は多くの反対があったにもかかわらず、なぜ断行されたのであろうか。その原因はさまざまに考えられているが、直接の原因がこの時期の国際情勢の緊迫にあったことは確実であろう。」
 「朝鮮半島情勢の激動の中で、唐の脅威は倭の支配層に切実な課題として認識されていたはずである。」
 「遷都が外敵からの防御という、緊急の課題に対応することを目的としたことは否定できない。」
 「六六五年(天智四)には、百済から難を逃れてきた人びとであろうか、男女四〇〇人が近江の神崎郡に配置され田地を支給されている(『日本書紀』同年二月是月条)。百済の人びとの持つ先進の技術が地域開発にあてられたのであろう。近江はもともと渡来人の多い土地でもあった。近江また大津と朝廷との結びつきは、遷都以前から確実に強まっていたことを考えておく必要がある。」

 義江明子『女帝の古代王権史』(ちくま新書 2021年)。
 「君主号としての「天皇」号は、正妻格のただ一人のキサキ=「皇后」、王族一般とは区別された天皇の御子=「皇子/皇女」の地位・称号の成立と一体で、天武朝後半にその実質を備えていき、飛鳥浄御原令で制度的に確立したのである。」
 「天武の後継者は、天武に並ぶ人格的力量をもち、かつ、個人に依存しない官司機構を確立するという課題を担うことになる。その課題を果たしたのが、持統だった。」
 「天武も、万葉歌で、「大君は神にしませば」と詠われた。しかし、天武が獲得した「神性」(万葉歌一六七番など)は、卓越した軍事指導者としての人格と結びついた、いわば一代限りのものだった。持統はそれを、神話にもとづく天皇の神的権威として普遍化・体系化し、君主の正当性のバックボーンにまで引き上げたのである。」

 武澤秀一『持統天皇と男系継承の起源―古代王朝の謎を解く』(ちくま新書 2021年)。
 「天孫降臨神話と聞くと、それは遥か遠い昔からの伝承と思っているかたも多いことでしょう。しかし、それは違います。持統天皇が即位する前後に徐々に醸成されていった、極めて政治色のつよい神話なのです。」
 「天孫降臨神話は〈祖母―(息子)―孫〉による〈タテ系列〉の代替わりを明示します。これに並行して、現実の代替わりを兄弟間継承の〈ヨコ並び〉から〈タテ系列〉へと、すっかり変えてしまいました。この大転換の核心となり、自らあたらしいスタートラインに立ち、第一走者となったのが持統天皇だったのです。」
 「天孫降臨神話の“劇場化"を想わせる一連の演劇的パフォーマンスをとおして、持統天皇は着々と自らの神的権威を高めてゆきます。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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