内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

古代哲学史と中世精神史の新世代を代表する二つの巨星

2019-10-31 23:59:59 | 哲学

 昨日の記事で紹介した二冊の本の編訳者あるいは著者、Cédric GiraudPierre Vesperini は、それぞれの専門分野であるヨーロッパ中世文化史・精神史と古代ギリシア・ローマ哲学史での新世代を代表する最優秀の研究者である。どちらも40歳を越えたばかりだ。すでに大きな業績を築いており、気鋭の学者というよりも、何か大家の風を漂わせるほどにその学識は深い。読む者に眩暈を引き起こしかねない博覧強記に裏づけられたその精細な議論は、既存の理解の枠組みそのものの組み換えを迫る静かな迫力に充ちている。それぞれに中世史と古代史との専門的な研究でありながら、まさにそうであるからこそ現代に至るまでのヨーロッパ精神史を新しい光で照射し直さずにはおかない彼らの著作を読んでいると、その精神的エネルギーによってこちらの頭脳も荷電されたかのような知的興奮を覚え、文字通りの浅学菲才の身ではありながら、研究への意欲を掻き立てられる。













二つのテーマ:「中世キリスト教世界における霊性へと至る内省の形式・方法・階梯」&「古代ギリシア・ローマ社会において生きられた哲学の実像への方法的接近」

2019-10-30 19:32:35 | 哲学

 昨日の記事で話題にしたのは、来月からの数ヶ月の研究・教育に関わる計画であった。それらと併行してというのは時間的にとても無理であろうが、折りに触れて理解を深めていきたい主題が二つある。
 一つは、十一世紀から十五世紀までの中世キリスト教世界に見られる、霊性へと至る内省の形式・方法・階梯を、それらの確立と普及に寄与した諸著作を時代順に読みながら認識を深めること。もう一つは、古代ギリシア・ローマ時代に哲学(フィロソフィア)はそれぞれの社会の中でどう位置づけられ、どう生きられていたのかという問題を、ピエール・アドやミッシェル・フーコーが築いた古代哲学像を一旦括弧に入れて、より虚心にその時代の文脈に立ち返って考え直すこと。
 どちらのテーマも、今月の後半に出版されたばかりの書籍に刺激されて、私個人の哲学的関心を強く惹くものとしてにわかに浮上してきた。前者は、ガリマール社の Pléiade 叢書の新刊 Écrits spirituels du Moyen Âge (Textes traduits, présentés et annotés par Cédric Giraud) に触発されてのことである。後者は、Pierre Vesperini の La philosophie antique (Fayard) がちょうど一週間前に刊行されて、避けて通れない問題だと思った次第である。
 両方のテーマについて、上掲二書を少しずつ読みながら、じっくりと学んでいきたい。その経過報告を拙ブログに不定期ではあるが掲載していこうと思っている。












認知科学と現象学の橋渡しとしての「空」の思想が開く視角から美の経験を記述する試み

2019-10-29 19:16:05 | 哲学

 先週の土曜日から万聖節の休暇に入った。が、休暇中に中間試験の採点をしておきたいし、今週の金・土は若手日本研究者たちとのワークショップが CEEJA であり、自由になる時間は限られている。
 それでも、この数日間の貴重な休暇の間にやっておきたいことがある。まず、来月22日のパリ・ナンテール大学での国際シンポジウムでの発表の準備、来年2月の講演の下準備、そしてより包括的な自分の個人研究のためのノート作成である。
 かなり欲張りなのはわかっている。それには一つ理由がある。それぞれ個別に扱ってきたテーマを互いに結びつけることができる問題場面が見えてきたのである。
 それを気づかせてくれたのが、フランシスコ・ヴァレラ(Francisco Varela)の論文 « Pour une phénoménologie de la śūnyatā »(初出は N. Depraz et J.-F. Marquet (dir.) La Gnose, une question philosophique. Pour une phénoménologie de l’invisible, Éditions du Cerf, 2000. 私が読んだのは、ヴァレラの仏訳論文集 Le cercle créateur, Éditions du Seuil, 2017 に収録されたテキストで、編者 Michel Bitbol による若干の修正有)である。
 ヴァレラがエヴァン・トンプソンとエレノア・ロッシュとの共著として出版した The Embodied Mind: Cognitive Science and Human Experience, MIT Press, 1991(私が読んだのはその仏訳 L’inscription corporelle de l’esprit. Sciences cognitives et expérience humaine, Éditions du Seuil, 1993. 邦訳『身体化された心―仏教思想からのエナクティブ・アプローチ』[工作舎 2001年]は未見)には、西谷啓治の『宗教とは何か』の英訳 Religion and Nothing, University of California Press, 1982 への言及があり、西谷の空の思想を認知科学と現象学とを橋渡しするものとして高く評価している。
 ヴァレラが自らの瞑想経験に基づいて、根本的な自己変容をもたらす「開け」としての「空」の現象学を展開しようと試みているのが上掲の論文である。この論文にも、一か所だけだが、『宗教とは何か』の英訳への言及が見られる。
 来月22日の発表では、仏教思想史の中の空の思想の系譜の中での西谷のそれの位置づけはほんの前置き程度に止め、現代におけるその可能性を認知科学と現象学の両面から前面に押し出す。
 来年2月にする講演は、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』についてである。谷崎が日本固有の伝統美として挙げている諸例を、ヴァレラによる認知科学的立場とメルロ=ポンティの『眼と精神』と『見えるものと見えないもの』に見られる存在論的立場とから考察し、それらの諸例が知覚世界における美の顕現の具体的経験の精妙な記述であること、その記述は、陰翳が存在には属さない偶有性ではなく、存在のテクスチャ―と奥行であることを示していることなどを話題にしたいと思っている。












歴史の中に自らを主体的に「書き込み」、そこで問題を考える試験問題

2019-10-28 03:55:45 | 講義の余白から

 25日金曜日は、「近代日本の歴史と社会」の中間試験だった。三種類の異なったタイプの問題を与え、そのうちの一つを学生たちに自由に選ばせた。それぞれどのような形式になるか、何をテーマとするかは、一週間前の授業で説明し、一週間かけてしっかり準備してこい、と言ってあったので、試験当日に三種の問題のいずれを選ぶかで迷う学生はいなかった。
 第一タイプは、小論文。授業で取り上げた短い日本語のテキストを与えた上で、それを踏まえながら、世界史的視野から見て日本史に適用されるべき〈近代〉概念についての意見を述べよ、という問題。第二タイプは、テキスト注釈。授業で取り上げた明治期の神道非宗教論に関するテキストのコメントを通じて、西洋起源の religion としての宗教と国家神道の差異と関係を明確に示せ、という問題。第三タイプは、歴史文学的小品。日本のキリスト教の世紀における西洋とのファースト・コンタクトに関わる歴史的場面を一つ選び、テキストのタイプ(書簡、回想録、報告書など)を選択し、執筆者及び登場人物を特定して、歴史的事実に基づいた小品を書け、という課題。
 全受験者三十二名中、第一タイプを選んだのが八名、第二が五名、第三が一九名。資料・辞書・参考文献・パソコン・スマートフォンすべて持ち込み可としたので、学生たちはそれぞれに様々な資料を持ち込んで、公式には一時間の試験時間を大幅に超えて問題と取り組んでいた。予め時間は最大二時間まで与えると言ってあったので、皆慌てることなく、答案を仕上げていた。
 覚えてきたことを吐き出させるだけの試験の無意味さについては、拙ブログでも繰り返し述べてきた。今回の試験も、使える資料はすべて使って、自分の知力と感性と想像力を総動員して問題に取り組め、というのが趣旨であった。
 今回の試験で面白かったのは、試験開始直後、ある学生が「先生、何か禁止されていることはないのですか」と聞いてきたことだ。何で今になってそんな質問なのとちょっと不意を突かれて答えに一瞬つまったが、「隣の人の答案を見ることくらいかな。もし三文以上まったく同一の文が二つの答案にあった場合、無条件に両方とも零点にするから」とだけ答えておいた。皆自分の答案作成に集中していて、他人の答案など覗いている暇などないことはわかっていたけれども。
 このようなタイプの課題は、前任校からすでに何度も、かれこれ十年以上に渡って与えてきており、その教育的効果については実証済み。このような課題に学生たちは喜んで「主体的に」取り組む。事実の細部など忘れてしまったって構わない。無理に覚え込む必要もない。事実を史料によって確認しつつ、歴史の中に自らを「書き込み」、そこで自らのこととして当事者たちが直面したであろう問題を考え、彼らの感じたことを想像してみる。その大切さ・愉しさを私はこの講義を通じて学生たちに伝えたい。試験もそのためにある。














空思想の現在(下)聖と俗との浄化を介した全体的円環的動態としての空 ― 立川武蔵『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』を道案内として(その十一)

2019-10-27 05:14:09 | 哲学

 今日が立川武蔵『空の思想史』についての今回の連載の最終回になる。
 最終章第15章の「4 空とマンダラ」から気になったところをそのまま摘録しておく。必ずしも著者の所説に同意しているわけではないが、そうかと言って、こちらにその所説を批判するだけの素養も準備もないから、ただ、それらの箇所からかいつまんで書き写しておくにとどめる。
 「空が色としてよみがえったものの典型は、マンダラである。空の知慧を得たものが見た色の世界がマンダラである」―これが密教の主張であると著者は言う。
 「色は空である」というときは、まだマンダラは現れない。次に「空は色である」というとき、つまり、聖なるものが俗なるものに姿を見せるとき、マンダラという姿が現れてくる。
 「空」とは、「一つの静的な状態なり、点を言うのではなくて、俗なるものから聖なるものへ行き、俗なるものを浄化しながら俗なるものへ降りてくる、そういった一つの全体的円環的運動(ダイナミズム)」であり、「力として常に働いている」と著者は言う。
 著者は、仏教の「浄化」作用を強調する。世界が否定され、また再生され、また否定されていく。そういった不断の否定作業の中に、仏教の伝統は現世の浄化を進めてきたと著者は言う。
 本当にそうなのだろうか。煩悩に満ちた凡夫として汚辱に充ちた現世をのたうちまわるだけの私は懐疑的にならざるを得ない。人工的な浄水場での汚水の浄化じゃあるまいし、宗教に現世そのものを浄化する力などあるのか。浄化などそもそもできない現世でいかに生きるか、それこそが問題なのではないのか。それも、現世にあって独り悟りすますこともなく、来世での救済を求めることもなく。











空思想の現在(上)空のよみがえりとしての色 ― 立川武蔵『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』を道案内として(その十)

2019-10-26 10:15:44 | 哲学

 立川武蔵『空の思想史』をこちらの関心に応じて飛ばし読みしてきた。第14章「日本仏教における空(二)―仏教の近代化」には触れない。それは、この章の内容が重要ではないからではなく、日本思想史における仏教の近代化という大きなテーマは、今の私の問題関心とは重ならず、いずれ機会を改めて取り上げてみたいと思うからである。
 最終章第15章に移る。この章は「空思想の現在」をその主題とする。「1 ヒューマニズムの両義性」には、近現代世界を支配してきた欧米文明・文化、特に近代ヨーロッパの「悪しき人間中心主義」「悪しきヒューマニズム」へのあまりにも図式的かつ無益なまでに過激な批判が披瀝されている。
 第二節以降も、最終章ということもあり、著者自身の宗教的世界観がより前面に打ち出されている。それは、著者の思想史の方法論からの必然的な要請である。
 著者にとって、宗教とは、一言で言えば、「行為形態」である。それは、「俗なるものと聖なるものとの区別を意識した合目的的な行為の形態」である。この行為形態は、世界観つまり現状認識・手段・目的という三要素からなる。
 宗教は、行為形態であるかぎり、それは時間の中で展開される。その時間は、目的達成までの時間・目的達成の瞬間・目的達成以後の時間の三つに分節化される。
 仏教において最も重要なことは、自己否定である、と著者は言い切る。仏教は、自分を否定し、世界を否定してく。その否定は、しかし、よみがえらせるための否定である。その否定が目的に達する原動力になる。
 では、よみがえりの後はどうなるのか。目的達成のために否定されたのは、具体的には、われわれの言葉と思惟である。それらは、否定された後、よみがえって来る。これが空の思想だと著者は言う。このよみがえりの場面が、『般若心経』では、「空即是色」という句によって表現されている。「色は空である」が、俗なるものの否定を通じての聖なるものに至る道筋を示しているのに対して、「空は色である」は、聖に至ったものがまた俗なる世界に帰ってくる場面、しかもただ帰ってくるのではく、俗なるものを浄化して帰ってくる場面を示している。
 『般若心経』の「空即是色」は、空が色としてよみがえるという側面、宗教行為の第三の時間を表現している。日本における仏教は、よみがえった世界を見すえることを修道論の中心に据えてきた。こう著者は見る。












日本仏教における空(一)空海、あるいはマンダラ宇宙のアストロノート ― 立川武蔵『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』を道案内として(その九)

2019-10-25 16:58:16 | 哲学

 立川書の第13章「日本仏教における空(一)―最澄と空海」の「3 空海とマンダラ」から、空海における世界と自己との関係に関わる箇所を摘録しておく。
 密教は、自己の悟りを得るために、世界と自己との関係を視野に入れる。世界と自己とは本来同一のものであり、そのことの把握が悟りと直結していると密教では考える。
 それゆえ、世界の構造の把握が重視される。世界の構造をまず把握し、その後で、世界と自己との関係が問題にされる。
 この世界を描いた図がマンダラである。描かれた世界もまたマンダラと呼ばれる。注目すべきことは、空海がマンダラを単なる絵図と考えずに、世界の諸相がそこに写し取られていると考えていることである。この図像としてのマンダラが自己と世界との仲介者として機能する。空海にとって、マンダラとは、聖と俗とが互いに働きかけ合う聖俗相即の世界である。
 空海は、『十住心論』で修行の実践者が辿る十階梯を述べている。その第八階梯が「如実一道心」(すべてのものは清浄であって認識の対象も主体も融合している段階)であり、第九階梯が「極無自性心」(水にはこれと決まった自体がないゆえに風にあって波が立つのみであるが、悟りの世界にはこれと決まった際がないと知る段階)であり、それぞれ天台宗、華厳宗に対応している。そして、第十階梯「秘密荘厳心」(一般の仏教のように塵を払うのみではなく、宝庫そのものを開く段階)が真言宗に対応する。
 真言が天台や華厳を超えているのは、どのような点においてなのか。それは、真言の立場が、「空」の立場を含みながら、世界の存立に関して積極的な関わりを見せている点にある。そこには、聖化された世界に関する知のシステムを構築する可能性が秘められている。
 マンダラの描く宇宙を縦横無尽に駆け巡る空海は、マンダラ宇宙のアストロノートと呼ぶことができるのはないだろうか。












日本仏教における空(一)日本仏教のパイオニア最澄、あるいは「諸法実相」の系譜学 ― 立川武蔵『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』を道案内として(その八)

2019-10-24 23:31:12 | 哲学

 立川書は、インド仏教における空を論じた後、その空についてのかなり詳細な理論的説明、後期インド仏教と空、チベット仏教における空、中国仏教における空と続く。拙ブログでの同書の紹介は、第5章「インド仏教における空(二)― 初期大乗仏教」)に言及したところで止まっていた。まだ日本への道のりは遠い。だが、先を急ぐ。そこで、第6章から第12章までを飛ばして、第13章「日本仏教における空(一)最澄と空海」へと一挙に飛ぶ。
 最澄は、空海の一般的な人気の高さに比して、今ひとつポピュラリティに欠けるところがある。しかし、日本仏教史において最澄が果たした役割は極めて大きい。天台宗の本山である比叡山延暦寺が日本仏教のその後の方向を決定していることには誰も異論はないであろう。「日本仏教のパイオニア」へのこの不当なまでの過小評価にあずかって力があるのは、司馬遼太郎の『空海の風景』なのだろうか。最澄の例に限らず、いわゆる「司馬史観」の呪縛から自由にならないと日本の歴史は見えてこないように思われる。
 最澄の思想をもっとも的確に語る言葉は、「諸法実相」であると立川武蔵は言う。「諸法はそのまま実相(真実)である」という最澄の思想は、その後の日本思想史の「キー・ノート」の一つであると言って差し支えない。その思想の響鳴は、昭和十一年十月に記された『善の研究』の改版本への序「版を新たにするに当つて」にも聴き取ることができる。

 フェヒネルは或朝ライプチヒのローゼンタールの腰掛けに休らひながら、日麗に花薫り鳥歌ひ蝶舞ふ春の牧場を眺め、色もなく音もなき自然科学的な夜の見方に反して、ありの儘が真である昼の見方に耽つたと自ら云つて居る。私は何の影響によつたかは知らないが、早くから実在は現実そのままのものでなければならない、所謂物質の世界といふ如きものは此から考へられたものに過ぎないといふ考を有つてゐた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


面々考(下)―「面々構」あるいは徂徠の危機意識

2019-10-23 23:59:59 | 哲学

 荻生徂徠の『政談』は、八代将軍吉宗かその側近からの求めに応じて書かれた政策提言の書で、亨保十一(1726)年前後の執筆と推定されている。当初は、門外不出の秘書であったが、十八世紀後半になると、写本が作られ、しだいに世間に流布するようになり、明治元年には京都で出版されている。
 本書には、当時の社会の実情についての的確な認識と優れた見識が示されているが、それらは徂徠の危機意識に貫かれている。
 大都市江戸のめざましい発展・拡大に伴い、人口の流動性が高まり、人々の土着性が希薄になってきていることを徂徠が憂いている一節を読んでみよう(本文は岩波の日本思想体系本に拠ったが、カタカナ書きをひらがなに改め、一部の漢字をひらがなに置き換え、送り仮名を追加してある)。

人々郷里といふもの定まる故、親類も近所にこれあり、幼少よりの友達も充満たれば、自然と親類友達の前を思ふて悪事はせぬものなり。一町一村の内にて名主を知らぬ人なし。一町一村の人相互に先祖より知り、幼少より知ることなれば、善悪共に明に知るることなる上に、五人組の法を以て吟味することなれば、何事も隠すといふことは曾て成らぬことなり。当時も人別帳もあり、名主もあり、五人組もあれども、店替を自由にし、他国へも自由に行き、他国より来たり其所に住むこと自由なれば、日本国中の人入乱れ、混雑し、何方も皆仮の住居といふものに成り、人々永久の心なく、隣に構はず、隣よりも此方に構はず、その人の本を知らねば知らぬといふにて何も済むなり。先をも知らねば、始終は名主を始め我が苦にせぬゆえ、人々面々構にて心儘になるなり。畢竟当分の有人を人別帳に付けたるまでにて、時々に抜指しおくこと故、人別帳も何の詮もこれなきことなり。(275‐276頁)

 人口流動の加速化とともに人々の間を繋ぐ紐帯が分断され、互いに無関心になり、各人が自由勝手にふるまうようなった状態を徂徠は「面々構」と言う。徂徠のいわゆる土着論は、このような当時の社会の現状への憂慮に発し、それに対する対策として提言されたものであった。
 徂徠の思想は、「統治者による徹底した制度設計と、柔らかな管理を前提にしている。しかし、一種の地盤として国の「制度」が確立し、身分秩序が安定したのちには、その枠の内で、人々はそれぞれに自分の才能を発揮し、個性を十分に生かしながら生きてゆくことができるのである」(苅部直『日本思想史の名著30』ちくま新書 2018年)。
 このような理想化された身分制度社会が現代社会のモデルにならないことは言うまでもないが、2011年3月11日以降、「絆」「繋がり」「結び」などの言葉が目立って頻用されるようになった現代日本社会の病弊の原因がどこにあるのかを『政談』は私たちに考えさせずにはおかない。












面々考(上)― 徹底化された絶対他力思想の必然的帰結としての「面々の御はからい」

2019-10-22 23:59:59 | 哲学

 『歎異抄』第二条は、「このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなり」と結ばれている。「念仏の教えをお信じになられようと、また念仏をお捨てになられようと、あなたがたお一人お一人のお心のままになされるがよろしいでしょう」(千葉乗隆訳注『新版 歎異抄』 角川ソフィア文庫)の意。
 この箇所について、吉本隆明は、『最後の親鸞』(ちくま学芸文庫 2002年)のなかで、親鸞はここで「念仏思想そのものを越境してしまっている。ここに絶対他力そのものをふたたび対象化し、さらに相対化したあげく、ついには解体の表現にまでいたっている最後の親鸞が開始されている」と言っている(39頁)。その少し先では、「〈知〉から〈絶対他力〉にまで横超するには、念仏を受け入れてこれを信じようと念仏を棄ててしまおうと「面々の御計なり」というところまで、ゆくよりほかない」(41頁)と、徹底化された絶対他力の思想の必然的な帰結としての「面々の御計」を強調する。
 この「〈信心〉そのものの解体」によって、人間の側からする信と非信との価値的差異が無化されてしまう。面々の計らいは、それが信に向かおうと非信に向かおうと、浄土への救済とは無縁なのだ。それは、しかし、信じようが信じまいが個々人の勝手であり、皆どの道浄土に行けるのだ、ということでもない。救済は、たとえほんの僅かでもそこに自力がはたらいている計らいとは、そもそも関わりがない、ということだろう。