内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

パリの炎熱の夏空の下、人の不思議な縁の連鎖に驚く

2018-06-30 23:59:59 | 雑感

 小林敏明先生をメイン講演者としてお迎えした本日のイナルコでの研究集会は、真夏のような暑さの中でしたが、いつにもまして盛会でした。先生ご自身のご講演の内容については、すでに出版された著作の内容と重なるところもあり、またご講演中に言及された新しいご研究方向は今後先生ご自身が出版されるご本の中で明らかにされていくことでしょうから、私ごときががここに下手な要約紹介をすることはいたしません。
 その後の私の発表は、大ご馳走の後、誰ももう食べたがらないあらずもがなの出来の悪いデザートのようなものに過ぎず、折しもワールドカップのフランス対アルゼンチン戦と重なり、ゴールのたびごとに青空に湧き上がる大歓声が開け放たれた窓から熱せられた外気とともに会場の教室にも響いてきて、そのつど発表は妨げられ、それに、枕の話以外は、既発表内容の縮約版に過ぎず、それは拙ブログの記事でも紹介したことと重なるので、言及するまでもありません。
 ただ、私としてありがたかったのは、発表後いただいたいくつかのご指摘・ご質問・ご感想がいずれも私が知らなかったことや曖昧にしかとらえていなかったことを教示してくださる貴重なものだったことです。この場を借りて、それらの方々に改めて御礼申し上げます。
 それよりも、今回の研究集会への参加で、何人かの方と何年ぶりかで再会でき、新しく面識を得ることができた方も幾人かいらっしゃり、それはいずれも嬉しくありがたいことでした。
 さらに、これは直接私のことではないのですが、今回ストラスブールからご一緒にパリに「上京」した先生と研究集会の参加者たちとの間で、おしゃべりしているうちに、ちょっと思いもかけないような接点が次から次へと明らかになって、それはその場に居合わせた私にとっても驚きの連続で、月並みな言い方ですが、人の縁の不思議を思わざるを得ませんでした。
 あるはっきりと限定されたテーマにそって開催された集会に、それに直接関心がある或いは関与しているという条件の下に参加すれば、そこに来る人たちは多かれ少なかれ共通点をもっているわけですから、そこでの出会いも比較的想定内に収まるような繋がりにとどまることが多いででしょう。
 ところが、今回は、およそそういうことが想定しにくいような条件下で明らかになった種々の繋がりでしたから、やはりこういうことがあると、何か「もっている」方というのはいらっしゃるものなのだなあとちょっと感動いたしました。
 最後におまけ(いらん、とか言わないでくださいね)。今日の集会後、私としてはそれこそまったく思いもよらないことだったのですが、この拙ブログを読んでくださっている方が参加者の中にお二方いらっしゃっることがわかったことです。根が単純ですから、そのまま申し上げますが、とても嬉しかった。
 読んでくださっている方々には感謝のほかありません。ただ、あまり読み手の方々を意識しすぎると、わざとらしいぎこちない内容になってしまいかねませんので、これまで通り、肩の力を抜いて、「面白い」あるいは「おかしい」記事を書くべく、日々適当にかつそれなりに時間の許す範囲内で精進してまいりますので、今後ともご愛顧のほどよろしくお願い申し上げます。












ポーランド長期滞在ヴィザ申請日即日発効顛末記

2018-06-29 23:57:49 | 雑感

 今朝九時半過ぎにパリ東駅に到着。そこから七区アンヴァリッド近くにあるポーランド領事館に向う。入り口の荷物検査でまず驚いた。係のおじさん、フランス語がまったく通じない。英語もダメそう。ポーランド語しかできないようだ。幸い建物から出てきた女性がフランス語もできるポーランド人女性で、その人がこちらの用件を通訳してくれて、やっと中に入れてもらえた。荷物検査も厳重で、小型スーツケースの中身もいちいち触って確認していた。ようやくそれも済んで、二階の受付窓口に上がってもよいと身振りで示す。それにしても、パリにあるポーランド領事館なのに、なんでフランス語がぜんぜんできない人を入り口に配置するのか首をかしげながら、二階に上がった。
 二階の窓口で手続き中の人たちとその後ろの待合スペースで待っている人たちを見て、なるほどと思った。私たち日本人二人を除いて、確かめたわけではないが、ほぼ間違いなく、全員ポーランド人なのである。確かにシェンゲン協定国間では、長期滞在でもヴィザ申請の必要はないから、フランス人はあまりここに来る用がないのだろう。ポーランド語はさっぱりわからないが、窓口でのやり取りはすべてポーランド語であろう。発音の感じからしてスラブ系の言語だということだけはわかったが。
 対応してくれた係官も決してフランス語が得意というわけではなく、つっかえつっかえ、ときどき言葉を探しながら説明してくれた。
 とても感心したのは、ヴィザ発効についての柔軟な対応だった。「通常は申請から発効まで二週間かかるのが普通だが、望むなら今すぐ発効してもよい。一時間くらい待ってもらうことになるが」と言うのである。ちょっとびっくりしたが、もちろん即日発効にしてもらう。発効手数料60€。
 小一時間ほど、待合スペースで椅子に腰掛けてお喋りていたら、また同じ窓口に呼び出されて、パスポートに貼り付けられたヴィザの確認を求められる。その表記に間違いのないことをこちら側が確認すると、それで手続き完了。
 このヴィザ取得は当の先生にとってもずっと気にかかっていたことだったので、それがこうして思いの外簡単に済んで、私もホッとした。
 昼食は、1686年開業というパリに現存する最古のカフェ・レストラン Le Procope でご馳走していただいた。













明後日のパリでの発表要旨、でも当日は原稿なしで話すしかない

2018-06-28 23:59:59 | 哲学

 明後日、パリで発表するんですが、くそ面白くもない大学の仕事にずっと追われ続けていて、まったく準備が進まなくて、結果、原稿はなし、というか、もう原稿を書く時間がないので、当日はほとんど即興で話すことになりそうです。話す内容は、身についているというか、普段から考えていることなので、なんとかなるだろう、という、ほとんど根拠のない楽観主義だけが頼りという心細い状況であります。とはいえ、その日私は主役ではなく、あってもなくてもいいような、もらっても嬉しくないようなちゃちな景品みたいなものなので、気楽っていうこともあります。
 それでも発表要旨は随分前に準備したんざますよ。もうこの期に及んでは、それを日本語に訳すのも面倒、というか時間がないので、仏語原文を掲載しておきます。

Sujet et individu
— Une lecture simondonienne de Nishida et Tanabe —

 Le concept de shutai 主体 en japonais ne peut plus toujours se retraduire par « sujet », alors même que ce terme japonais fut introduit initialement, vers la fin des années 1920 ou au début des années 1930, afin de traduire le concept marxiste de sujet en tant qu’agent d’activité humaine. Qu’est-ce qui rend difficile voire impossible cette retraduction du japonais en français ? Quelle est la différence qui est devenue irréductible entre shutai et sujet ? Un shutai est-il toujours individuel, ou peut-il être collectif ? Un shutai appartient-il nécessairement à une espèce biologique et/ou à un groupe ethnique ? Quel est alors le rapport du shutai à son milieu ? Faudra-t-il aussi parler de la pathologie spécifique du shutai ? Autant de questions se posent autour du concept de shutai.
 Cette communication se propose de réexaminer sous un angle nouveau le concept de shutai dans la dernière phase de la philosophie de Nishida et le concept de shu 種 (espèce) dans la dialectique absolue chez Tanabe à la lumière des notions de sujet et d’individu définies conjointement l’une avec l’autre dans la philosophie de l’individuation de Gilbert Simondon.
 À partir d’un commentaire d’une section portant sur la différence essentielle et existentielle qu’il faut établir entre sujet et individu dans le deuxième chapitre de la quatrième partie du livre majeur de Simondon, L’individuation à la lumière des notions de forme et d’information, nous allons tenter d’ouvrir une perspective dans laquelle pourraient se réconcilier les philosophies de Nishida et de Tanabe autour du concept de sujet individuel, afin d’aborder un problème délicat qui se pose aujourd’hui sur le rôle éthique à jouer pour un sujet dans le monde trans-/post-humaniste qui vient.












痛みと苦しみの存在論的差異について

2018-06-27 23:59:59 | 哲学

 痛みと言ってもいろいろあるから、今日は、身体上の局所的な痛みに話を限定する。いわゆる精神的苦痛は措く。
 例えば、怪我や病気が原因で身体のある特定の個所が痛む場合を考えてみる。この場合、痛みの原因を取り除けば、痛みは消える。仮に原因はすぐに取り除けなくても、鎮痛剤を処方すれば、痛みを感じなくすることはできる。しかし、そのような痛みへの対処法も今日の話題ではない。
 身体的痛みがある程度以上の強度になると、私たちはそれに苦しめられる。痛みを忘れることができず、仕事や勉強が手につかなくなってしまうこともある。それどころか、苦しむこと以外になにもできないほど痛みが増大することもある。そのようなとき、私たちの存在は、他から切り離され、その痛みそのものの大きさにまで縮小されてしまったかのように感じられる。
 痛みは身体上の物理化学的な原因によって発生し、苦しみは精神の問題だから、どんな痛みの中であっても精神を苦しませないように自分ですることはできるし、そうすべきだとストア哲学のように考えることは、苦しみそれ自体には価値がなく、排除されるべきだという考えを前提としている。
 苦しみは痛みを原因とするから、痛みに耐えつつ苦しみから解放されようなどと無理に意地を張ったりしないで、その原因そのものをさっさと取り除けばよいと考えるのが近代合理主義だろう。このような考え方も、苦しみは排除されるべきだと考えている点でストア的発想と変わりはない。
 しかし、一切の宗教的教義(特にキリスト教)を除外するとして、一般に、人間にとって、苦しむことそれ自体に意味はないのであろうか。苦しむことそのことによって開かれる存在論的次元があるのではないだろうか。












萃点の探求者として脱中心化された主体

2018-06-26 23:59:59 | 哲学

 鶴見和子『南方熊楠』(講談社学術文庫)は、南方独自の概念である「萃点」(すいてん)について次のように説明している。

気の遠くなるように種々雑多なことがらの間に、南方がはりめぐらしている網の目があり、それらの網の目を、遠くから近くへとひきたぐらせる一つの中心―南方のことばでいえば「萃点」―がある。その萃点が何かは、それぞれの対象によって具体的にはちがう。しかし、理論的にいえば、それぞれの地域には、それぞれの自然生態系と、それと関連した人間の生態があり、それらを、全体として把握しながら、異なる地域の民俗、風習を比較するという立場である。(22頁)

それはしかし、漫然とすべてがすべてに関係がある、ということではない。ある一つの場面をきりとると、そこにはかならず、その中のすべての事象が集中する「萃点」があり、その萃点に近いところから、しだいに、近因と遠因とをたどってゆくことができる。南方は、大乗仏教の世界観を、ものごとを原因結果の連鎖として示す、科学的宇宙観として、解釈し直したのである。(23頁)

 この萃点を探し求め、それとして捉えるのが、自ら探求者として行動しつつ自己を脱中心化する主体としての人間である。とすれば、自己を中心に置くかぎり、萃点は見えてこないし、捉えようもない。そして、この意味で、生態系の中で人間は盲目になってしまう。












歯痛が消えたのは翻訳作業のおかげ?

2018-06-25 23:47:07 | 雑感

 昨晩帰宅したのが午前零時過ぎ。そこから休まずに午前二時半まで仏訳作業。さすがに眠くなってきたので、就寝。午前五時半起床。またすぐ翻訳作業再開。とにかく今日の午後四時前には仕上げないといけない。途中、コーヒーを一杯飲んだだけで、午後三時半までほぼ休息なしで訳し続ける。午後に入って、時計を睨みながらの作業。これにはかなりの緊張を強いられる。焦るとつまらない打ち間違いを繰り返す。それでまたイライラしてしまう。でも、なんとか作業を無事終える。あとは現場で気づいたところを読み上げながら修正するしかない。
 いつもギリギリの締切りに追われて仕事をしている人たちは日常的にこういう条件下で働いているのかと思うと、それだけで尊敬してしまう。私はもう結構です。今回とてもいい勉強になりましたってことで、もう勘弁してくださいってところです。
 でも、思わぬ副産物といういうか、意外な効果というのか、ちょっと不思議なことがあった。実は、ここ一週間、かなり辛い歯痛に悩まされていた。局所的な痛みで、それが気になって仕事に集中できないくらいだった。歯医者に行かなければと思いながら、そんな時間もなく、それにどこでもいいというわけにはいかないしと躊躇しながら、薬局で痛み止めを買い込んで、それでごまかしていた。昨日までは薬で押さえつけていても痛みを感じていた。ところが、今日、ぶっ通しで翻訳作業をしていて、痛み止めを飲むのも忘れていたのだが、午後になって、当然もう昨晩飲んだ薬の効果は切れているはずなのに、痛みがないことに気づいた。
 まだ少し違和感があるし、年も年だからこのまま放置しておいていいとは思えないが、ひとまず痛みから解放されてホッとしている。今日の講演も無事済んだ。講演をされた当の先生からは翻訳作業のストレスが歯痛の原因だったんじゃないかと言われたが、それはないと思う。もしストレスが歯痛を引き起こすことがあるとすれば、そのストレスの原因は外にあるだろう。七月末までこちらでまだまだ山のように仕事があるし、その直後に東京で五日間の集中講義もあるから、まだまだ全然気が抜けない。それに九月からの新学期に備えて、過去に例のない準備作業もある。
 こっちが心配したところで変えられないことには心を使わず、自分次第で動かせるより大切なことにだけに心を用いたい。












歩行と発見

2018-06-24 23:59:59 | 雑感

 昨日土曜日のことでもう一つよかったことは、久しぶりによく歩いたことです。これは比喩ではなく、実際にです。
 どうしてかというと、朝いつものようにプールで泳いだ後の帰り道、自転車の後輪の異常に気づいたのです。家に帰り着いてよく見てみると、タイヤの一部がまるで瘤ができたように盛り上がっているではないですか。それが原因で、平滑な路面を走っているのに、まるで凸凹の路上を走っているかような震動があったというわけです。
 まず自分でタイヤの空気を抜いて、タイヤをフレームから外して、内側やチューブに異常がないか見てみました。異物は混入していないし、パンクでもない。よくわからないので、自転車屋に持っていくことにしました。
 自宅は緑豊かな郊外にあって、その環境はとても気に入っているのですが、何んであれお店に行かなければならないとなると、かなり不便なところにあります。信頼できる自転車屋さんの中で最も近い店まで片道徒歩25分かかるのです。
 行きはガタガタ震動を尻に受けながらも乗っていきました。自転車屋さんで「どうしてこんな瘤ができるんですか」って聞いたら、「まあ、こりゃあ、タイヤの品質の問題だね」と、バッサリ。タイヤ・チューブ全取っ替えしてもらうことにしました。
 それで自転車をあずけて徒歩で自宅まで戻ったというわけです。急ぐ必要もないし、普段自転車ですっ飛ばしているコースをゆっくり歩きました。そうしたら見えてくるものが普段と違うんですね。当り前といえば当り前ですが、路上・路傍・川向うの風景の細かいところまで目が行くわけです。
 自宅で一仕事してから、今度は自転車を取りにまた徒歩で同じ道を歩いていきました。そうしたら、途中で、自転車に乗った小学校二三年くらいの女の子二人が近づいてきて、「あのぉ、ちょっとお聞きしたいことがあるんですけど」と丁寧な言葉で話しかけてくるのです。話を聞くと、なんでも自分たちがたくさん集めたキャラクターのカードがもういらなくなったんだけど、捨てるのはいやなので、もし私の家に小さな子どもがいるのなら、これをあげたいのだけれど、と言って、見たところ数十枚をひとまとめにした二束のカードをポケットから出して私に見せるのです。「ああ、残念ながらうちに小さい子はいないなあ。でもこの近くのプールには今たくさんの子どもたちが来ているから、彼らにあげたらどうだろう」と言って別れました。
 こんな思いもよらないことも、自転車で走っていたら起こらなかったでしょう。普段、通勤や買い物の足として欠かせない自転車ですが、たまには歩いてみるのもいいものですね。同じ街を新たに発見し直したような気持ちになりました。













文献の森を逍遥して、脳に清浄な空気を送り込む、そして「それでいいのだぁ」

2018-06-23 21:55:54 | 雑感

 昨日は時間割作成に明け暮れた一日でしたが、今日は、一転して、能楽についての日本語の講演原稿を読んでおりました。これは能楽をご専門とされる先生が明後日月曜日になさるご講演の原稿で、その日の通訳を私が務めさせていただくので予め送っていただいたのです。
 先生のご文章そのものはとても明晰に書かれているので、訳者としてはありがたいかぎりなのですが、予想される聴衆の大半には能楽及び日本の古典文芸についての知識を期待することができないので、必要に応じてその場で臨機応変に加えるべき補注的説明を準備するために、能楽関係の仏語文献を机上に積み上げて、いわば通訳者用の控え帖のようなものを今日は作成しておりました。
 こういう作業は楽しいのであります。私自身がテーマそのものに強い関心をもっていますので、原稿を読むこと自体がいい勉強になります。それに付随して関連文献を渉猟することは、ちょうど初夏の晴天の下、森の中を散策することが健康にいいように、日々の雑用に疲れ気味の脳に清涼な空気を送り込みリフレッシュさせるような効果があります。
 それにですね、この作業の準備として仏語で書かれた能楽関係の書籍を幾冊か購入したのですが、そのプロセスがちょうど脳神経組織の形成はかくやと思わされるような展開で、その展開そのものに少しワクワクしてしまいました。そのせいで今月はちょっと書籍代がかさみました。でも、こういう出費に関しては、一言、「それでいいのだぁ」って感じです。













時間割作成って、けっこうハマるかも

2018-06-22 23:59:59 | 雑感

 今日一日何をしておりましたかと申し上げますと、我が日本学科の来年度前期の時間割作成に文字通り朝から晩まで没頭しておりました。昼食も取らず、十時間コンピューターの画面とにらめっこしながら、ああでもないこうでもないと、コマを動かしていました。
 「はぁ?」と思われた方もいらっしゃるかと拝察いたしますが、弊学科ではこれが学科長の最も重要な仕事の一つなのであります。
 あっ、断っておきますが、いかにいい加減なフランスの大学だって、どこもこうだというわけではありません。私の前任校では、各教員は、月から金までの間でどうしても勤務できない、もしくは、したくない日を一日だけ選ぶ権利があり、後は教務が時間割は組んでくれました。もっともその時間割がわかるのは、いつも授業開始数日前でしたけれど。
 どっちにしても、日本の大学では、こういう仕事は教務課の範疇であって、教員がやることではないですよね。全生徒数が数十人程度の小さな学校なら、教員がこういう仕事も引き受けるのはわかりますけれども、我が大学は、四万数千人の学生を擁するフランスでも規模だけで言えば有数の大学なんでございますのよ。
 それがこのざまですからね。教育・研究環境の水準は推して知るべしってことですね。ノーベル賞受賞者が歴代で十九人、そのうち現役が三人とか自慢気にサイトに載せてるけどさ、今の現場の惨状はどうなのよ。なんとかしてほしいよ、ほんと。
 とか愚痴りながら、市販の下手なゲームよりよっぽど複雑でスリリングな時間割作成を結構楽しんでいた曖昧な日本の今日の私なのでありました。












俯けるからこそ、天に向かって顔を高くあげ、蒼空や星空を眺めることもできる

2018-06-21 23:59:59 | 哲学

 フランス語の « prérogative » という語は、今日、「職務、地位、階級に付与された特権、特典」という意味で用いられるのが一般的ある。Le Grand Robert には、第二の意味として、「特定の種に属する生物が独占的に享受している特権、才、能力」とある。その用例として、モンテーニュの『エセー』第二巻第十二章「レーモン・スボンの弁護」の中の次の一節が挙げられている。

Et cette prérogative que les poètes font valoir de notre stature droite, recherchant son origine dans le ciel, […] elle est vraiment poétique.car il y a plusieurs bestioles qui ont la vue renversée tout à fait vers le ciel, et l’encolure des chameaux et des autruches, je la trouve encore plus relevée et droite que la nôtre.

詩人たちは、人間が直立して、自分の起源である天空を仰いでいることを、特権的なことだとして賛美した。[…]しかしながら、この特権なるもの、まったくの詩的な空想にすぎない。逆に目がくるっとひっくり返って、大空をしっかりと見ている小動物がたくさんいるではないか。それにラクダとかダチョウの首なんかは、われわれよりもよっぽど高く、まっすぐに立っているではないか。(宮下志朗訳)

 Le Grand Robert の用例引用で省略されているのは、オウィディウス『変身物語』(I, 84-86)からの次の引用である。

Pronáque cum spectent animalia cætera terram,
Os homini sublime dedit, cœlúmque videre
Jussit, et erectos ad sydera tollere vultus

神々は、他の動物たちが顔を下に向けて地面を見ているのに、人間については、天に向かって顔を高く上げて星々を眺めることを命じた。(宮下志朗訳)

 これに対して、モンテーニュは、「詩的(空想)」だと異を唱えているわけだが、私はどちらかというと帝政ローマ最初期の詩人の肩を持ちたい。
 もちろん、人間は、いつも天に向かって顔を高く上げてはいられるわけではない。天に目を据えながら、物想いに沈むことは難しい、意気消沈すれば、うつむいてしまう。恥ずかしくて、下を向いてしまうこともある。
 しかし、そうであるからこそ、顔を上げ、目を天に向け、星々を眺めることができることが人間の「特権」なのではないだろうか。