内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第一章(六)

2014-03-09 00:23:00 | 哲学

2.1.2 自覚の基本構造の第三項 ―「自己に於て」
 しかし、西田は上述のような内的経験の地平に留まる「意識の立場」を越えて現実世界の構造あるいは事柄そのものを捉えようとして、自覚の構造の探究をノエシス的自己の方向にさらに徹底化させていく。その探究は、ノエシス的自己はノエマ的自己をどこで見るのか、あるいは、どこでノエマ的自己はそれとしてノエシス的自己に現れるのか、という問いによって方向づけられていると言うことができる。この問いに対する端的な答えは、自覚の基本構造の定式「自己が自己に於て自己を見る」の中に実はすでに含まれている。つまり「自己に於て」である。この定式の中ですでに、自己の自己に対する現前がそこにおいて現実化される自己がまさにそれとしてノエシス的自己と区別されているのである。この言わば「第三の自己」において、自己は自己自身を見、自己は自己に現れる。より厳密に言えば、この第三の自己においてこそ、ノエマ的自己がそれとして現れるところにノエシス的自己は無として自己自身に現れている。この第三の自己は、ノエシス的自己でもノエマ的自己でもないという意味において、まさにその自己否定によって、ノエマ的自己のノエシス的自己への現前を可能にしている。つまり自覚の基本構造である「自己が自己に於て自己を見る」ことは、この第三の自己の自己否定によってもたらされる現実性にほかならない。自己の自己への現前である自己意識の根柢において恒常的に自己否定として作用しているこの第三の自己は、したがってどのような実体的自己同一性にも還元できないものである。ここにおいて、自己意識は、その現実的成立を自己の作用にはいかなる仕方でも還元しえない他なるものの恒常的な自己における作用に負っていることが、一言でいえば、自己意識はこの他なるものと不可分・不可同であることが明らかとなる。