内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

日本人の死生観についての学生たちの発表を聴く(下)

2023-12-23 14:55:38 | 講義の余白から

 今週水曜日の「日本の文明と文化」の最後の授業では、二組のトリオと四組のデュオの発表を聴いた。タイトルはそれぞれ、「日本のポップと死生観」「『君の膵臓をたべたい』と死生観」「映画『おくりびと』の死生観」「喪の作業」「死生の儀式」「心中」であった。
 「日本のポップと死生観」のトリオは、神聖かまってちゃんの「Ruru’s Suicide Show」、米津玄師の「Lemon」、Aqua Timez の「ALONES」というそれぞれ別々の歌を取り上げ、歌詞から死生観を読み取るという発表。アイデアは良かったが、もう少し歌詞そのものに即した分析をしてほしかった。
 「『君の膵臓をたべたい』と死生観」のデュオは、劇場アニメ版のなかのセリフから桜良の死生観を取り出し、春樹が桜良との交際とその死を経験して死生観が変化していくことに焦点を合わせた発表。言いたいことはわかるのだけれど、日本語発表能力がそれに伴っていない。
 「映画『おくりびと』の死生観」は、成績が最優秀の二人の女子学生による発表で、内容も優れており、日本語もしっかりしているのだが、この二人に共通する欠点は、発表でも小論文でも、論点を絞りきれず、冗長に流れやすいこと。
 「喪の作業」のデュオの発表は、日本人の死生観という課題テーマから離れてしまっているという大きな欠点があるものの、発表テーマについてよく調べた発表であった点は評価できる。キューブラー・ロスの On Death and Dying(邦訳『死の瞬間―死にゆく人々との対話』)、ジョン・ボウルビィの Attachment and Loss(邦訳『母子関係の理論』全三巻)の要点を紹介した後、「予期悲嘆」にも言及していた。
 「死生の儀式」のトリオは、日本の死生の儀式についてよく調べてきた点は評価するけれども、自分たち自身の考察に乏しく、内容的には高く評価できない。
 「心中」のデュオも、調べたことを並べただけ。二人の日本語能力からして仕方のない面もあるのだが、テーマを自分たちで選んだという以外は、いわゆる「主体性」のまったくない発表。
 全体として、先週の第一回目の発表のほうが概して出来がよかった。
 まあ、それはさておき、学生諸君、これで前期の課題はすべて終わりだね。お疲れ様でした。よい年をお迎えください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


修士演習前期最終回(下)―「動物にも人格性を認めることができるか」

2023-12-21 08:11:18 | 講義の余白から

 昨日の演習の後半、「動物にも人格性を認めることができるか」という第二の問いに各学生に答えてもらった。
 欠席者のメールでの回答も含めて、十六の回答のうち、十五が「できる」だった。彼女ら彼らが挙げる根拠を一言でまとめると、「動物にもそれぞれ個性がある」ということである。つまり、かれらは個性と人格性とを同一視している。
 「個人に固有な諸特性とその行動様態からなる全体を統一的に言い表わしたもの。性格と素質からなる」という心理学における「人格性」の定義にしたがえば、同一種のその他の諸個体と行動様式の全体において区別されうる動物個体にも人格性を拡張的に適用することができるとする立場もありうるであろう。学生たちはそれと知らずにこの立場に立っている。
 「個性と人格性とは違う。人格性は人間にのみ認めうる」と主張したただ一人の学生も、上記の心理学的定義とは異なった定義を示すことができていたわけではなかった。
 あっ、ここで念のために一言断っておきますと、これはストラスブール大学言語学部日本学科修士一年の「思想史」の演習での日本語での発表ですから、学生たちの発表が言葉足らずなのは大目に見ております。それどころか、他大学の日本学科では決してあり得ない課題に対して文句一つ言わず(少なくとも私の前では)、調べ考え準備してくる彼らの健気な努力を私はとても高く評価しています。
 人格性の話に戻る。倫理学において行われている次のような定義 ―「個性のより高次の形態。生まれつきはこれに達することのできる素質しかないが、社会の中のさまざまな精神的交流により発展し実現されるとする、人間の人間である本質。事物や物件に対し、自立し、自由をもち、自己目的となる理性的存在」― によれば、動物に人格性を認めることはできない。
 以下は私が学生たちにできるだけ噛み砕いた日本語でした説明の主旨である。
 カント哲学における「さまざまな権利もしくは義務を有する存在の特質」という人格性の定義に従った場合にも、動物に人格性を認めることはできない。なぜなら、動物が自ら義務を引き受けるということありえないし、そもそも彼らには権利意識もない。この定義に従うかぎり、たとえ動物個体それぞれに固有の感情を認めるとしても、人格性は認められない。
 しかし、動物を人間が利用する手段としてではなく、それ自体として尊重されるべき存在として目的そのものであることを認めるならば、その限りにおいて、人格性を認めることはできる。
 このような考え方を現代哲学において積極的に展開しているのは、フランスにおける動物権利擁護の立場を代表する哲学者の一人 Corine Pelluchon である。彼女は次のような仕方で動物に personnalité を認めている。

L’animal […] a aussi une personnalité, une manière unique de traiter le monde, de se rapporter à nous, et une biographie. Les animaux nous humanisent au sens où, à leur contact, nous nous reconnectons avec nos émotions, communiquons sur le plan du sentir et éprouvons la vérité d’une rencontre empathique et d’une « communication avec le monde plus vieille que la pensée ». Ils nous renvoient également à l’histoire et à l’espace que nos prédécesseurs nous ont transmis et qu’ils ont construits avec les animaux et en partie grâce à eux.

Corine Pelluchon, Les Nourritures. Philosophie du corps politique, Éditions du Seuil, coll. « Points Essais », 2020, p. 141 (première édition, 2015).

 動物は、それぞれ世界と独自の関わりかたをしているのであり、私たち人間とも関わりがあり、それぞれ個体史をもっている。動物たちは私たち人間を人間たらしめてもいる。それは、彼らとの触れ合いにおいて、私たちは私たちのさまざまな情動に出遭い、感覚面においてのコミュニケーションが成り立ち、真実の共感的な出遭いと「世界との思考よりも古いコミュニケーション」という真実を経験するという意味においてである。動物たちは私たちの先人たちが私たちに伝えた歴史と空間とへと立ち戻らせもする。その歴史と空間は、先人たちが動物たちと共に築き上げたものであり、そのある部分は動物たちのおかげ築けたのである。
 ちなみに、上掲の引用文中の引用はメルロ=ポンティの『知覚の現象学』(Phénoménologie de la perception,  Gallimard, coll. « Bibliothèque des idées », 1945, p. 294)からである。ペリュションはレヴィナスのスペシャリストでもあり、ポール・リクールについての著作もあり、現象学を中心とした堅固な哲学的基礎に基づいて、生命倫理、動物倫理、環境倫理、医療倫理のなどの分野における諸問題を論じた著作をここ数年矢継ぎ早に出版しており、今私が最も注目しているフランスの哲学者の一人である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


修士演習前期最終回(上)―「文化や宗教によって異なる食習慣は、それぞれ尊重されるべきか」

2023-12-20 23:59:59 | 講義の余白から

 今日が修士一年の演習の前期最終回。後期は研究休暇のため演習は担当しないから、これが私にとって今年度最後の修士の授業であった。出席者は15名。先週に引き続き、事前に課題として与えておいた二つの問いに一人ずつ答えてもらった。
 今日の記事では第一問のみ話題にする。その問いは、「文化や宗教によって異なる食習慣は、それぞれ尊重されるべきか」。
出席者全員が「尊重されるべき」という答え。その根拠を一言でまとめれば、「互いに違いを認め合わなくてはならないから」ということになる。ただ、自分としてはとても受け入れがたい宗教的戒律はあるし、それがその国あるいは文化にとっていくら伝統的な食習慣であっても、やはり自分には受け入れられないものはある、というコメントを加えた学生もいた。
 ただ一人、病欠したが自分の意見をメールで送ってきた学生だけが、今日の動物権利や動物福祉の考えに反する食習慣を、文化・宗教を根拠に認めることはできないという主旨の反対意見を提示していた。この学生は日頃からラディカルな意見を敢然と主張するのだが、宗教が引き起こしてきた争いごとには特に批判的で、本人の言葉をそのまま引用すると、「宗教を除外するべきです。 なぜなら宗教は時代遅れで世界中で多くの災害を引き起こしてきたからです。私は、次に進む時が来ていると思います。」
 これには当然反論もあるだろうが、本人が欠席だったので、教室では私が意見を代読しただけだった。これは大きな問題で、軽々には答えられないが、問題は宗教そのものにあるのではなく、その名の下に正当化された非宗教的な動機にこそある、というのが私見である。
 学生たちの発表の中で私が特に評価したのは、「文化や宗教もその諸習慣も、時代の変化や他の文化や宗教との関係によって変わりうる」という意見だった。他の学生はそれぞれの文化や宗教を固定的に捉えていたのに対して、この意見を発表した学生だけがそれらの可変性が将来への展望を積極的に開く可能性をもっていることを主張していた。
 食料危機、気候変動、生態系破壊などが地球規模で深刻化しつつあるなかで、私たちがこれまで自明としてきた食習慣及びその他の諸習慣の見直しを当事者として迫られていることは確かで、それに応じて文化や宗教も動態的に捉え直すことも私たちに要請されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本人の死生観についての学生たちの発表を聴く(上)

2023-12-14 09:41:35 | 講義の余白から

 「日本の文明と文化」の授業の今学期最後の二回は学生発表に当てられている。日本人の死生観に関して学生たちが自分たちで選んだテーマについて日本語で発表する。昨日水曜日はその一回目だった。発表の条件として、単独発表は不可、二人ないし三人で発表することとした。発表時間は、デュオは十分、トリオは十五分を上限とした。昨日は、デュオが三組、トリオがやはり三組、計十五名が発表した。
 デュオの一組は、「仏教と神道の死と生の思想」というテーマで、テーマ自体は悪くないものの、中身はちょっと救いようがなく、発表後の私のごく簡単な質問にもまともに答えられなかった。
 その他はなかなかに聴かせる内容だった。テーマはそれぞれ「命の価値」「他界観」「桜に見る死生観」「日本文学における死生観」「東京裁判における死刑判決」であった。
 「命の価値」のデュオは、自分たち自身の死生観を語るという内容で、発表にはちょっと演劇性も含まれていて、聴いている学生たちの受けは悪くなかった。
 「他界観」のトリオは、発表の一ヶ月前から参考文献をよく調べ、日本人の他界観について多数の図版や写真を使って、内容の濃い発表だった。
 「桜に見る死生観」のトリオは、桜が古代から現代まで日本文化のさまざまな分野で生と死の象徴としていかに機能してきたかを、例を多数挙げてわかりやすく説明していた。発表後、発表した学生の一人から「散り際」という言葉のニュアンスについて私が逆に質問を受けた。いくつか用例を示しながら説明したが、この言葉に注目するところにも彼のセンスのよさが感じられた。
 「東京裁判」のデュオは、鶴見俊輔の A Cultural History of Postwar Japan 1945-1980 に依拠して、東京裁判で死刑判決を受けた当事者たちの死生観と東京裁判に対する日本国民の反応の中に見られる死生観とを上手にまとめてあった。
 昨日の発表で私が最も高く評価したのが「日本文学における死生観」のトリオである。日本文学といっても漫画もその中に含まれていたのだが、その『私たちの幸せな時間』(新潮社)という漫画についての発表が特に優れていた。発表した女子学生は、この漫画を三年ほど前に読んでおり、この漫画から今回の発表のために特に死生観を引き出したのだが、それがとても的確な日本語で見事に説明されていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「生物多様性 Biodiversity」という言葉の起源

2023-12-13 23:59:59 | 講義の余白から

 今日の修士一年の演習では、先週課題として与えておいた「生物多様性はなぜ守られなくてはならないのか」という問いに15名の出席者全員に一人一人日本語で答えてもらった。それぞれ表現のニュアンスには違いがあったにせよ、生物多様性が保全されなくてはならないという点では異論はなく、その根拠として、生物多様性の減少は生態系の破壊に繋がり、その生態系に人類も属し、依存している以上、生物多様性の保全は人類そのものにとっても必要だとする点でもほぼ一致していた。
 このような意見の収束が意味しているのは、学生たちがすでにこの問題についての一定の情報と教育を基に自分自身の考えを持っているということである。ある学生は、高校の科学の授業でこの問題についてクラスで話し合ったことがあると言っていた。学生たちは、生態系の破壊、気候変動、環境倫理等について、大学での専攻いかんにかかわらず、考えざるを得ない世界に生きている。
 「生物多様性(フランス語では biodiversité)」という言葉は、彼女ら彼らにしてみれば、大学入学以前から聞き慣れていた言葉である。ところが、この言葉の登場は1980年代半ばのことにすぎない。
 次の段落の叙述は、Dictionnaire de la pensée écologique (PUF, 2015) の Biodiversité の項の記述に依拠している。
 生物多様性(Biodiversity)という言葉は、1970年代から80年代にかけて徐々に形成されていった「保全の生物学」を推進していたアメリカの生物学者たちが1986年にワシントンで開催した生物多様性についてのフォーラムで Walter Rosen によってはじめて使われた。この言葉とともに表明されたのは、生物学ばかりでなく諸科学が自然に対する態度を変えなくてはならないという危機意識である。絶滅危惧種の増大を前にして、科学者たちが自然に対する態度を改め、その研究活動と啓蒙活動を通じて、一般の意識も変えていかなくてはならないという倫理観に保全の生物学は基礎づけられている。
 この言葉が今日広く流通するようになった背景にはこのような初発の倫理的方向性が前提としてあり、学生たちが生物多様性の保全をいわば無条件に支持しているのは、彼女ら彼らの思考がすでに一定の思潮によって条件づけられていることを意味している。
 このことを自覚した上で今一度生物多様性について考えてみてほしかったので、上掲の辞書の当該箇所を示しながら、生物多様性という考えの起源について説明したところ、この言葉の登場からまだ四十年も経っていないことに学生たちは驚きを隠せなかった。このことは、生物多様性がいかに急速に深刻な危機に曝されつつあるのかということも意味している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「後の世を渡す橋」―『おくりびと』と『納棺夫日記』との間に画すべき一線

2023-12-07 12:55:46 | 講義の余白から

 昨日の授業では、映画『おくりびと』と青木新門の『納棺夫日記』(文春文庫、増補改訂版、1996年)を取り上げ、両者の間にある重要な差異を話題にした。
 『納棺夫日記』を『おくりびと』の原作と紹介することは、作者の青木新門自身の意志からしてできない。なぜ青木は原作者としてクレジットされることを拒否したのか。その理由は青木自身が『新潮45 eBooklet 教養編9』(2010年、初出『新潮45』二〇〇九年四月号)のなかで詳しく説明している。

ついに、『おくりびと』の制作が決まった時、脚本が送られてきました。これを読んで、私は原作者から私の名前を外すよう頼みました。映画『おくりびと』と私の著書『納棺夫日記』との間に一線を画すべきだと考えたからです。

 その妥協できない一線を説明するために、恵心僧都源信の母が源信に送ったとされる和歌「後の世を渡す橋とぞ思ひしに 世渡る僧となるぞ悲しき」を青木は引く。この和歌は、『恵心僧都物語』の次のような説話のなかに出てくる。源信は弱冠十五歳の頃、当時の村上天皇の前で仏法を説く講師に選ばれ、下賜された褒美の品を、一人故郷で暮らす母親に送ったところ、母は、上掲の和歌に「まことの求道者となり給へ」と一言添え、下賜された褒美を源信に送り返し、諌めたという。

 私は「後の世を渡す橋」の一助になればと『納棺夫日記』を著しました。しかし、映画『おくりびと』では、主人公が「世渡る」納棺夫として描かれていたからです。つまり、職業としての「納棺夫」の側面しか伝えきれていないと感じたのです。映画では、宗教や永遠について考えた第3章にあたる部分がまったく触れられていませんでした。
 死者をどこへ送るのか。その行き先がわからなければ、安心は得られません。この世を安心して生きるには、後の世も安心であることが絶対条件なのです。
 『納棺夫日記』と『おくりびと』は着地点が違っていました。だから、映画から原作者の名前を外してもらったのです。

 だからといって、青木は映画『おくりびと』を否定しているわけでも、批判しているわけでもない。むしろ次のように高く評価している。

『おくりびと』は、滝田洋二郎監督が名伯楽となり、役者たちの力を引きだし、風景も美しく、ヒューマニズムに満ちた良い映画だと思います。

『おくりびと』が世界から認められ、そこに描かれた日本の「死」が癒しとして受け入れられたのは、この映画が、現代人が忘却していた人と人との絆、家族の絆、死者と生者のつながりという当たり前のことの重要さを気づかせてくれたからではないでしょうか。

 そして、この文章を次のように結んでいる。

死者との応接はどうすべきなのか? この問いは、世界のどこに生きていても課題となる普遍性のある問いなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


アニミズムと一神教についての問いかけ ― 上田正昭『死をみつめて生きる』より

2023-12-06 23:59:59 | 講義の余白から

 「日本の文明と文化」という日本語のみで行う授業で、今学期後半、日本のテレビドラマや日本語の書物を通じて、「日本人の死生観」というテーマについて話してきた。話の合間にいくつかの質問を学生たちに投げかけ、それに対する答えを日本語(日本語では難しすぎるときはフランス語)で書いてもらいながら授業を進め、授業の終わりにその回答を回収した。試験ではないし、成績にも加味しないし、君たちがどんなことを考えているか知りたいだけだから、簡単に答えられる範囲で気軽に書いてくれればいいと予め伝えておいた。
 授業中に読んだテキストの理解度を測る質問はおのずと答えが決まっており、正しい答えかそうではないかがはっきりしているが、それだけに興味深い回答というのは少ない。的確に答えられているかいないかだけの違いしかない。
 それに対して、学生たち自身の考えを書いてもらう質問は、回答がそれぞれ異なり、それだけ興味深い。
 上田正昭の『死をみつめて生きる』の以下の箇所を授業で読んだ。

 万有生命信仰は人類学者や宗教学者らによってアニミズムとよばれてきた。アニミズム説を提起したのはイギリスの人類学者タイラーで、一八七一年の『原始文化』のなかで、宗教の起原を論じ、(1)生きているものには霊魂があると信じ、(2)肉体を遊離して飛びまわる精霊(遊離魂)の存在を信じた宗教のもっとも原始的なものは霊的存在(spiritual being)に対する信仰であると力説した。そしてそれは未開人の世界観・人生観ともいうべき一種の人生哲学であり、諸物・諸現象の説明原理になると指摘した。その後ピアジェ(J. Piaget)などの研究もあるが、ひろく支持されてきたといってよい。
 だがアニミズム的信仰が原始・未開であり、唯一絶対の一神教が、宗教や信仰のもっとも発達したありようということができるであろうか。

 上田正昭によるこの最後の一文の問いかけに対して、「あなたはこの問いにどう答えますか」と学生たちに質問した。
多くの回答が、一神教を頂点とする階層化された宗教観に異を唱えていた。その根拠はほぼ同様で、それを簡単にまとめると以下のようになる。
 一神教が支配的になったのは、宗教そのものの内在的価値に拠るのではなく、歴史的理由に拠ることであり、それは自然に対する一定の態度(種差別主義など)を内包しており、その態度はその宗教に拠って正当化されるものではない。それに対して、歴史的に一神教よりも古い信仰形態としての「原始的な」アニミズムと人間の自然に対する一般的態度としてのアニミズムとは区別されるべきで、後者は原始・未開ではなく、人間の自然・宇宙に対するより根源的な関係に関わる問題である。
 回答に認められるこのような一定の傾向性は、学生たちの現代世界に対するある共通の見方を反映している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日仏合同遠隔授業第三回目 ― 現実の問題と向き合う哲学的思考のための演習

2023-11-21 09:05:56 | 講義の余白から

 今朝、こちらの時間で午前5時10分から6時50分まで(日本時間では午後1時10分から2時50分まで)、日仏合同遠隔授業の第3回目がZOOMを使って行われた。私たち教員2人を含めて39名出席。欠席者はストラスブール側の1名のみ。
 今回は、4つの日仏合同チームそれぞれのサブチーム3つの代表に中間報告をしてもらった。だから合計12の報告があった。このようにサブチームを作らせたのは今回がはじめてだった。その理由は、3、4人の小さなチームでのほうが連絡を密に取り合うことができ、話がまとめやすいということである。これは狙い通りであった。各サブチームですでに話し合いを重ね、問題意識がよく共有されており、今後の計画もみなしっかり立てている。全体として期待以上の進展が見られた。
 各サブチームの代表が発表するように先週指示したとき、代表は日本側でもフランス側でもよしとしたのだが、発表者はおそらく全員日本人だろうと予想していた。そのほうがまとめるのも簡単だからである。ところが、あるチームは、3つのサブチームの発表者が全員フランス人だった。しかも、この短期間にパワーポイントも準備してあり、要点が明瞭簡潔に示されていた。これは発表の準備に日本人学生たちがよく協力したからこそであり、それだけチーム全体としてよく機能していることを意味している。これには特に感心した。
 生命倫理、動物倫理、肉食主義という、彼女ら彼らが今までよく考える機会がなかった問題について、参考文献を自分たちで探しながら、それらから得られた知見に基づいて話し合い、その過程で問題がより明確化し、日仏のさまざまな相違点も浮かび上がり、これら三つのテーマの相互連関性も自ずとよりよく見えるようになってきている。
 一方で、哲学・倫理学の基礎概念に立ち戻って問題の大枠をより堅固なものとしつつ、他方では、現実世界の具体的な諸問題・諸事例についての情報を収集することで抽象的な一般論に陥らないように注意する。それらの作業を通じて限定された問題を考えることが、実は哲学的思考の演習になっていることに学生たち自身が気づき始めている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


死生観の歴史的考察から出発し、テキスト分析を経て、自分に向き合う実存的な問いへ

2023-11-15 23:59:59 | 講義の余白から

 今日の授業形式はかなりうまくいった。まず授業の主題について主旨説明をしてから、テーマごとに六つの質問を提示し、その答えを探しながら私の説明を聴くように学生たちに指示した上で、一つのテーマについて十五分くらい説明する。それから学生たちに十分ほどで質問に対する答えを書かせる。日本語でもフランス語でもよしとした。要は内容をよく理解することにあるからだ。このパターンを三回繰り返したところで授業終了時刻となった。一つ残されたテーマについては、昨日の記事にリンクを貼ったサイト「toibito トイ人」に自分たちでアクセスして、島薗進氏へのインタビューを最後まで読んだ上で、質問への回答を書いてくることを宿題とした。
 当のインタビューでの島薗氏のインタビュアーへの回答は、それぞれが本来は大きな諸問題について、かなりざっくりとした、あるいは極度に単純化された説明になっていて、それらを学生たちに鵜呑みにされては困るので、その点については説明の過程で再三注意を促した。彼らがどう受けとめたかは来週にならないとわからないが、授業中の印象は悪くなかった。予想以上に集中して私の説明を聴いてくれた。知識を提供することではなく、自分たち自身で問題を考えるきっかけを学生たちに与えることが今日の授業の目的だったが、それはかなりよく達成されたように思う。
 日本人の死生観というテーマを扱うにあたり、さしあたり三つの論脈を分けて考える必要がある。
 一つは、死生観を生と死に関する基本的な考え方と単純に規定した上で、その内容の時代的な遷移を追う歴史的考察の論脈である。この論脈では、死生観という言葉が使われているかいないかに関わりなく、生と死に関する基本的な考え方が表現されているすべてのテキストだけでなく、その考え方を表現している、あるいはそれに基づいている民俗・慣習・儀礼等も考察対象となる。
 一つは、死生観という言葉そのものが使用されている文脈そのものにおいて、その言葉が何を意味しているかを考察するテキスト分析である。と同時に、そのテキストがどのような時代状況の中で書かれ、それとどのような関係にあるかも考察対象となる。島薗氏が指摘しているように、「死生観」という言葉が一般に使用されるようになるのは加藤咄堂の『死生観』(井冽堂)が刊行された明治三七年(一九〇四)以降のことである。つまり、二十世紀に入ってからのことである。それ以降、「死生観」という言葉はどのような意味を担わされてきたのか、「死生観」という語をタイトルに含んだ書籍や死生観という語を多用する書籍が今日に至るまでかくも盛んに日本で出版され続けているのはなぜかという問いもこの論脈には含まれている。
 そして、もう一つは、自分自身の死生観を自ら問うという論脈である。上掲二つの論脈の考察を経た上で、自らに自らの死生観を問うという、いわば実存的考察がここでは求められる。この三つ目の論脈は授業で取り上げる時間は残念ながらないが、授業を通じて学生たちが自らに自らの死生観を問うところまで導くことができれば、この授業の目的は達成されたことになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本人の死生観を授業で正面から取り上げる ― 島薗進『死生観を問う』を教材として

2023-11-14 18:09:42 | 講義の余白から

 日本人の死生観は、私がかねてから授業で本格的に取り上げたいと思っているテーマの一つである。
 過去二年間にも、三年生の「日本の文明と文化」という授業で取り上げてはきた。ただ、この授業は日本語で行うということもあり、それほど立ち入った話はできず、しかも私が話してばかりだと、学生たちの集中力もすぐに切れてしまうので、日本のテレビドラマや映画を教材として利用し、それはそれで興味を持ってくれた学生たちもいたのだが、日本人の死生観というテーマに真正面から向き合っているとは言い難かった。今年度末で終了する五年間のカリキュラムの枠の中では、他の担当授業でこのテーマを扱うこともできなかった。来年度からの五年間のカリキュラムには「日本思想史」という授業が新たに導入されるので、そこでは何回かこのテーマを扱うことができることを今から楽しみにしている。
 それはそれとして、いろいろ思案した挙げ句、今年度後期は研究休暇で授業を持たないこともあり、この前期の「日本の文明と文化」に残されているあと三回の授業(その後の二回は学生の口頭発表に当てるので、もう授業はできない)で、「日本人の死生観」というテーマを正面から取り上げることを今日決めた。日本語だろうがフランス語だろうが、私がもっとも話したいと思っているテーマを取り上げるのがこの授業の主旨に相応しいと今更ながら考え至ったからである。
 といっても、ただ一方的に話すのでは、学生たちの関心を高めることもできない。それに、そもそも若い彼女・彼らたちが自ずと死生観に関心を持ってくれるとは考えにくい。いや、死について考えることを嫌う学生たちもいる。
 だが、日本への関心が現代日本の社会や文化の表層的な傾向や事象に偏りがちな学生たちに対しては、もう少し腰を据えて、長い歴史的な視野の中で、日本の文明と文化の深層へと問題意識を深めてはくれないかと密かに願ってきた。だから、今回の決断は、私にとって一つのチャレンジなのである。
 しかし、なんの参考文献もなしに話すわけにもいかない。先週の授業では、五来重の『日本人の死生観』(講談社学術文庫、2021年。原本、角川書店、1994年)の一部を紹介した。名著ではあるが、さすがにこれは日本語のレベルが高すぎるし、その民俗学的な考察の解説は容易ではない。
 さて何かよい参考文献はないかと探していたところ、幸いなことに、先月、現代の宗教現象研究の第一人者である島薗進氏の『死生観を問う 万葉集から金子みすゞへ』(朝日選書)が刊行された。すでに死生観をめぐる著作を何冊か出版され、「toibito トイ人」というサイトには「日本人の死生観」というタイトルで氏へのインタビューが四回に分けて掲載されてもいる氏が、古代から現代まで文学作品のなかに日本人の死生観を探った本書は、まさに教材として相応しい。
 明日の授業では、まず上記のインタビュー記事から要点を取り出すことを導入とし、補助教材として、上田正昭『死をみつめて生きる 日本人の自然観と死生観』(角川選書、2012年)からの抜粋を読んだ上で、『死生観を問う』の読解へと入る。もっとも、読解といっても、本書のなかから選んだ数節に私が解説を加えていくという形になる。解説は全部日本語で行うから、話が一方的にならないように、学生たちには、話の区切りごとに、いくつか問題を出し、その解答を書いてもらいながら、授業を進めていくつもりである。