内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

鋭敏すぎるがゆえに深く傷ついてしまった一つの魂の震えにその声を通じて触れている

2024-07-31 21:50:30 | 雑感

 月曜日から始まって今日が三日目の集中講義は結局すべてオンラインで行うこととなり(受講者二名)、集中講義が行われる予定だったキャンパスに歩いていけるところにマンションを借りたことには何の意味もなくなったし、そもそも今日本にいる必要さえなくなった。それにこの連日の酷暑である。年末年始の一時帰国のときとは事情は異なるが、この夏の帰国もまた、最初からこうなることがわかっていれば避けることができたであろう多大の出費を強いられることとなった。
 それを今さら後悔しているわけではない。避けようがなかったのだから。むしろ、お金には代えられない貴重な経験を今しつつあるとさえ言える。27日の記事で話題にしたことだが、今回の集中講義はこれまでにない特別な配慮を必要とし、私にとっては手探り状態でもあるゆえにとても神経を使うのだが、それは、しかし、「腫れ物に触るように」という通俗な表現が想像させるのとはまったく異なる経験なのだ。
 詳細を具体的に書くことはできないが、今回の集中講義では、鋭敏すぎるがゆえに深く傷ついてしまった一つの魂の震えにその声を通じて触れている、とでも言えば、いくらかは今の実感を伝えることになるだろうか。
 こちらの問いかけに対するか細い声での言葉を選びながらの応答は、問題の核心を的確に捉えていることを示しているばかりでなく、その問題への私がまったく想定していなかったアプローチの可能性さえ示唆してくれている。と同時に、その応答のなかには本人のこれまでの心の苦しみがときに滲み出てきて、それにはどう言葉をかければよいのかとまどいもするのだが、それを包み隠さずに言葉にしてくれているのだからなんとか受け止めていきたいとも思っている。
 七日間総計二十二時間半のオンライン授業でできることはかぎられているが、その時間のなかで伝え合い共有できることは確かにあるし、それがこれから先に繋がっていってくれればと願っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


人間の動物に対する形而上学的優位という詭弁をどう解体するか ― フロランス・ビュルガ『動物、我が隣人』より

2024-07-30 17:11:07 | 哲学

 ビュルガの1997年の著作の次の箇所を読むと、彼女の伝統的動物観批判の要がわかる。

La reconnaissance de l’intelligence, de capacités d’apprentissage et d’adaptation, de relations sociales chez l’animal, ne porte aucunement atteinte au fait que l’être humain brille d’un éclat métaphysique, ce qui le rend ipso facto inégalable. Il suffit de faire de l’homme un autre en élaborant précisément cette altérité par opposition à l’animalité, qui en devient par définition le référent négatif, le contre-modèle. Nous voilà donc libérés de toute inquiétude éthique à l’égard de ce frère inférieur dont la dissemblance est d’autant plus forte qu’elle est ineffable et la ressemblance d’autant plus fallacieuse qu’elle se donne à voir. Ne retrouve-t-on pas intacte la leçon cartésienne ? C’est ce mécanisme argumentatif dont nous nous proposons de démêler les nœuds afin de déconstruire la thématique de la différence.

 知性、学習能力、適応力、社会性などを動物に認めることは、人間存在の輝かしい形而上学的優位性を少しも損なうものではない。人間存在の形而上学性という「事実それ自体」が人間を動物とは比較を絶した立場に置く。定義上否定的参照項・対立するモデルとして規定された動物性との対比において人間を「他なるもの」と規定することでそうした立場が確保される。そうなれば、動物という人間よりも劣った「兄弟」に対して倫理的配慮をする必要がなくなる。両者の相違は比較を絶したものであり、見かけ上の類似はその質的相違を見損なわせるだけである。
 ビュルガが本書で試みているのは、このような動物に対する人間の形而上学的優位論のメカニズムの核心を剔抉し、人間と動物との形而上学的差異という議論の構図を脱構築することである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


科学の進歩が人間と動物の境界をますます相対的なものにしているのに、人間の動物に対する絶対権が揺るがないのはなぜか ― フロランス・ビュルガ『動物、我が隣人』より

2024-07-29 17:36:23 | 哲学

 諸科学が生物学的 ・遺伝学的および行動学的にますます精密な仕方で人間と動物の親近性を明らかにしているのに、それらの科学的知見が動物の倫理的・存在論的立場にはいささかの変動も引き起こさないのはなぜか。ビュルガは1997年の著作でこう問う。
 しかし、この点については今日の観点から注を一つ加える必要がある。なぜなら、2015年のフランス民法改正において、動物は「感覚性を備えた存在」(un être vivant doué à la sensibilité)であることが認められ、その他の動産(自家用車や家具など)とは区別されなければならないと規定されたからである。この規定は、動物は苦痛を感じる一個の主体であることが法的に認められたこと意味する。こう留保した上で1997年の著作に戻ろう。
 人間と動物との心理・生理的な親近性が明らかになればなるほど、動物の実験的使用の適用範囲は拡大された。異種間の臓器移植はその顕著な例の一つである。この間変化があったのは、動物の利用の仕方、より効率よい活用のための方途であって、動物を人間のために活用するという原則そのものが問い直されることはなかった。人間と動物の親近性の科学的証明がいかに進歩しても、動物は人間に従属するものであるというヒエラルキーの原則が疑われることはなかった。
 人間と動物との区別の限界域が量化も局所化もできないものとして絶えずさらに遠くに押しやられても、動物界に対する人間の絶対権は保持されたままであるように思われる。
 かくして、人間と動物との伝統的区別の諸基準が科学によって根本的に問い直されているにもかかわらず、人間の動物に対する存在論的優位は堅持され、動物たちを利用可能な財産という立場から解放する可能性をどんな生命一元論にも期待することはできそうにない。結局、動物たちは、魂なき身体であり、「(自由に)利用・処分可能なもの(disponible)」のままである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


人間による動物の搾取を正当化する形而上学的区別 ― フロランス・ビュルガ『動物、我が隣人』より

2024-07-28 16:57:56 | 哲学

 一昨日の記事で引用した Florence Burgat の Animal, mon prochain が出版されたのは1997年、以来今日に至るまで四半世紀以上、彼女は動物の権利を擁護する論陣を精力的に張ってきている。その間、フランスにかぎっても動物倫理・動物権利に関する書籍は数多出版されてきた。彼女の単著に限っても、大小あわせて十冊を数える。
 Animal, mon prochain はフランスにおける動物倫理・動物権利をめぐる諸議論の主要な起点の一つと見なすことができる。そこから彼女自身の考察と議論が今日までどのように展開されてきたかを辿ることは、それらとの関連において他の論者の立場と主張を明確に位置づけることを可能にもする。
 序論に本書の目的と主題・論点が明確に示されている。それらの要点をまとめていく。
 目的は、人間と動物との区別について行われている各種の言説の構造を検討することにある。
 それらの検討を以下の五つの論点において実行する ―(1)自然権 (2)人間を理性的動物とする中心的定義 (3)動物に関する科学的知見が引き起こした認識論的な問題 (4)人間の動物性の抑圧と関連する人類学的な諸相 (5)憐憫・同情(pitié)の経験が提起する倫理的な問題。この五つの論点それぞれに本書の五つの章が順に割かれている。これらの分野を異にした五つの論点それぞれの検討を通じて、それらをめぐる言説が相互に理論的に密接に関係していることを示す。
 人間と動物との形而上学的区別は、動物をモノの地位へと貶め、人間が動物を所有物として扱うことは自然権に属するという帰結をもたらし、実定法において動物は人間にとって所有可能な財産となった。私有財産である以上、動物の取り扱いは無制限に所有者の権利に属することとなる。私有財産であるところの動物に対して人間はいかなる義務も負わない。その結果として、人間は私有財産としての動物を自分たちの好きなように利用・使用・消費してきた。これが近代西欧社会の実情であった。
 このような人間による自己中心的な決定と人間と動物との存在論的な位格の差異との混同は、その結果として、モノである動物は倫理的な考慮の対象とはならず、道徳的義務は人間の共同体にしか関わらないという帰結をもたらした。
 動物が人間によって道具・手段として使われ、食料として消費されるのは、自然の秩序に基づいている、とする言説は、人間を世界の中心とする信仰を議論の余地のない絶対的な真理として提示することを目的とした詭弁に過ぎない。しかし、この種の言説が自明なこととして流通するかぎり、動物の搾取を根本的に見直す方途はない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ケアを実践する場としての集中講義

2024-07-27 11:24:23 | 雑感

 昨日午後、二件、人と会う約束があった。
 一つ目は、東大の本郷キャンパスで、S教授とその指導下で博士論文準備中の台湾からの留学生と会う約束であった。教授の方から私に相談したいことがあると七月半ばに連絡があり、ちょうど一時帰国中だから直接お目にかかって話しましょうということになった。
 東大で推進中の博士課程学生支援プログラム SPRING GX の枠内でストラスブール大学に短期研究滞在をしたいという留学生とS教授からの話を一時間あまり聴いた。欧州における日本学の成立と変遷について現地調査を行いたいというのが滞在志望理由である。受け入れに問題はないので、喜んで引き受ける旨お伝えした。
 もう一つの約束はオンラインでの話し合いであった。こちらはかなりデリケートなケースで、慎重に対応する必要があった。個人情報に関わる部分はいっさい省いて概略のみ記す。
 来週から始まる集中講義にオンラインで参加したいという依頼メールが履修登録学生の一人から届いたのは一昨日のことであった。想定外で驚いたが、即座に対応した。
 まず、当該の学生に、集中講義開始前に一度オンラインで面談し、さらに依頼内容について詳しく知りたい、その上でどのような形態がベストか話し合いたい、とメールを送った。当人からはすぐに受諾の返事があり、その返事のなかに、オンライン面談に学生サポート室の担当者の同席を希望するとあったので、もちろん了承した。
 と同時に、当該学生を学部一年生からサポートしてきたピアサポートルームの担当者にも連絡し、これまでの経過を詳しく知りたいから直接会って話したいとこちらから面談を申し込んだ。やはりすぐに返事があり、面談は木曜夕方に白山キャンパス内のピアサポートルームで行われた。
 その席には大学院教務課の担当者も一人同席した。一時間弱の面談だったが、担当者からの説明のおかげで当該学生の抱えている問題の輪郭がかなりはっきりしてきた。
 昨日の学生本人と学生サポート室の担当者とのオンライン三者面談は、当該学生が私からの質問に回答を求められることに負担を感じないように極力配慮しながら行われた。結果として、私が事前に得たいと思っていた情報は得られ、伝えたいと思っていた意向もほぼ理解してもらえたと思う。
 集中講義一コマを担当するだけの非常勤にすぎない私がこれだけ迅速かつ丁寧に対応したのには理由がある。本務校であるストラスブール大学でミッション・ハンディキャップの学科担当教員の責任を二年間負った。そのときの経験を通じて、ハンディキャップごとに適切に対処するためにはきめ細かで多様な対応が求められることがよくわかった。現実には、関連セクションの連携がまだ不十分で、特に当該学生に授業で接する現場の教員への負担が大きく、支援システムがよく機能しているとは言えなかった。
 今回のケースは、ハンディキャップをもっている学生たちに対して日本の大学ではどのような支援システムが構築され、現に運用されているのか、それがどれほどの成果を挙げているのかを、当事者の一人として現場で観察する機会を期せずして与えられたことになる。当該学生への適切なケアが最優先であることは言うまでもない。
 これは私にとって思いもよらぬめぐり合わせとも言える。なぜなら、九月からの日仏合同ゼミのテーマは「ケアの倫理」であり、もし来年度も集中講義を担当することになるならば、同じテーマを取り上げるつもりでいたからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


人格主義は非人道的(inhumain)である

2024-07-26 23:59:59 | 哲学

 昨日の記事の補足として、Florance Burgat の Animal, mon prochain, Odile Jacob, 1997 から二箇所引用する。

C’est le recours à une différence métaphysique qui sert à justifier l’utilisation à la fois réifiante et illimitée de l’animal. Pensé par opposition au référent normatif « homme » dont il serait l’envers, l’animal est défini selon une structure privative qui met invariablement en relief un manque essentiel : il est sans âme, sans raison, sans liberté, sans conscience, bref, appréhendé à travers une série de négations ou de soustractions. » (p. 15)
形而上学的な差異に訴えることで、動物をモノとして扱い、無制限に使用することが正当化される。規範的な参照項である「人間」と対立して考えられる動物は、常に本質的な欠落を強調する欠如的構造によって定義される。つまり、動物は、魂をもたず、理性をもたず、自由もなく、意識もなく、要するに、一連の否定と減法を通じて把握される。

 人間をもっとも完成された個体という規範として措定し、その規範性は精神・理性・知性・自由意志・未来への投企などの諸基準を満たすことだとしたとき、そこからの当然の帰結として、他の動物たちは、程度の差こそあれ、すべて欠如態として規定されることになる。
 しかし、人間を規範とするのは可能な選択肢の一つに過ぎず、他の基準に基づけば、今度は人間が欠如態になる。人間は空を飛べず、水中で生息できず、光合成もできず、超音波による位置測定やコミュニケーションもできない、などなど。

Que vaut l’identification entre « personne » et « être humain », s’il s’agit pour ce dernier de posséder un certain nombre de critères tels que l’intelligence, l’utilisation du langage articulé, l’autodétermination, la projection dans le temps, etc. ? Comment ne pas remarquer en effet que ces déterminations excluent certains humains de la sphère des personnes ? (p. 61)
もし「人間存在」とは、知性、分節化された言語の使用、自己決定、将来の予測などの一定数の基準を満たしていることであるとすれば、「人間存在」と「人格」との同一視はどんな帰結をもたらすか。明らかに、「人間存在」という範疇を限定するこれらの規定は、「人格」の領域からある人たちを排除することになる。

 この点については昨日の記事で触れた。ちょっと挑発的な仕方でその主旨を一言にまとめるならば、人格主義は非人道的(inhumain)である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「人格」はなぜそれとして尊重されなくてはならないのか ― 動物哲学・動物倫理からの問い

2024-07-25 14:05:10 | 哲学

 「人格」もまた定義がとても難しい概念である。法学、心理学、精神医学、哲学・倫理学など、分野によって定義は異なる。ただ、「すべての人間はその人固有の人格を有している」と無条件には言えないという共通点がある。なぜなら、人格概念は「完成された」あるいは「完成しうる」あるいは「完成の途上にある」人間にのみ適用されるからである。言い換えれば、人格概念は、そのような人間を前提とする限りにおいて実効性を有する。
 同じ罪を犯しても、成人と未成年とでは法的裁きが異なるのは、後者はまだ完成された人格を有してはいないと考えられているからである。重篤な心疾患患者が健常者と同様な裁きの対象にはならないのも、犯罪時において十全な人格を保有していないと考えられているからである。一時的な心神耗弱状態であってさえ、場合によっては無罪となる。これらは人格の(相対的・部分的な)欠如態の諸相の例である。
 欠如の程度が軽度になると判断が難しくなる。欠如ではなく、一時的な機能不全あるいは能力行使不能・麻痺状態と考えられる場合もある。あるいは、そもそもそれらは欠如でも不全でも麻痺でもなく、その人の「個性」だという主張もある。
 上掲の諸例のいずれにも該当しない人でも、なんらの欠如もない一個の十全な人格として常に行動しているかと問われれば、どうであろうか。必ずしもそうとは言えないと答える人もいるのではないだろうか。私も口籠ってしまう。気の迷い、付和雷同、同調圧力、短絡的な逆上、嫌悪や恐怖に起因する偏見・誤認などなど、法には触れないとしても、私の「人格」を疑わせる事例はいくらでも挙げることができる。
 一方、人格において、欠如態であろうが、一時的な機能不全であろうが、対人関係上に多少問題があろうが、基本的人権を有する「人間」としては最低限尊重されなくてはならないという「ヒューマニズム」の立場もある。
 このように法的人格についてちょっと考えただけでも、問題が複雑多岐にわたることがわかる。と同時に、まさにそうであるからこそ、人格は人間に独占的なものではなく、一定の動物たちにも一定の条件のもとに認めるべきだという議論も生まれてくる余地があることも理解できる。
 「人格」という日本語には「人」という漢字が使われているから、動物にも人格を認めよという議論は一見無茶なようにも見える。そもそも動物を人間と同様な権利を有する存在として扱うことはできないという立場もありうる。しかし、本来 personne / personnalité は「人間」という資格のことではない。それは、一個のそれ固有の個体史をもつものとして尊重されるべき「位格 persona」のことである。この定義にしたがえば、人間と動物の境界は曖昧となる。
 人間と動物における欠如を程度問題とする相対論やある能力において動物を人間に対して優位に置く比較論がここでの問題ではない。
 Personne とは誰か。Personnalité とは何か。なぜ personne は personne として尊重されなくてはならないのか。その根拠は何か。動物哲学・動物倫理・動物権利論は私たちをこれらの根本的な問題に立ち戻らせる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


個体性の定義にまつわるアポリアから抜け出す途はあるか

2024-07-24 17:49:07 | 哲学

 個体性の定義は難しい。生物学、心理学、哲学など分野によって異なってもいる。
 『岩波生物学辞典』(第5版)は「個体性」を次のように説明している。

個体であること.単細胞生物もそれぞれ個体であるが,個体性が特に重大な意味をもつのは多細胞生物の段階においてである.また,生物体が細胞・組織・器官のように階層構造をとり,かつ各部分間は密接な関係を保って統合され個体性を成立させていることをオルガニゼーション(organization,体制,有機構成)と呼ぶ.また単細胞あるいは多細胞の生物の群体において,個体性はしばしば問題になる.例えば,コケムシの群体は「個体性が明瞭」である(独 individualisiert)が,珪角海綿類の群体は「個体性が不明瞭」であるなどと表現される.

 つまり、生物体の個体性はつねに自明とはかぎらない。植物に個体性を認めうるかどうかも自明ではない。草原の真ん中に一本立っている木を個体として視認することは一見自明なことに思われるが、その木がある別の木から株分けされた場合、その二本の木は遺伝的に同質である。同辞典の「栄養系分離」の項に以下のような説明がある。

植物の1個体から栄養生殖によって生じた個体を分離すること.こうして分離された各個体は原則的に遺伝的同質である.実際には株分けや挿木・接木・取木などの栄養繁殖による操作である.

 生物の個体性を individualité の原義に基づいて定義するならば、「これ以上分割できない最小の生物体」ということになる。ところが、この定義に従うと、上記の例のような株分けの場合、その結果得られたそれぞれの木を個体とみなすことはできない。
 形態的にその周囲とは明瞭に区別され、内含された無機物とも判明に区別され、一つの有機体として自律的なシステムを形成し、外部とのエネルギー交換を行う生命体が個体だと定義するとき、植物と動物の境界は曖昧になる。あるいは程度の違いに過ぎなくなる。
 したがって、植物と動物との境界を截然と確定するためには、その他の基準を導入する必要がある。神経中枢、可動性、感覚、意識、自己保存本能、環境の変化への動的適応力、自己と非自己との識別、外界への反応における選択可能性、主観性・主体性などの有無が考えられる。ところが、これらの基準のどれを取っても、あるいはそれらのうちのいくつかを組み合わせても、植物と動物の境界の確定は決定的とはならない。
 そもそも植物と動物という二分法に問題があるのかも知れない。かといって、両者の間の差異を生命体としての組織の複雑さの程度の差に還元することは、個体性の質的・次元的な差異の把握を不可能にする。
 これらのアポリアから抜け出す途の一つだと思われるのが、すべての存在の生成をいくつかの階梯を異にした個体化過程として捉えるジルベール・シモンドンの個体化の哲学である。そこにさらに非連続の連続と連続の非連続という相補的な存在様態把握を導入することで、さまざまなレベルの個体性を個体化のある段階における準安定性として捉えつつ、それらのレベルをダイナミックに総合化するパースペクティブが開かれてくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


内なる他性の声なき声を聴き取る仕事

2024-07-23 23:59:59 | 哲学

 先週19日の北大での講演の内容は来週の東洋大大学院での集中講義の内容と部分的に重なるので、その準備作業として、もう一度論点を整理しておきたい。
 私が植物哲学に関心をもつようになったきっかけは、植物そのものに対する関心ではなく、西村ユミ氏の『語りかける身体 看護ケアの現象学』(講談社学術文庫、2018年)を読んで「植物状態」と呼ばれる患者さんたちとのコミュニケーションの可能性に関心をもったからである。
 植物状態とは、「一見、意識が清明であるように開眼するが、外的刺激に対する反応、あるいは認識などの精神活動が認められず、外界とのコミュニケーションを図ることができない状態を総称する」(17頁)。
 この「植物状態」という呼称は19世紀の生理学の区分に拠るが、その説明は同書240‐241頁の注14に譲る。植物状態の厳密な定義は難しく、いくつかの基準が専門家たちによって提案されているが、いずれの場合も、動物性生命現象はほぼすべて失われていながら植物性機能が比較的よく保持されている状態の意であるから、本来あるべき機能が欠けているという欠如態 privative として患者を捉えている点は共通している。
 しかし、この状態は、「正常な」ヒトの生の欠如態としてではなく、ヒトにおいて生の原初的な基層が露呈している状態として捉えることもできるのではないだろうか。脳の損傷により言語によるコミュニケーションが不可能になることによって、前/非言語的コミュニケーションの層がいわば剝き出しになっていると見ることができるのではないだろうか。
 そのような患者さんたちと日々向き合い看護を続ける看護師さんたちが証言する患者さんとのコミュニケーションの経験的「事実」は、たとえそれが科学的には実証はできなくても、私には単なる「思い込み」だとはとても思えない。
 看護師さんたちが証言する植物状態患者とのコミュニケーションの経験は、言語を失った患者さんたちの声なき声を、沈黙のなかにおいてこそ発されている患者さんの声を、「正常」な状態では言語がいわばその遮蔽幕となって聞こえない沈黙の声を、看護師さんたちは聴き取っているということを意味しているのではないだろうか。
 その経験において、ヒトのなかにあるヒトならぬものである他性が顕現している。そればかりか、その他性によってこそヒトは生かされているということに看護師さんたちは気づいている。
 この他性を「植物」と呼ぶのならば、それはあるべき何かが欠けている欠如態ではなく、それによって他のすべてが生かされている存在の基礎様態ではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


北海道より東京に「帰宅」する

2024-07-22 22:56:32 | 雑感

 夜明け前かなり雨が強く降っていた。7時過ぎにはその雨も上がり、青空が広がり、気温は一気に上昇したが、風やや強く、湿度は下がり、午前中は定山渓温泉街を気持ちよく散策できた。定山渓温泉を路線バスで発ったのが14時過ぎ。終点札幌駅まで約80分。札幌駅からはJRで新千歳空港へ。16時20分過ぎに到着。荷物検査も並ぶことなくすぐに済む。ここまではパーフェクトだった。
 搭乗するJAL便の出発予定時刻は18時だったが、到着機の遅れで18時10分に変更との表示。実際に搭乗が始まったのはさらに十数分後だった。羽田についたのは19時55分。予定より20分の遅れ。急いでいたわけではないからさして気にはならなかった。日が落ちて日中の暑さもいくらかは和らいでいるようだ。羽田からは都営浅草線に乗り入れている京浜急行でまずはその便の終点の泉岳寺まで。でも、次の便が向かいのホームにほぼ同時に入線してきた。次の駅の三田で下車。都営三田線に乗り換えて白山で下車。地上にでたところで、雨がポツリポツリ降り始める。雷も聞こえる。雷雨に襲われる前にと早足でマンションを目指す。マンションの玄関にたどり着いたときに大きな雷の音。ギリギリセーフ。
 かくして4泊5日の北海道旅行から無事「帰宅」しました。
 明日からは、来週月曜日から5日間の集中講義の準備の仕上げに入ります。