内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 結論(二) 最終回

2014-07-31 04:47:00 | 哲学

 世界に〈現われること〉が自己外化であるかぎり、自己身体の内的空間に対して超越的な世界は、己の内に現われるすべてのものに対して非受容的であり無関心なままである。ところが、種々の形からなる構成形態として自己限定することによって、世界は、行為的・受容的身体へと到来し、その身体によって、あるいは苦しみとともに、あるいは喜びとともに、受け入れられる。そのことによって、世界は、私たちの〈肉〉として受容的なものへと変換される。私たちの身体の内的空間を介して、世界は、己の内で生ずるものを感受し得るものに変容する。
 自己が〈他なるもの〉との関係において己自身を経験するのは、自己が身体の内的延長と同一化されるかぎりでのことである。この内的延長は、超越的な外部と区別され、身体器官の抵抗によって限界づけられる。この限界づけられた内的空間において、自己は絶えず己自身を迎え入れ続け、それと同時に、〈他なるもの〉〈異なるもの〉〈未知なるもの〉が、互いに他と異なる諸感情を通じて、情感的空間である内的空間によって直接的に経験される。
 この空間は、内側から感じられる諸器官間の統一を失うことなしに諸器官へと分節化される。この空間は、本質的に媒介的な場所であり、そこにおいて、〈感じること〉は己自身を感じ、諸感情は互いに己以外の諸感情には還元し難い固有性を有った要素として経験され、それぞれ固有の仕方で限定された諸器官の中に様々な仕方で広がっている。しかも、それら諸感情は、異質なるものに対して無感覚な唯一の純粋な自我の支配にも、無限定で無関心な外的空間による自己疎外にも抵抗する。
 このような特性を有している内的空間こそ、私たちそれぞれの有限な自己を、〈他なるもの〉らとともに、それらと共有する環境において、「共-受容可能なもの」(com-passible)たらしめているところのものなのである。かくして、私たちの身体的自己の生ける器官としての唯一性はそれとして経験される。この経験は、世界の只中において、〈他なるもの〉が、感じることへと与えられたものとして、自己身体の内的空間へと迎え入れられることによって、その空間を限定することではじめて与えられる。有限で、それぞれの特異性を有ち、掛け替えのない私たちの自己の還元不可能な同一性は、身体的・情感的空間として構成されるのであり、その空間の受容可能性は、常に現実的に受け入れることとして現動し続けており、そこにこそ相対立する諸感情が絶えず到来しては去っていく。
 西田が哲学の動機とした「深い人生の悲哀」(全集第五巻九二頁)が哲学の情感的起源として感受されるのは、まさにこの空間においてのことなのである。

追記 今日の記事のタイトルの末尾にもあるように、この記事が151日連続で投稿した連載「生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学」の最終回である。元のフランス語の博士論文の第五章には多数の注があり、その中で少なからぬフランス語文献から引用しているのだが、あまりにも論述が煩瑣になるのを避けるため、そのほとんどを省略した。そのことにかぎっても、この第五章はやはり自分でも大いに不満が残るのだが、これ以上時間を掛けても、現時点では内容的な改善には至らないと判断し、ここで締めくくることにした。
 明日からは、まずは今まさに行なっている集中講義のこと、その後はしばらく日々の出来事と感想を記事にしていくつもりである。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 結論(一)

2014-07-30 00:05:00 | 哲学

 私たちは、ようやく、三月三日に起稿された本稿全体の結論を述べることができるところまで辿り着いた。
 ここまで、西田哲学を主にフランス現象学の系譜に連なる三人の哲学者、メーヌ・ド・ビラン、メルロ=ポンティ、ミッシェル・アンリと対質させることを通じて、これまでの西田哲学研究においてまったく言及されてこなかったか、あるいは十分に議論が尽くされてこなかったいくつかの論点を明確にし、そこから今後私たち自身によって展開されるべき可能性を示唆し、そのためにも厳密に確定すべき西田哲学の限界点の指摘に努めてきた。
 どのような地点に、今、私たちは立っているのだろうか。この問いに対する私たちの答えは以下の通りである。
 今、私たちは、ここから先は西田哲学がもはや私たちを導いてはくれない地点に立っている。そのことは、しかし、取りも直さず、哲学の〈始源〉に私たちは再び立ち戻っているということでもある。しかしまた、そのことは、単に出発点に引き戻されたということに尽きるのではない。なぜなら、私たちは、今や、どこから私たち自身の哲学的探究を始めるべきなのかを知っているからである。
 その新たな出発点が、ここまでその領域確定に努めてきた、自己身体の内的空間である。他の何ものにも還元し得ないこの空間が、「始めから開始し、絶えず開始しつづけている〈始源〉」(Généalogie de la psychanalyse, op. cit., p. 18)の最初の瞬間へとその空間そのものにおいて私たちを立ち戻らせる。
 自己身体の内的空間は、しかし、ミッシェル・アンリによっては不当にも軽視され、西田によっては完全に見落とされていたことは、第五章第三節で見てきたとおりである(この点、メルロ=ポンティは、メーヌ・ド・ビランによって発見された「客観的空間性に先立つ身体の空間性」に気づいていた点において注目に値する。しかし、メルロ=ポンティも、自己身体の内的空間についての現象学的存在論を展開することはなかった。Voir Merleau-Ponty, L’union de l’âme et du corps chez Malebranche, Biran et Bergson, p. 65)。同節で能う限り厳密な仕方でその規定を私たちが試みた行為的直観と自覚との区別は、自己身体の内的空間に、いわばその見失われていた正当な地位を回復させることを可能にしたのである。
しかし、この自己身体の内的空間の復権は、メーヌ・ド・ビランの立場への単なる回帰を意味するのでは毛頭ない。そうではなく、メーヌ・ド・ビランによって発見された領野の新たな探索の開始を意味する。この領野の確定に、西田の歴史的生命の論理が供給する概念装置がいわば逆説的に貢献したことは、私たちが見てきたところである。
 自己身体の内的空間は、一つの原初的・本源的空間であり、理性や超越論的自我の名において絶対化された主体性によって回収されることも、非人称的な普遍性の名において内的情感性に対して完全に無関心な客体性に埋没させられることも、等しく拒否する。それは、受容的かつ生産的な母胎のような空間であり、それが私たちの身体をして一つの特定の生ける形とし、単に自己形成的であるばかりでなく、歴史的生命の世界において内側から己自身を感じことができるものとしているのである。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(六十四)

2014-07-29 01:10:00 | 哲学

3. 6 自覚からも行為的直観からも逃れる広がり(6)

 ところが、このように規定されうる自己身体の内的空間に相当する概念を西田のテキストの中に見出すことはできないのである(本稿第三章第二節から第四節まで参照)。行為的直観の世界において行為的・受容的身体によって担われている根本的な役割も、私たちの身体的自己において哲学の方法として実行される否定的自覚も、西田を自己身体の内的空間についての問いへと導くことはなかった。
 なぜ、西田は、行為的直観と自覚との同一化と区別との両者がそこで現成する空間として自己身体の内的空間をそれとして取り出すことができなかったのだろうか。非時間的な形而上学的審級にも非人称的な時空間で外部から見られた限界づけられた延長にも還元できないこの空間に対して、なぜ、西田は、無関心あるいは「無感覚」なままに終わったのだろうか。
 自己身体は、行為的直観の世界の中で他の諸対象との関係において限定される一つの自己形成的な形として考えられるが、この世界においては、どの形もその他のすべての形との関係において限定されており、その形において己を表現しているものを歴史的に限定された仕方で表現している。自覚された自己は、それに対して、否定的自覚によって直接的に経験されており、己との関係において内的に限界づけられた空間を自ら己に与えることはない。ところが、自己とそれに対して抵抗する関係項との間に開かれる空間は、己自身によって内的に把握可能な空間であり、世界の個別的形成要素である一つの形 ― 外から見られた、したがって内側から把握不可能な形(本稿第四章第一節参照)― としての身体にも、距離なく純粋な作用として己自身を経験する自己にも還元されえない。
 かくして、自己身体の内的空間は、その本性からして、西田の歴史的生命の論理を構成する概念装置の網の目を完全にくぐり抜けてしまうのである。それは、たとえ歴史的生命の世界において私たちの身体的自己に与えられている基幹的な位置づけを考慮に入れるとしても、やはりそうならざるを得ないのである。
 西田の歴史的生命の論理においては、行為的直観によって、身体的な自己は、直接的に世界へと己自身を開く。つまり、自己身体の内的空間の媒介を経ずして、身体的自己は、世界の中で自己客体化する。そして、同じくこの論理に従うかぎり、否定的自覚は、自己身体の内的空間を内側から「自分のもの」として、しかし超越的世界へと繋がるものと感じさせる活動から己を区別し、そこから全面的に離れてしまう。自己は、したがって、哲学の方法としての否定的自覚がそこにおいて実行される有限な広がりである自己身体の内的空間とは独立に直接的に己自身を経験するものとされる。
 以上見てきたところから、ここまでの本節の議論を、以下のようにまとめることができるだろう。
 西田哲学においては、その最後期においても、自己身体の内的空間は、自覚と行為的直観との間に「否定的に」析出されるほかはない。つまり、自己身体の内的空間は、自覚と行為的直観との〈間にあるもの〉としてしか経験され得ないが、この〈間にあるもの〉を西田哲学によって捉えることはできない。しかし、まさにこの〈間にあるもの〉である自己身体の内的空間においてこそ、自覚と行為的直観とは、互いに他から区別されうるものとして現われるのである。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(六十三)

2014-07-28 00:55:00 | 哲学

3. 6 自覚からも行為的直観からも逃れる広がり(5)

 西田において、自覚が私たちの身体的自己において行為的直観と同一化されるのは、世界が私たちの行為的・受容的身体にとって自己形成的な形の世界として己自身に対して現われるときである(本稿第二章3.1「歴史的実在の世界において行為的直観によって直接把握可能になる自覚」参照)。このとき、私たちの行為的・受容的身体は、そこから世界が己自身を見る一つの自己形成的な見る形である。しかしながら、自覚が否定的自覚として私たちによって哲学の方法として実行されるとき、自覚が行為的直観と区別されるのも、この私たちの身体的自己においてのことなのである(本稿第二章3.2「自覚と行為的直観との方法論的差異」参照)。
 私たちの身体的自己は、世界構成の方向において自覚と行為的直観とが同一化される場所であり、自己回帰の方向においてこの両者が区別される場所である。それゆえ、それ自体が他に還元不可能な固有性を有った空間であると考えられなくてはならない。外から見られた行為的身体に還元されることもなく、自覚せる自己として己自身を経験する距離なく延長もないような自己そのものに還元されることもない。
 私たちの身体的自己は、一つの媒介的な有限空間であり、その都度の特異性を有ち、掛け替えがない。これこそ自己身体の内的空間に他ならない。それは、内側から己自身を様々な仕方で持続的に感じる空間であり、この空間においてこそ、自己は、否定的自覚によって己自身を純粋な内在性として感じることができ、それと同時に、世界は、己の外に絶対的超越として現われうる。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(六十二)

2014-07-27 02:24:00 | 哲学

3. 6 自覚からも行為的直観からも逃れる広がり(4)

 西田の言う否定的自覚は、〈他なるもの〉から己を区別し、距離なく直接的に己自身を経験するに至るが、この否定的自覚は、神秘的合一感のようなものではまったくなく、私たちの自己において、行為的直観によって把握される世界における感覚可能な諸記号を使った哲学的言説を通じて実行される。
 行為的直観に支えられ、私たちの身体的自己によって実行される、分析・抽象・否定などの作用を通じてはじめて、ミッシェル・アンリのいう意味での本質、つまり直接的に自己自身を経験することからなる本質は経験されるが、それは常に現れつつある世界の中の私たちの身体的自己においてのことなのである。否定的自覚を現実的に構成するこれらの作用は、この本質がそれだけでは世界に己を与えることができず、しかしまた、世界が世界だけで、己に自己形成的な形を己の内に与えることによって、己に生命を与えることができるわけでもないことを明らかにしてくれる。
世界が私たちの個別的自己において己を表現するのは、私たちの個別的自己が、他者たちと共に生きている世界の中で、その他者たちと区別され、独立・単独で掛け替えのない個物として自己表現するかぎりにおいてである。しかしながら、それぞれ単独者としての私たちの自己が自己自身を経験するものとして自己把握することができるのは、否定的自覚においてのみであり、この否定的自覚は、無限の過程として実行される。私たちの自己が己自身を直接的に経験するのは、否定的自覚を哲学の方法として実行するかぎりにおいてのことなのである。
 ここで、西田哲学のよりよい理解のために導入することを、本稿の第四章以降、繰り返し提案してきた受容可能性(passibilité)という概念を再度用いることで、哲学的方法としての否定的自覚と世界へと私たちの身体的自己を開く実存の根本契機としての行為的直観との関係を、今一度、簡潔にまとめ直してみよう。
 私たちの行為的・受容的身体が行為的直観の焦点として働いているかぎり、この身体における活動と無限の自己経験とは不可分である。この活動を否定的自覚によってそれとして区別することによってはじめて、生命の本質である無限の自己経験は、受容可能性として判明に把握されうる。












提携大学ゲストハウスからの最後の記事

2014-07-26 01:11:00 | 番外編

 先ほど投稿した二六日付の記事が滞在中の提携大学ゲストハウスからの最後の記事になる。今日二六日土曜日朝一番の関空発羽田行きで東京に戻る。
 昨日金曜日夕刻からの日本語研修プログラム参加学生たちの送別パーティーへの出席が、現在の勤務大学の教師として私が自分に課した最後の「勤め」だった。今年で六回目だったこの三週間の研修も無事終了、参加学生十二名は、皆本当に最初から最後まで楽しむことができたようだ。毎年のことだが、別れを惜しみ、泣きじゃくる女子学生も少なくない。今年は、もう数日前から「フランスに帰りたくない」と泣き始めた子がいたほどであった。そんな彼女たち同士がお互いを慰めるように二人三人で抱き合ったり、友だちになった受け入れ大学の学生たちとも男女ともに抱き合ったりしているのがこの送別パーティーでは例年あちこちに見られる。
 三週間、学生たちを喜んで受け入れて下さり、細やかな配慮と巧まざるユーモアとともに彼らと生活を共にしてくださったホスト・ファミリーの方々には、本当に心から感謝している。受け入れ大学のスタッフの献身的なサポートにはいつも頭が下がる。参加学生たちとの楽しい時間をたくさん作ってくれる同大学の学生さんたちとは、毎年このプログラムがきっかけで多くの友情が生まれ、それが大学を終えた後も続いていく。同じプログラムには、台湾と韓国からもちょうどフランス人学生と同数の学生さんたちが参加していて、彼らの方が日本語は遥かによくできるから、日本語のクラスは別々だったが、文化体験等のプログラムは一緒なので、皆すぐに仲良くなり、フランス人学生たちがたどたどしい日本語で彼らと楽しそうに会話しているのは、いつ見ても微笑ましい。
 送別会も終わりかけた頃、十二名のフランス人学生たちが私の所に来て、これまでの私の講義とこのプログラムのフランスでの準備作業についての感謝と別れの言葉を送ってくれた。私からは、「この三週間は、君たちにとって日本人との付き合いの始まり、ここで出会った日本人、そして台湾、韓国の学生たちとの友情を大切に育てていってほしい。それこそがこのプログラムの本当の目的なのだから」と応えて、会場を後にした。
 日も落ち、気温もいくらか下がった夜空の下、二〇〇九年に自分が立ち上げた企画にこうして一区切りをつけ、後任にいい形で手渡すことができることに満足感を覚えながら、ゲストハウスの自室へと戻った。明朝は五時にゲストハウスを出る。荷造りももう済んだ。
 午前十時前には実家に着くだろう。来週火曜日から始まる五日間の集中講義の準備に直ちに集中しよう。










生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(六十一)

2014-07-26 00:05:00 | 哲学

3. 6 自覚からも行為的直観からも逃れる広がり(3)

 しかしながら、昨日見た行為的直観の哲学は、歴史的生命の論理が、私たちの身体的自己において経験される矛盾的自己同一によって、生命と世界との区別、つまり生命の直接的自己感受と世界の多様な立ち現われとの間の区別の廃棄へと導くということを主張しているわけではない。それどころか、まったく逆に、まさに私たちの身体的自己においてこそ、この生命と世界という二つの次元は、それとして区別され、互いに他方とはまったく異なるものとして相互把握される。この本質的区別が、実のところ、西田においては、自覚と行為的直観との区別に対応している。
 最後期の西田哲学において、前者が哲学の方法、後者が諸科学の方法の基礎とされ、両者が厳密に区別されていたことをここで思い出そう(本稿第二章「3 — 自覚と行為的直観との区別と関係」参照)。無窮の「徹底的な否定的分析」からなる哲学の方法として、自覚は、行為的直観と区別される(3月12日の記事参照)。この方法としての否定的分析は、一切の外的なものとの自己同一化を拒否する、純粋な作用としての自己形成作用に他ならない。この自己形成作用こそが生命の自己経験なのである。否定的自覚が私たちの自己において経験されるのは、この自己が直接的かつ内的に自己自身へと回帰するからであるが、しかし、その回帰は世界の内へと身体的自己が絶えず自己外化する自己否定の経験を通じてこそなのである。世界へと身体的自己を開く行為的直観から区別されながら、しかし、否定的自覚は、行為的直観と不可分であり、それだけ切り離して実行可能なものではなく、行為的直観によって開かれた世界の只中でのみ実現されうる。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(六十)

2014-07-25 00:00:00 | 哲学

3. 6 自覚からも行為的直観からも逃れる広がり(2)

 私たちの身体は、二重の意味で、世界への存在である。まず、世界は、道具と技術を介して、私たちの身体の延長であるという意味において。そして、それと同時に、逆に、私たちの身体は、まさに道具として世界の一部を成しているという意味において。そうであるからこそ、世界は、私たちの身体に対して、それに連なる内部として現われると同時に、私たちの身体は、世界において外から見られるものとして外に出ているのである。世界が道具と技術を介して私たちの自己身体となるとき、私たちの自己身体は、世界内のある場所に局所化され、世界に対する一つの特殊な観点としてではなく、世界自身が世界を見る観点となり、世界は、かくして私たちの自己によって内側から把握された意識の世界として現われる。しかし、それでもなお、私たちの自己身体は、道具と技術の世界の一部であることをやめたわけではなく、他の諸事物に対して外在的なものとして、己を外から自己把握する(本稿第四章1. 2 「身体と世界との根本的関係」参照)。
 このようにして、世界の場所的転回は、私たちの行為的・受容的身体において、その身体が行為的直観の焦点であることによって現実化される。行為的直観は、現われるものはすべて私たちの行為的・受容的身体に対して自己形成的である世界を開き示す。この行為的・受容的身体は、世界の中の自己形成的要素として、その世界の形成の論理を表現する。私たちの個別的自己において世界は己自身を感受すると同時に、私たちの個別的自己は、それ自身として、世界の只中で経験される。自己へと現われることが私たちの自己において根源的内在性として経験されるのは、必然的に、私たちの身体的自己において現実化される世界の場所的転回を通じて、世界の只中でのことなのである。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(五十九)

2014-07-24 00:11:17 | 哲学

3. 6 自覚からも行為的直観からも逃れる広がり(1)

 行為的直観を人間の根源的な存在様式とする西田哲学は、ミッシェル・アンリに典型的に見られるような内部と外部との存在論的切断に対する根本的な批判を含んでいる。以下において、西田哲学の立場からアンリの内在性の哲学がどのように批判されうるか、一つの仮想的批判を私たちの手で構成してみよう。
 本源的な身体は、行為的直観の焦点として、〈見るもの-見えるもの〉でありかつ行為的・受容的身体であり(本稿第四章第一節参照)、その還元不可能性によって、つまり、内在性にも外在性にも還元し得ないというそのことによって、この存在論的切断にどこまでも抵抗する。私たちの身体は、行為的直観の焦点として、本来的に、主体でも客体でもなく、この主体・客体という区別・分離・切断に先立つものである。と同時に、この行為的直観の焦点としての私たちの身体が、その身体自身がそこに生き、住まう世界の内で、この両者の区別を可能にし、現実的なものとしてもいる。この意味で、私たちの身体は、西田が言うところの絶対矛盾的自己同一が内と外との対立として顕現する「場所」であると言うことができるだろう。したがって、西田の行為的直観の論脈においては、単に主体性にも客体性にも還元しがたい両義性が問題なのではなく、とりわけこの両義性の現前し生ける起源が問題化されているのである。この起源は、恒常的に現動しており、区別、対立、排除、退却等に処を与え、かつそれらを己の内に常に受け入れ続けている。

付記 今朝、朝一番の飛行機で大阪に移動。この記事は、滞在している提携大学のゲストハウスからの投稿。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(五十八)

2014-07-23 00:00:00 | 哲学

3. 5 二つの次元に引き裂かれた身体(6)

 ミッシェル・アンリが不可疑の前提として自らの哲学に課した、内部と外部との間の徹底的な存在論的切断について昨日まで見てきたところから、私たちは次のようにアンリに問わなくてはならないだろう。この切断そのものが、それがそこから出てくる起源にまで遡って生命の哲学を徹底化させることを妨げたのではないか、と。
 内部と外部との間の根本的な違いは、両者が現実的に分離可能だということを必ずしも意味しない。己の自己同一性と独立性とを確保するために一方が他方を排除するかぎり、両者はどこまでも互いに他方に対して相対的・相関的である外はない。なぜなら、一方の自己同一性と独立性とは、必然的に他方の全面的排除を要求するからである。内在性に与えられた先行性は、それだけで外在性に対する全面的な無関心を正当化するものでもない。なぜなら、疑い得ないものとして要請されたこの先行性は、実のところ、最初から内在性と同一化されている独立で自律的な主体性に与えられた絶対的な先行性から単に論理的に引き出された帰結に過ぎないからである。しかし、この主体性と内在性との同一性こそ、根本的に問い直されなければならないテーゼであると、私たちは考える。
 内在性と外在性とは、それが互いに根本的に異なっているからこそ、両者相まって一つの同じ現実を構成していると、むしろ言うべきなのではないであろうか。両者の間に根本的な違いがあるからこそ、その違いの可能性の条件を問い、〈他なるもの〉の排除あるいは自己の「退却」がそこにおいて成立する共通の場所はどこにあるのかと問わなくてはならないのではないだろうか。

付記 昨日22日付の記事は、シャルル・ド・ゴール空港で搭乗便を待っているラウンジからの投稿。本日付の記事は、夕刻到着した東京の実家からのこの夏最初の投稿。