内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「このごろはモルヒネを飲んでから写生をやるのが何よりの楽しみとなつて居る」(『正岡子規スケッチ帖』より)― ことばの花筐(2)

2024-08-07 16:34:51 | 読游摘録

 この五月に岩波文庫の一冊として刊行された『正岡子規スケッチ帖』(復本一郎=編)には、第一部として、子規が亡くなる明治三十五年(1902)九月一九日の直前の七月一六日からから九月二日の一月半ほどの間に描かれた三冊のスケッチ帖『果物帖』『草花帖』『玩具帖』の諸作がフルカラー印刷で収録され、第二部として、子規の絵画観を示す随筆と作画時の心境を綴った『病牀六尺』の記事が収められ、第三部として、漱石など子規の絵をめぐる友人たちの随筆四つが撰録されている。その後に『玩具帖』についての平岡英二氏(松山市立子規記念博物館学芸員)解題が置かれ、作画の経緯を詳述する編者解説が本冊を締めくくる。出色の好企画だと思う。
 惜しまれるのは、フルカラーとはいえ文庫版ゆえに絵が小さく、見開き二頁にまたがる作品は真ん中で切れてしまっていることである。電子書籍版にはその弊がなく、しかも自由に拡大できるから、絵の細部までよく鑑賞できる。紙版と電子書籍版の両方を購入した次第である。
 病苦に苦しむ子規の晩年については『松蘿玉液』『墨汁一滴』『病牀六尺』『仰臥漫録』に詳しいが、それらの病床の日録の記述と重ね合わせつつ死の直前の二月ほどに描かれた絵を見つめていると、胸に迫るものあり、ときに涙を禁じ得ない。
 『病牀六尺』の八十六回(八月六日)の記事にはこうある。

このごろはモルヒネを飲んでから写生をやるのが何よりの楽しみとなつて居る。けふは相変わらずの雨天に頭がもやもやしてたまらん。朝はモルヒネを飲んで蝦夷菊を写生した。

 この蝦夷菊の絵は70‐71頁に収められている。モルヒネによって痛みが鎮まった間に、腹這いのまま、ひと筆ひと筆、菊に目を凝らしながら写生した姿が彷彿とする。
 『病牀六尺』の百三回(八月二十三日)の次の一節は、88‐89頁に収められた牽牛花(アサガホ)のことである。

今一つで草花帖を完結する処であるから何か力のあるものを画きたい、それには朝顔の花がよからうと思ふたが、生憎今年は朝顔を庭に植ゑなかつたといふので仕方がないから隣の朝顔の盆栽を借りに遣つた。

 この絵について編者の榎本一郎氏は解説のなかで「死の一ヶ月前である。力強い筆致は、とてもとてもそのようには思えない。子規の生命力に圧倒される」と記す。
 本冊に収められた三つのスケッチ帖は、激しい病苦のなかから迸り出た生命の瑞々しい発露として尊い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「一にして萬に之く、之を博學と謂ふ」(伊藤仁斎『童子問』より) ― 「ことばの花筐」(1)

2024-08-06 15:42:10 | 読游摘録

 状態の良い古本を安価で入手できたときは嬉しいものだが、あまりに安すぎてちょっと悲しくなることもある。今日がそうだった。
 神田神保町の一誠堂の正面扉前の平棚に並べられた岩波日本古典文学大系の数十巻の後ろに立てられた横長の小さな厚紙には「一冊200円(税込み220円)」と手書きで記してある。確かに函は経年劣化でかなりいたんでいることは一目見て瞭然であるものの、あまりの安さに驚く。伊藤仁斎の『童子問』を読み直したいと思っていたところなので、それが収録されている第97巻『近世思想家文集』を手にとってみた。上部には亀裂がある函からそっと本体を取り出した。表紙も裏表紙も背もさして傷んではない。奥付を見ると昭和41年(1966)刊の初刷。天には埃が付着し少し汚れているが、小口と地はきれいで、本文にはほとんど捲られた形跡がない。月報も一部日焼けしているだけで、ほぼ手つかずのようだ。
 岩波文庫版『童子問』は品切れで、何軒か古書店を回ってみたが、見つからない。ネットで検索すると、あるにはあるが、状態が良い品にはかなりの値が付いている。現在『童子問』の本文を信頼できる注釈とともに読むには、大系本のほうがずっと入手しやすい。
 しかも、同巻には、本居宣長の『玉くしげ』、石田梅岩の『都鄙問答』、富永仲基の『翁の文』、安藤昌益の『自然真営道・統道真伝〔抄〕』も収められており、巻頭には家永三郎の解説「近世思想界概観」が置かれている。初版刊行から60年近く経った今日でも、全文の読み下し文と原文全文が収録された同巻の『童子問』は最良の刊本の一つであることに変わりない。それが税込みでたったの220円とは……。
 前置きがずいぶんと長くなったが、引用したいのは、仁斎が博学と多学とをきっぱりと区別している次の一節である。

一にして萬に之く、之を博學と謂ふ。萬にして萬、之を多學と謂ふ。博學は猶根有るの樹、根よりして而して幹、而して枝、而して葉、而して花實、繁茂稠密、算へ數ふべからずと雖ども、然ども一氣流注して、底らずといふ所無く、彌長じて彌已まざるがごとし。

 蒼々と瑞々しく繁茂しつづける一本の樹木のごとき博学に対して、多学は、いわば布切れで作った造花のようなもので、いくら綺羅びやかに華実が犇めきあい、見た目は綺麗であっても、そこに命はなく、成長発展することはない。博学と多学との違いはあたかも「生死の相反するがごとし」であり、両者を混同してはならないと仁斎は戒める。そして、「世俗駁雑の學を以て博學と爲る者は、誤れり」とその章(下・第三十三章)を締めくくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


明日より編みはじめる「ことばの花筐」(私家版撰文集)

2024-08-05 14:54:29 | 雑感

 一時帰国のたびに日本語の書籍を買いこんでは重量制限ぎりぎりまでスーツケースに詰め込み、それでも積み残しが出たときは国際スピード郵便で送るということ長年繰り返してきました。しかし、今回の帰国では最小限の購入にとどめました。研究教育上の必要の有無にかかわらずどうしても紙版で読みたい本、研究教育上すぐに必要とされ紙版しかない本、この二つの基準いずれかを満たし、かつ二つのスーツケースの重量制限内に余裕で収まる程度、言い換えると、二つ同時に難なく引いて歩ける程度までとしました。
 このような重量規制を自主的に課すことにしたのは、帰国前、何語であれ今後本は極力購入しないと決心したからです。現在の蔵書だけで読む本に死ぬまで困らないと、甚だ遅まきながら悟った次第であります。新規購入本のなかに新しい発見を求め続けるよりも(それはそれで尽きせぬ楽しみではありましょうけれど)、すでに手元にある本でまだ読んでいない本、ただ時の必要に応じて部分的に読んだだけの本、斜め読みしただけでいつかちゃんと読もうと思っている本、すでに読んだがまたじっくりと読み直したい本などだけで、もう一生困らないだけの本は所有しているのです。
 それらの本の読書記録をこのブログに記していこうと思います。ただ、書評めいたものを書こうとすれば余計な力が肩にはいってしまうし時間もかかりましょう。それではきっと長続きしないと思われます。自分の身丈に合った続けやすい形を少し思案してみましたが、よいアイデアが浮かぶわけでもなく、印象に残った一節を摘録し、それに一言コメントを加えるという、この上なく在り来りの撰文形式がよかろうという無難な結論に至りました。
 というわけで、「ことばの花筐」と題して明日から不定期で私撰アンソロジーを蝸牛の歩みのごとくゆるやかに編んでいきます。趣味ですから急ぐ理由はまったくありません。撰文基準は特に設けず、ただその日読んだ本から印象に残ったことばを摘んでいきます。ただ、小家の庭いじりの域を出ないとはいえ、同じ本からの摘録が何日も続くと選ぶ当人も読んでくださる方々も飽きてしまうことでしょう。そこは適宜少なくとも目先を変えるくらいの工夫はするつもりでいます。といっても、選ぶご本人の生来の狭量と偏愛は如何ともし難く、種尽きれば、以て瞑すべし、です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「サービス満点」の集中講義終了

2024-08-04 17:00:47 | 講義の余白から

 7月29日月曜日から7日にわたったオンライン集中講義が今日日曜日で終わった。大学の正式な学年暦では日曜日に授業を行うことはできないのだが、教務課にあらかじめ例外措置として許可を取り、履修登録学生たちの同意も得ていたので、滞りなく全日程を終えることができた。
 オンラインに終始したことはやはり残念ではあるが、連日の酷暑のなかをキャンパスまで通うのは学生たちにとってもかなりの苦痛であったろうし、当初5日間(一日3コマ=4時間半)の予定が7日間に延長され、毎日9時から始めて正午過ぎには終えたのも、学生たちへの過重な負担を避け、集中力を維持するためにはよりよいコンディションだったのではないかと思う。
 内容は昨年からすでに何度か他の場所と機会に取り上げてきたことがテーマであるし、自分の書いた二つの論文がテキストだったから、準備にさほど時間をかけることなしに授業に臨むことができた。
 この演習の指導方法として初回の2011年からずっと続けている毎日の授業後に提出させるミニ・レポート(400~600字)は今回もとてもよく機能した。しっかりとテキストを読みこみ、授業中の私の説明もよく理解したうえでの学生たちのコメントには、こちらが教えられるところも多く、私にとってもほんとうに勉強になった。
 受講者が二人だけだったからできた「贅沢」だったとはいえ、二人が前夜に提出したミニ・レポートについて毎回それぞれ30分くらい質疑応答する時間を取ることができたのは彼らにとっても有意義だったと思う。授業中に彼らが期待以上に積極的に発言してくれたのもありがたかった。これもオンラインだったからかも知れない。
 あとは12日締め切りの最終レポートの提出を待つばかりである。そのレポートについても、どんなテーマで書くか、最後の二回の授業内で相談する時間を設けたので、すでに二人ともある程度は指針が定まっている。
 こうやって振り返ってみると、我ながらなかなかに「サービス」の行き届いた集中講義ではなかったかと、度し難い自己満足に浸りながら今酒杯を傾けているところである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


読書網を広げ、網目を細やかにするための参考文献紹介

2024-08-03 17:51:04 | 雑感

 集中講義にかぎらないが、授業で考察の対象として取り上げているテーマに関連して学生たちにあれこれと参考文献を紹介するのは、文系の大学教師にとって別に珍しくもなんともないことである。
 この問題についてさらに広く深く考えるには、これとこれは少なくとも読んでおく必要がありますよという教育的配慮からいくつかの文献を紹介するのが主な目的だが、話しているうちに、ああそう言えばこんな本もあったなとその場の思いつきで追加して紹介をすることも少なくない。
 そのような場合、もとの問題とはかけ離れた分野の本を紹介することもあり、そのような紹介があれからこれへと連鎖的に続き、しかも自分たちにはまったく未知の本であるとき、紹介された学生の方では、興味は持つものの、いったいどこに連れて行かれるのかと不安にもなり、頭がクラクラしてしまうこともあるようである。「まあ、興味があったら読んでみてください。みなさんがなにか問題を考えるとき、あるいは論文を書くとき、どこかでヒントになるかも知れませんよ」と必ず付け加えはするが。
 今日の演習では、フランシス・アレがいう植物の「沈黙」に特に興味をもった学生に、マックス・ピカートの『沈黙の世界』(みすず書房、1969年。新装版2021年)アラン・コルバンの『静寂と沈黙の歴史 ルネサンスから現代へ』(藤原書店、2018年)を紹介しておいた。
 この二冊にかぎらず、紹介された本を読むかどうかはまったく学生たちの自由だが、彼女ら彼らの読書網が広がり、その網目が細かくなり、網に掛かってくる本も自ずと増え、その網の結び目にほかならない自分の精神がそれだけ豊かに広がりと奥行きをもつようになるであろう素晴らしい本たちを、たとえありがた迷惑だと思われても、紹介し続けたいと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「一言も言わずにすべてを言い尽くす…」、あるいは植物の詩学 ― フランシス・アレ『植物礼讃 ― 新しい生物学のために』より

2024-08-02 17:11:59 | 読游摘録

 集中講義で学生たちと植物哲学についての拙論を読んでいるが、拙論に引用されている文献の他の箇所を補遺として紹介することがある。例えば、フランスの植物学者フランシス・アレが『植物礼讃 新しい生物学のために』(Éloge de la plante. Pour une nouvelle biologie, Éditions du Seuil, 1999)のなかで silence という名詞や silencieux という形容詞を使っている箇所である。アレはそれらの語に特別な意味を込めて使っているわけではなく、植物は人間のように話すこともなく、動物のように叫んだり鳴いたりすることもなく、自ら声や音を発することなく静かにそこに在るという意味で使っている。ただ、一箇所、とても印象的な使い方をしている箇所がある。
 それは « Tout dire sans un mot » と題された章の最初の段落のなかである。

  Mai 1997. On voit affiché sur les murs de la ville un portrait de Juliette Binoche pour le parfum Poême de Lancôme. D’habitude les pubs sont débiles mais celle-ci a un côté profondément végétal qui me touche : le visage radieux de Juliette, une petite fiole dorée et, entre les deux, « Tout dire sans un mot… ». Beauté, silence, parfum ; comment mieux exprimer, outre la poésie des plantes, leur véritable style de fonctionnement par rapport aux animaux ? Tout dire sans un mot et, ajouterais-je, tout faire sans un geste, voilà une digne introduction à la biochimie des plantes.

 1997年に街中に貼られていたランコムのポエムという香水のポスターには、フランスを代表する女優のひとりジュリエット・ビノシュの輝くように美しい顔と当の香水の金色の小瓶との間に « Tout dire sans un mot… » というコピーが置かれていた。「一言も言わずにすべてを言い尽くす」。美、沈黙、香水。これらが人間を含めた動物たちに対してどのように働きかけるかを植物の詩学以上に見事に表現できるだろうか。このコピーに、 « tout faire sans un geste » (身動きひとつせずにすべてを為す)とアレは付け加える。そして、この二つのコピー相まって植物の生化学にふさわしい序の言葉になっていると言う。
 なんともオシャレな導入ではありませんか。


夜明け前のジョギング ― 坂物語

2024-08-01 17:25:42 | 雑感

 毎日、お暑うございますね。七月は全国平均でまたしても観測史上もっとも暑い七月だったとか。こんな記録、更新してくれなくてもいいのに。
 昨晩関東地区を襲った集中豪雨。小石川植物園のあたりもかなり強い雨脚が何時間か続きましたが、排水溝がしっかり機能しているのか、坂下なのに道路上の冠水はまったくありませんでした。
 今日から八月。軽い話で始めましょう。
 とにかくこう暑くては日中にジョギングする気にはとてもなれません。ところが、驚いたことに、午後仕方なしに買い物に出ると、炎天下ジョギングしている人をちらほら見かけます。一種のマゾヒスティックな快楽を味わうためなのでしょうか。
 ここ数日、午前四時前にジョギングに出かけ、五時過ぎには上がるようにしています。10~12キロ走ります。この時間帯はさすがに気温も日中より何度か下がっており、走るのはその分楽です。まさかこんな時間に走るもの好きもあるまいと思いきや、いるんですね「同好の士」が。一時間半ほどのジョギング中、少なくとも十人ほどの未明のジョガーとすれ違います。あるいは、あっさりと追い抜かれます、ちょっとくやしいけれど。
 文京区を走る主な道路の地図がようやく頭に入ってきました。でも、スマホもあえて見ずに裏道を適当に選んで走っていると、えっここに出るの、と驚かされることもあります。そんな「発見」も楽しいものです。
 ほんとうに坂の多い区で、由緒ある名前がついている坂も少なくありません。その由来を記した看板を立ち止まって読んでさらに興味をかきたてられることもあります。走った後にそれらの坂についてネットであれこれ調べるのも楽しみです。今まで上り下りした坂のなかでのお気に入りは、無縁坂暗闇坂菊坂
 今は集中講義の最中ですから、未明のジョギングを一時間余りで切り上げていますが、終わったらもっとゆっくりと坂巡りジョギングをしてみようと思っています。