内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第二章(十一)

2014-03-31 00:00:00 | 哲学

3.2 自覚と行為的直観との方法論的差異(承前)
 以上から、哲学と科学との立場の違いを、自覚と行為的直観とにおける私たちの自己の世界との関係の差異として、次のように規定することができる。科学は、行為的直観による私たちの自己と世界との相互的な関係であるのに対して、哲学は、世界の自覚によって、つまり世界の自己の自己に対する関係の直接把握によって始まる。科学は、行為的直観によって原初的に与えられた私たちの自己の世界に対する関係を対象化することによって表現するのに対して、哲学は、世界の自覚を表現する私たちの自己によって自らに開示された世界自身の自己表現である。
 西田が哲学的知識と科学的知識との区別あるいは両者の方法論上の区別を規定しようとするとき、自覚と行為的直観との差異はより厳密な仕方で提示されるが、それは「ポイエーシス的自己」と「創造的自己」との区別に基づいた立論の中で為されている。

科学的知識は我々のポイエーシス的自己の行為的直観に基づいて成立するのであるが、ポイエーシス的自己の自覚の根柢には、創造的自己の自覚がなければならない。創造的世界の個物として、我々の自己はポイエーシス的であるのである。何処までも自己自身を限定する絶対的事実としての、我々の創造的自己の自覚に基づいて哲学的知識が成立する。

 科学的知識は、私たちのポイエーシス的自己がその焦点あるいは起点である行為的直観の現実性に基づいて成立する。行為的直観が私たちに与える原初的な確実性の経験が科学的知識の起源にある。しかし、行為的直観は、世界をただあるがままに見ることではなく、自己形成的世界の直接把握として、相互に自己限定的で表現的な諸々の形の只中で現実化されており、それらの形に働きかけ、それらに変更あるいは変容をもたらすことを私たちの自己に可能にし、世界に別の配置あるいは構成形態を与えることを可能にする。行為的直観は、私たちの自己それぞれを世界の創造的行為の焦点あるいは起点にしうるのである。この世界の創造的行為は、世界の創造性をある時ある所で実現・具体化する。しかしながら、行為的直観は、世界の諸構成形態の認識の根柢においてつねに作動しているとはいえ、それ自体は世界の創造性そのものの直接的認識ではない。行為的直観は、その起源へと自らを向け返るとき、世界の創造性の原初的根源的認識へと私たちを導く。この方向において、私たちのポイエーシス的自己は、自らをそのようなものを把握することを介して、創造的自己の自覚へと自らを深化させていくが、この深化の過程が「否定的自覚」と西田によって呼ばれる思考過程である。この過程を自ら歩むことそのことが、方途という意味での哲学の方法にほかならない。
 ここで、もう一度、西田における哲学的方法とその他の諸科学の方法との区別をまとめておこう。諸学の構成の順序に従うとき、哲学的方法が他のすべての科学的方法に先立つ。前者は直接的に創造的自己に基づいているのに対して、後者はポイエーシス的自己のよって実行されるからである。このポイエーシス的自己は創造的自己に基づいている。哲学的方法は厳密な意味での自覚によって実行されるのに対して、諸科学の方法は行為的直観に基づいている。事実の順序に従うとき、反対に、行為的直観から出発して私たちの自己はポイエーシス的自己としてまず自覚し、そしてこのポイエーシス的自己が自らの起源に遡ることを通じて私たちの歴史的身体において創造的自己として自覚するに至る。そこにおいて、自覚は、世界の自覚を表現している。


3.3 創造的自己とポイエーシス的自己との関係
 本章の締めくくりとして、創造的自己とポイエーシス的自己との関係をまとめておこう。創造的自己は、世界の始まりから始まり、たえず始まる〈始源〉である。ポイエーシス的自己は、それに対して、世界の現実的な構成形態の只中にあって具体化された一つの始まり、一つの起動点である。世界が無限の多様性の相の下に自己限定するとき、ポイエーシス的自己は、世界において行為的直観によって時間空間的に限定された一知覚的中心として経験される。世界が永遠の唯一性の相の下に経験される時、創造的自己は、世界の只中でそれとして自覚される。私たちの行為的身体において具体化されたポイエーシス的自己は創造的自己ではない。前者は後者をある限定された形で表現する。無限の創造的自己が、私たちの有限の自己において、歴史的生命の世界の絶対的自己否定を介して自らを表現する。創造的自己は、世界のノエシス的自己限定として自らに自らを現れさせる。それに対して、ポイエーシス的自己は、世界のノエマ的自己限定の中で、自らの周りに構成させる世界との関係において自らにそれとして現れる。