内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

韋編三絶(いへんさんぜつ)

2024-04-28 04:18:15 | 雑感

 「韋編三絶」(いへんさんぜつ)という四字漢語(成語)がある。「イヘンみたびたつ」と訓む。「同じ書物を何回も読み返すこと」(武部良明『四字漢語辞典』角川ソフィア文庫、2020年)、「本が壊れるほど繰り返し読む」こと、書物のとじひもが切れるまで繰り返し読むこと」(村上哲見・島森哲男 編『四字熟語の教え』講談社学術文庫、2019年)の意で使われる。電子書籍には無縁の言葉であるが、私にとっては、いまだに捨てがたい味わいがある成語である。
 孔子が晩年『易経』という古典を何度も紐解いたので、竹簡をとじていた革紐が何度も切れたという『史記』「孔子世家」が伝える故事から生まれた成語である。韋編とは、なめし皮のとじひものこと。当時はまだ紙のない時代で、文字は細長い木か竹の札(簡)に書き、それをひもでつづり合わせ、読むたびにひろげたり巻いたりした。繰り返して読むと、そのひもがすり切れてしまう。
 文字どおり韋編三絶と言える本は私にはないが、現在手元に残っている日本語の本でもっとも傷みがはげしいのは、塙書房版の『万葉集 本文篇』(昭和51年初版15刷)である。これは今から四十数年前、授業でも自宅でも毎日のように紐解いていたから、背表紙は文字がかすれ、丁寧に扱わないとそれこそ糸かがりが切れてばらばらになってしまいそうな状態である。この一冊は「私宝」である。
 フランスで出版された書籍について言えば、1970年代までの単行本は糸かがり綴じが基本だった。よほど繰り返し紐解かないかぎり、糸が切れて頁の束が外れてしまうことはない。ところが、80年代から裁断しただけのバラバラの紙の背をただ糊付けしただけの粗悪な製本が市場を席巻し始めた。今では糸かがり綴じは高価な書籍に限られる。
 博論執筆中、粗悪な製本に何度も泣かされた。買ったその日にちょっと頁をめくっただけで真ん中からパックリ割れてしまって唖然としたこともある。こんなものは本とは言えないではないかと憤ったこと一再ならず。
 ガリマール社の Tel 叢書版のメルロ=ポンティ『知覚の現象学』(Phénoménologie de la perception)は私がもっとも繰り返し紐解いたフランス書の一冊だが、もう「満身創痍」であった。外れてしまった頁を接着剤とセロテープで何箇所も何度も貼り付け直したので、本体が膨れ上がり、ちゃんと本を閉じることができなくなってしまった。その後、1945年刊行の糸かがり綴じの初版の古本を購入した。今は参照するのはこの版である。Le visible et l’invisible も Tel 叢書版を使い倒した後、初版の古本を購入した。『眼と精神』(L’Œil et l’Esprit)は Folio 版を三回買い直し、その後、糸かがり綴じの初版本を入手した。
 一昨日、2000年の刊行と同時に購入したミッシェル・アンリの『受肉』(Incarnation)を必要があって久しぶりに開いたら、開いた頁のところでパックリ二つに割れてしまった。この本は博士論文執筆終盤に集中的に「酷使」した。あちこちにマーカーが引かれ、書き込みも多い。ここ何年開くこともなかったから、糊が硬化してしまっていたこともあるのだろう。これももう修復不可能な状態だ。仕方なく、購入し直した。見たところ同じ糊付け製本だが、この二十数年間に糊の質が改善されているのだろうか。もっとも、今後引用するときには電子書籍版を参照するから、紙版はたまに覗く程度だろう。ただ、それでも手元に紙版を置いておきたい一冊ではある。