1.2 純粋経験の〈純粋性〉について ― ジェームズ、ベルクソン、フッサールとの対比
西田は、W・ジェームズ、ベルクソン、フッサールとほぼ同時代を生き、「私たちの生に最も直接的に最も具体的に与えられたものへの回帰」という、その時代の哲学の主潮の一つを彼らと共有している。それゆえ、西田の純粋経験の〈純粋性〉を、W・ジェームズの「純粋経験 pure experience」、ベルクソンの「純粋持続 durée pure」、フッサールの「純粋意識 reines Bewußtsein」それぞれにおける〈純粋性〉と比較することは、西田の純粋経験を特徴づけているものをある一定の哲学的文脈においてよりよく把握することを私たちに可能にする。そこで、ここでは、これら三人の哲学者それぞれの論点と西田のそれとの差異を簡略にまとめて示すことによって、西田の純粋経験の固有性を際立たせてみよう。
1.2.1 ジェームズと西田における純粋経験に対する態度の差異
西田がジェームズの純粋経験論から何らかの影響あるいは示唆を受けたかどうかは、ここでは問題としない。また両者における「純粋経験」がまったく同一の事柄を指し示しているのかという問いの立て方もしない。私たちのここでの目的からすれば、むしろ純粋経験論における両者の近接性よりも、その用語上の対応と問題圏の近接性とのゆえにこそ際立つ両者の決定的差異が指摘されなければならない。
その差異は、純粋経験そのものに対する態度に関わる。ジェームズの純粋経験論において、純粋経験は世界が今あるように形成されるその出発点となる素材にほかならないが、そうであるかぎりにおいて、それは根本的な地位を占めている 。しかし、私たちが具体的に生きている世界をそのようなものとして分節化することを可能にする根本的な素材を探究する哲学者として、ジェームズは純粋経験へと回帰しているとしても、まさにそうであるがゆえに世界構成の素材であるにすぎない純粋経験と探究する自己とを区別する。ジェームズは哲学者として純粋経験においてもたらされる直接的な所与を観察するために、純粋経験のいわば直接的な生命の流れのほとりにとどまる。ジェームズの純粋経験の純粋性は事後的に構成されたあらゆる範疇に先立つ素材の純粋性である。この素材から機能的に異なった無数の形が生成する。このような純粋経験論が複数世界論の構想へとジェームズを導くのである。ところが西田にとっては、純粋経験はその最初の瞬間から哲学者自身よって生きられる経験であり、純粋経験と哲学者とは不可分である。純粋経験とは西田においてすべてをそこから説明したいという慾動を引き起こす〈始源〉の直接経験である。ジェームズのように世界構成の素材の傍らや直接的な生命の流れのほとりにとどまるのではなく、西田はその流れに飛び込み、その導くところに身をもって従おうとする。西田において純粋経験はそれとして外から観察することのできないものである。それ自身の内部において自らにそれとして経験されるものである。西田の純粋経験の純粋性はそれゆえ私たちの経験世界がそこから自己展開してくる根源的一性の純粋性である。