内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

西田哲学における「始まりつづける〈始源〉」― 旧稿再開

2014-03-03 00:57:00 | 哲学

 今日から、西田哲学についての未完成の原稿(四百字詰原稿用紙に換算して180枚ほど)を読み直しながら、それに手を入れつつ、このブログの記事として掲載していくことにした。この原稿は、二〇〇三年にストラスブール大学に提出した博士論文が基になっているが、日本語にするにあたって大幅に変更しなければならない箇所が障害となって、九年前に中断されたまま、いつもそのことが気になりながら、再開のきっかけが摑めず、今日に至ってしまった。しかし、何か自分できっかけを作らなければいつまでたっても再開できないだろう。そこで、昨年六月に始めてから丸九ヶ月間毎日投稿し、今では私の生活の中に一つの習慣として確立されているこのブログをその場とすることにした。
 煩瑣な注は一切省略し、本文と重要な出典のみを掲載していく。今日の記事のタイトルは、第一章の副題から取った。同章の主題は「ある一つの哲学における哲学の〈始源〉」、西田哲学を端的に〈哲学史〉の中に位置づけることをその目的としている。今日はその冒頭、導入部を掲載する。


 「根源的な第一哲学とは〈始源〉(Commencement)の探求である」― 西田哲学の研究をフランス現代の哲学者ミシェル・アンリのデカルト哲学研究からの引用で始めるのには、次の三つの理由がある。第一に、このテーゼが西田哲学の根本規定としてもまた妥当であると思われるからである。西田哲学はその最初期から最後期までこの〈始源〉の探求であったと言えるであろう。第二に、西田とアンリには両者の根源的な問いかけの次元において親和性があると思われるからである。この親和性についての考察を通じて、西田の哲学的探究を現代哲学の文脈の中でいわばその動態において捉えうる一つの領野が開かれてくる。第三に、冒頭に引用したテーゼが含まれる『精神分析の系譜』(法政大学出版局、一九九三年)の第一章「見テイルト私ニ思ワレル (videre videor)」でアンリがその根源的意味を捉えようとしたデカルトのコギトをめぐる問題圏との関係において西田哲学の根本問題を位置づけることができると思われるからである。アンリが同書の中で主題化しているのは〈始源〉であり、それは「いっさいに先立つもの」、つまりあらゆる哲学的思考を可能にするものであり、単に西洋近代哲学の始まりではなく、歴史上位置づけられる哲学の始まりのことでもない。アンリが言うようにこの〈始源〉の直観的把握がデカルトのコギトであるとすれば、西田哲学における〈始源〉の直観を特徴づけているものをそれとの関係において捉えることができるであろう。
 〈始源〉とは「始めから開始し、絶えず開始しつづけている〈始源〉」である(154頁)。哲学の根本的な動機は、「〈始源〉の開始するまさにその最初の瞬間へ回帰しようという意図であり、この瞬間をもって〈始源〉が始まり、また絶えず始まり続けるのである」(16頁)。〈始源〉は、「現れることが最初に自己に現れることであり、生が見えないままに自己のうちへ到来することなのである」(154頁)。それゆえこの〈始源〉をデカルトのコギトに還元することはできない。反対に、まさに〈始源〉によって十七世紀のヨーロッパにおいてデカルトのコギトへと至る途が開かれたのであり、たとえこの途を哲学史上最初に歩み尽くしたのがデカルトであるとしても、このことに変わりはない。したがって、哲学の〈始源〉が近代西洋哲学の始まり以外の場所に見出され、現に始まりつづけているということはありうることであり、西田の哲学的思考もまた、西洋近代とは異なった歴史的文脈の中で、それ固有の仕方で為された〈始源〉の探究なのではないかと問うことは許されるであろう。
 西田がその哲学的探究の全過程を通じて倦むことなく捜し求め続けたものは、「すべてがそこからそこへ」という表現によって示される〈そこ〉である。この〈そこ〉こそ西田哲学において「現れることが最初に自己に現れること」が直接経験される次元であり、西田は、その哲学的言語活動において様々な表現を創出しながらこの〈始源〉へと迫ろうとしているが、本章では、〈始源〉への西田固有の接近の仕方がよく見て取ることができる「純粋経験」「自覚」「生命」の三つの契機を西田哲学の展開の順序に従って取り上げ 、それぞれの問題場面において「始りつづける〈始源」がいかに捉えられているかを考察する。それを通じて私たちはある原初的経験の自己理解の過程、つまり原初的かつ根源的なものを探究するための果てしない概念化作業を通じて表現される一つの哲学的思考の過程を辿り直すことになるだろう。