内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「愛する人にとって別れは苦しいものであるが、善きものである。なぜなら別れとは愛だからである。」― シモーヌ・ヴェイユ「神への愛と不幸」より

2024-08-24 08:28:21 | 読游摘録

 今日はシモーヌ・ヴェイユの命日である。今から81年前の1943年の今日、イギリスのケント州アシュフォードのサナトリウムで亡くなった。享年34歳。診断書には、栄養失調と肺結核による衰弱死と書かれた。
 遺体はアシュフォードの共同墓地に埋葬された。キリスト教徒とユダヤ教徒の両区画にはさまれた細長い緩衝地帯にそれはある。名前と生没年のみが記された、なんの墓碑銘もない、灰色の大理石の墓である。(以上、冨原眞弓『シモーヌ・ヴェイユ』岩波現代文庫より)
 Attente de Dieu 『神をまちのぞむ』に収められた « L’Amour de Dieu et le malheur » 「神への愛と不幸」から一箇所引用して、故人への思いを新たにしたい。なお、原題には、それぞれ「神が待っている」「神の愛と不幸」の意もあり、両義が込められている。

Nous autres hommes, notre misère nous donne le privilège infiniment précieux d’avoir part à cette distance placée entre le Fils et le Père. Mais cette distance n’est séparation que pour ceux qui aiment. Pour ceux qui aiment, la séparation, quoique douloureuse, est un bien, parce qu’elle est amour. La détresse même du Christ abandonné est un bien. Il ne peut pas y avoir pour nous ici-bas de plus grand bien que d’y avoir part. Dieu ici-bas ne peut pas nous être parfaitement présent, à cause de la chair. Mais il peut nous être dans l’extrême malheur presque parfaitement absent. C’est pour nous sur terre l’unique possibilité de perfection. C’est pourquoi la Croix est notre unique espoir.

わたしたち人間は、その悲惨さによって、〈子〉と〈父〉のあいだに置かれたこの距離に与るというかぎりなく貴重な特権を与えられている。だがこの距離が別れであるのは、愛する人にとってのみである。愛する人にとって別れは苦しいものであるが、善きものである。なぜなら別れとは愛だからである。見棄てられたキリストの苦悶そのものは善きものである。この世でわたしたちにとってこのキリストの苦悶に与るよりも大いなる善はありえない。この世において神は肉体をもたないために、わたしたちの前に完全にあらわれることはない。だが、極限の不幸にあるとき、わたしたちに神はほぼ完全に不在である。これが、この地上でわたしたちにとって唯一の完全性の可能性である。こうして十字架はわたしたちの唯一の希望である。

(今村純子訳『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』河出文庫、2018年、250‐251頁。ただし、今村訳の冒頭では「それ以外の人間であるわたしたち」となっているところを上記のように変えた。なぜなら、ここでの autres は「それ以外の」という意味ではなく、直前の段落で言及されている「キリストとその〈父〉」とわたしたち人間との対比を強調するための用法だからである。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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