内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

ウィリアム・ブレイク「無垢の予兆」の最初の四行の訳について

2019-04-21 23:59:59 | 詩歌逍遥

 映画『博士の愛した数式』についてあと一言。映画の終わりに、ウィリアム・ブレイクの「無垢の予兆」(Auguries of Innocence)という一三二行の長い詩の最初の四行が大写しになる。

一つぶの砂に 一つの世界を見
一輪の野の花に 一つの天国を見 
てのひらに無限を乗せ
一時(ひととき)のうちに永遠を感じる

 この和訳は、小泉堯史監督自身によるものであることがエンドロールの最後のほうでわかる。原詩は次の通り。

To see a World in a Grain of Sand
And a Heaven in a Wild Flower
Hold Infinity in the palm of your hand
And Eternity in an hour

 この四行でひとまとまりを成していて、それが詩全体のキーノートになっている。
 ネット上で見つけた仏訳は次のようになっている。

Voir le monde en un grain de sable,
Un ciel en une fleur des champs,
Retenir l’infini dans la paume des mains
Et l’éternité dans une heure.

 ネットでちょっと探しただけだが、邦訳もいくつもあるようだ。原詩はいたって平明な言葉遣いだが、« To see » をどう取るかでかなり意味の異なった訳になってしまう。仏訳のように、単純に不定法ととって、see と hold 間に特に文法的な差異を認めず、二行ずつ並置されているとみなしている訳がある一方、to see は「見るために」と目的を示し、 « Hold » を命令形ととっている訳もある。
 この後者の解釈は多分無理だと思う。前二行と後二行の間には、そのような目的・手段の関係はないだろう。前二行は、世界や天国という広大なもの或いは目に見えないものを身近な小さなものである「一粒の砂」「一輪の野の花」の中に見るということ、後二行は、無限や永遠という果てしのないもの或いはやはり目に見えないものを「手のひら」「ひととき」という有限なものおいて捉えるということであり、両者は無関係ではないにしても、後者によって前者が可能になるというような関係にはない。岩波文庫版の松下正一訳は次の通り。

一粒の砂にも世界を
一輪の野の花にも天国を見、
君の掌のうちに無限を
一時(ひととき)のうちに永遠を握る

 「見る」と「握る」をそれぞれの二行の最後に持ってきている。原詩が脚韻を踏んでいるのも「を」の繰り返しで再現しようとしている。「見る」にしたほうが脚韻の再現という点ではより忠実になるが、四行の凝集性という点ではやや劣るから「見、」にしたのだろうか。












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