傑出した才能を示す人を褒めて「天才」という言葉がわりと安易に使われていることにいつも違和感を覚えていた。天から恵まれたとしか思えないような類まれな才能をもって生まれた画家や音楽家や詩人やスポーツ選手たちを称賛するためにこの語が使われるのはわからなくはないけれど、そう言っただけでは、大切なことは何も捉えられていないなと思うことが多い。
学問の世界でも、「天才」という言葉が使われることがあるけれど、これにはさらに強い違和感を覚える。場合によっては、使う人の知性を疑う。たとえその偉大な業績を讃えるためであっても、いや、むしろそうであればこそ、この言葉は避けて、何が優れているのかを正確に捉えるべきであると思う。そうでなければその学問の継承はありえないだろう。もちろんそれは容易ならざることではあるけれども。
こんなことを思ったのには実は最近具体的なきっかけがあったからなのだが、それには触れない。「あのことか」と思い当たる方も一人二人いらっしゃるかも知れないが、それ自体はつまらないことだし、そのことで誰かを誹謗中傷するつもりもない。ただ、自分も関わりをもった一件だけに、まことに残念だとは思っている。
一昨日、西郷信綱の『源氏物語を読むために』(平凡社ライブラリー、2005年。本書のことは5月16日の記事で取り上げたので、そちらもご覧くだされ)の最終章第十章「紫式部のこと」の最後まで読んで、以下の一節に出会い、私が「天才」という言葉についてわだかまりをもっていた理由はこれだったと気づかされた。この文章の初出がいつか正確なところはわからないが、1970年代末から1982年の間である。自戒の意味も込めて、少し長いが全文引用する。
私は危うく天才という語を使いたくなるところだったが、E・M・フォースターの小説論に次のような発言があるのを想い出した。本書の結びのことばとして多少ふさわしい点がなくもないので引かせてもらう。いわく、「天才に言及するのが、……えせ学者の特徴だ。彼は天才を云々するのを好む。というのは、この語のひびきが、それの意味を明らかにするのを免じてくれるからである。文学は天才によって書かれる。小説家は天才である。さあこれでいい。ではその分類にとりかかろう。そして彼は分類する。彼のいうところはすべて間違っていないかも知れぬが、まるで役だたない。彼は作品のなかに入りこまずに、その周辺を動きまわっているのだから。……読み手はひとり腰をおろし作者と格闘せねばならない。このことをえせ学者はやろうとしない。それよりむしろ作品をその時代史とか、作者の生涯におけるあれこれの事件とか、その描いている諸事件とかに関連させようとする。《傾向》という語が使えるようになると、途端に彼は張り切るのだが、それを読まされる方はげんなりする、云々」。
まことにその通りだと思う。私たちもせいぜいえせ学者にならぬ用心肝要ということになる。ただ、格闘しながら作品を読むとは具体的にどういうことか。半世紀ほど前フォースターの考えていたであろうようにそれがもはや無邪気で自明な行為ではなくなっている点にこそ、今日の私たちの問題があるのを忘れてはなるまい。(303‐304頁)
おまえなどそもそもえせ学者ですらない、ただの無能無才の老いぼれじゃないか、と言われればそれまでだが、自分にとってとても大切な作品(もちろん小説にかぎらない)に関しては、フォースターのいう「格闘」する姿勢を忘れないようにしたい。
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