一昨日が紙版の刊行日である三浦佑之氏の『増補 日本霊異記の世界』の電子書籍版を今さきほど買い求め、検索機能を使ってあちこち覗いていたら、『梁塵秘抄』の最も有名な法文歌の一つが目に止まった。
仏はつねにいませども うつつならぬぞあはれなる
人の音せぬ暁に ほのかに夢に見えたまふ(26)
目に見えない仏に憧れる心を平易に歌ったこの一首は、北原白秋、菊池寛、川端康成、三島由紀夫など、多くの文学者をひきつけた(植木朝子『梁塵秘抄の世界 中世を映す歌謡』角川選書、二〇〇九年)。
同じく植木朝子氏の『梁塵秘抄』(ちくま学芸文庫、二〇一四年)の当該今様の評は、「第二句「あはれなる」については、しみじみ尊く思われる、悲しいことと嘆かれる、の二様の解釈がある。法文歌においては、[…]まずは仏・菩薩や経、修行者の尊いことを讃美して、その尊さの内容を説明していく形式が多いので、当該今様においても、まずは仏の尊さを捉えたものと見たい」としている。
これに対して、西郷信綱は『梁塵秘抄』(講談社学術文庫、二〇一七年)は、「あはれなる」の意の取り方について次のような見解を示している。
この句は、梁塵秘抄の愛用するところで、[…]法文歌に用いられることが多く、そしてそれは仏への帰依讃歎の心をあらわしている。だがそうかといってこの「仏は常に」の「あはれなる」を、そのようにきっぱり一義化してしまっていいかどうか問題がある。
[…]その解釈は、しみじみ尊く思われるとする説と、まことに悲しいことだとする説とに割れており、そのどちらかであるかが従来あれこれ論じられている。
しかし、それを二者撰一と考えるのは、正しい享受とはいいがたい。[…]この句が常住不滅な仏への讃歎をあらわすとともに、それをまさに目に見ることのできぬ顚倒せる凡夫の歎きをも同時にあらわしており、そこにこの歌の独自なめでたさの存することが、おのずから納得されるのではなかろうか。
西郷は下句についても解釈上の問題を指摘する。この句について、「ただ一般的に人の寝静まった夜明けがたに云々と棒読みしたら、万事休すである。夜来、仏を一心に讃歎敬仰して暁に至り、とろっとした忘我境に夢幻のごとく仏が示現するという意と解さねばならぬ」という。
この〈時〉に関しては、馬場光子氏の『走る女』(筑摩書房、一九九二年)のなかの「遊女の祈り」と題された章のなかの同法文歌についての指摘が大変興味深い。
時は暁。夜の白む曙よりも、もっと夜に近い。この時間帯は、神楽など祭祀の場では、終夜(よもすがら)の神遊びの果てに、神が異界に帰る時刻であり、また説話では、[…]異形の者が異界への帰ってゆく時でもある。このように、夜と朝との間、人間世界と異界との間である暁に、仏が姿を見せるのだという。七日七夜の修行の果ての夢中示現である。
一首の見仏は、すべて朧である。時は暁。夜と朝とのあわい。「現ならぬ」「人の音せぬ」と、現実の人間の生活する世界を表す「現」「人の音」という言葉は、否定形によってしか用いられていない。しかも、「ほのか」「夢」という、はかない言葉が積み重ねられている。教義としての、仏の常住不滅、夢中示現は、「常にいませども」「見えたまふ」と、仏典さながらの硬質な論理性を後退させて、たおやかな情感が前面におし出されている。こうした言葉には、人びとの情に訴えて、その感性をからめとろうとする力がこもっている。(203頁)
こうして諸家の読みに導かれながら奥深い古典の世界をひととき逍遥することで、無明を彷徨う魂にもいくばくかの慰めが与えられる。
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