~補足~4
20代半ばの文久元年(1861)に
「支那、阿蘭陀の事情を知ろうとして」
長崎に一年間遊学。
南宋画などの人気の高かった南画家で僧の
春徳寺祖門鉄翁に学んでいる。
長崎から帰った鉄斎は聖護院村で私塾を開く。
蓮月尼の勧めで、慶応3年(1867)
近くに住む円山派の絵師・中島華陽の娘と結婚した。
翌年長女が生まれるが、
2年後に明治天皇が再び行幸するのに供奉して
鉄斎ははじめて東京に行ったが、
その留守中に妻は病死してしまう。
このころ鉄斎は彼の私塾の講義の草案をもとに
『称呼私弁』を出版している。
これは「称謂名文は文筆者が最も注意しなければならぬもの」
として、和漢古今の文献を渉猟し、
諸学者の説を掲げ、自説をもって批判している。
古美術崎陽 長崎の歴史
20代半ばの文久元年(1861)に
「支那、阿蘭陀の事情を知ろうとして」
長崎に一年間遊学。
南宋画などの人気の高かった南画家で僧の
春徳寺祖門鉄翁に学んでいる。
長崎から帰った鉄斎は聖護院村で私塾を開く。
蓮月尼の勧めで、慶応3年(1867)
近くに住む円山派の絵師・中島華陽の娘と結婚した。
翌年長女が生まれるが、
2年後に明治天皇が再び行幸するのに供奉して
鉄斎ははじめて東京に行ったが、
その留守中に妻は病死してしまう。
このころ鉄斎は彼の私塾の講義の草案をもとに
『称呼私弁』を出版している。
これは「称謂名文は文筆者が最も注意しなければならぬもの」
として、和漢古今の文献を渉猟し、
諸学者の説を掲げ、自説をもって批判している。
古美術崎陽 長崎の歴史