名前:崎陽店主 日付:12月30日(土) 10時53分
(一)長崎奉行は文禄元年(1592)に設置されてから、寛永十年(1633)までは一名であった。もっとも、
初代寺沢志摩守は唐津城主であったから、家臣を長崎に派遣して政務を委せた。これは例外として、
他の奉行は、当時は南蛮船の入港が毎年六月か七月ごろで、帰帆は九月おそくとも十月中旬を越えることはなかったので、
その入港に先立ち着崎し、又、外国船の帰帆後に江戸に帰った。
(二)寛永十一年(1634)から貞享三年(1686)までは奉行は二名となった。うち一人は在崎し、(たいてい、毎年九月に交代)一人は江戸にいた。立山屋敷造営後は、新たに到着の奉行は西役所に入り、江戸へ帰る奉行が出発したあとに立山役所に移転した。
(一)長崎奉行は文禄元年(1592)に設置されてから、寛永十年(1633)までは一名であった。もっとも、
初代寺沢志摩守は唐津城主であったから、家臣を長崎に派遣して政務を委せた。これは例外として、
他の奉行は、当時は南蛮船の入港が毎年六月か七月ごろで、帰帆は九月おそくとも十月中旬を越えることはなかったので、
その入港に先立ち着崎し、又、外国船の帰帆後に江戸に帰った。
(二)寛永十一年(1634)から貞享三年(1686)までは奉行は二名となった。うち一人は在崎し、(たいてい、毎年九月に交代)一人は江戸にいた。立山屋敷造営後は、新たに到着の奉行は西役所に入り、江戸へ帰る奉行が出発したあとに立山役所に移転した。