古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

高杉 晋作-21

2015-10-17 08:05:41 | 長崎の歴史



第2次幕長戦争
晋作は再度の長州征討に備えて、
防衛態勢の強化を進める。
慶応2年(1866年)1月21日
(一説には1月22日)
土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎・

土方久元を仲介として、
晋作も桂小五郎・井上聞多・
伊藤俊輔たちと
共に進めていた薩長盟約が
京都薩摩藩邸で結ばれる。

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高杉 晋作-19

2015-10-13 05:15:12 | 長崎の歴史



高杉 晋作-19
同月、海外渡航を試みて
長崎でイギリス商人グラバーと接触するが、
反対される。
4月には、下関開港を推し進めたことにより、
攘夷派・俗論派に命を狙われたため、
愛妾・おうの(後の梅処尼)とともに四国へ逃れ、
日柳燕石を頼る。6月に桂小五郎の斡旋により帰郷。

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高杉 晋作-18

2015-10-11 06:05:17 | 長崎の歴史



再び下関へ帰還。12月15日夜半、

伊藤俊輔(伊藤博文)率いる力士隊、
石川小五郎率いる遊撃隊ら
長州藩諸隊を率いて功山寺で挙兵。
後に奇兵隊ら諸隊も加わり、
元治2年(1865年)3月には俗論派の
首魁椋梨藤太らを排斥して
藩の実権を握る。

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高杉 晋作-16

2015-10-06 06:45:09 | 長崎の歴史



これは清国の見聞を経た高杉が
「領土の期限付租借」の意味するところを深く見抜いていたからで、
もしこの要求を受け入れていれば
日本の歴史は大きく変わっていたであろうと伊藤は自伝で記している。
ただし、このエピソードは当時の記録にはなく、
ずっと後年の伊藤の回想に依拠しているため、
真実か否かは不明である。

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高杉 晋作-15

2015-10-04 05:45:09 | 長崎の歴史



交渉の席で通訳を務めた伊藤博文の後年の回想によると、
こ交渉の席で通訳を務めた伊藤博文の後年の回想によると、
この講和会議において、
連合国は数多の条件とともに「彦島の租借」を要求してきた。
高杉はほぼ全ての提示条件を受け入れたが、
この「領土の租借」についてのみ頑として受け入れようとせず、
結局は取り下げさせることに成功した。

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高杉 晋作-13

2015-09-30 04:55:05 | 長崎の歴史



京都では
薩摩藩と会津藩が結託したクーデターである
8月18日の政変で長州藩が追放され、
文久4年(1864年)1月、
高杉は京都進発を主張する急進派の

来島又兵衛を説得する が容れられず 、
脱藩して京都へ潜伏する。
桂小五郎の説得で2月には帰郷するが、
脱藩の罪で野山獄に投獄され、
6月には出所して謹慎処分となる。
7月、長州藩は禁門の変で敗北して朝敵となり、
来島は戦死、久坂玄瑞は自害する。


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