昭和の時代、業務空間拡大のため、
一時は高層ビルへの全面建替えも計画されたが、
3面の外部の壁面と内部の重要な部分を保存し、
西側敷地に高層棟を新築した。
予約すれば、
旧館の内部や新館の営業室などを見学することができる
(大阪市北区中之島2-1-45)。
長崎の歴史
中之島の邸に運ばれた。
中之島邸にて葬儀が執り行われたが、
葬儀には大阪の恩人・
五代を偲ぶ4千数百名の弔問客が訪れ、
棺は淀屋橋を南に渡り東へ、
心斎橋筋を南下して高麗橋通を東へ堺筋まで行き、
堺筋を南下し、
阿倍野墓地に向かった。
江戸時代この地には島原藩蔵屋敷があり、
明治初期には関西財界の
指導者五代友厚の別邸があったそうだ。
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その後、明治18年(1885年)1月、
中之島(現・日本銀行大阪支店)に邸を新築した。
同年8月には東京で療養生活を送り始め、
そのまま同年9月25日に
東京で逝去したために
この邸で暮らした期間は短いものだった。
五代の棺は
東京・築地から横浜、神戸へと船で、
さらに神戸から大阪まで汽車で運ばれた後、
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慶応4年(1868年)から
大阪在勤となった五代は備後町で暮らし始める。
明治2年(1869年)には梶木町
(現・北浜4丁目。ちょうど
日本銀行大阪支店の土佐堀川対岸あたり)
へ移り約半年ほど住んだ。
翌年に備後町に仮居した後は平野町に引っ越し、
明治4年(1871年)12月から西区靭(うつぼ)
北通1丁目(現・大阪科学技術センター)に居宅を構えた。
料亭・加賀伊(かがい)(後の花外楼(かがいろう))
で行われた大阪会議開催前に
盟友・大久保利通が長期間宿泊し、
碁盤を間に五代と向き合って
日々談義したのはこの靭(うつぼ)邸である。
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五代邸
日本銀行大阪支店五代友厚の最初の自邸跡は、
現在の大阪市西区靱本町にある
「大阪科学技術館」である。
昭和35年まで残っていたが
大阪科学技術センタービルの建設により取り壊され、
現在は大阪科学技術館として姿を変えている。
新築自邸跡は、現在の大阪市北区中之島にある
「日本銀行大阪支店」である。
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五代の婿養子が商議員へ
1889年(明治22年)からある時期において、
大阪商業講習所から4番目の校名にあたる
「市立大阪商業学校」の商議員のなかに、
五代友厚の長女・武子の夫である
「五代龍作(旧姓・九里)」が名を連ねている。
市立大阪商業学校の敷地や商議員など、
このような歴史の断片を
掘り起こして改めて想起されるのは、
創立後の大阪市立大学は、
五代友厚と深い縁で結ばれていたということがわかる。
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将来の財政基盤を強化するために、
再び五代が筆頭の創立員となり
大阪府知事に建言書を提出し、
明治15年に大阪府立商業講習所と改称される。
明治18年3月、
文部省からの多額の補助金を得て、
大阪府立商業学校に昇格し、
明治21年、大阪市が誕生したのを機に、
大阪市立商業学校となった。
この学校はその後、大阪高等商業学校、
大阪商科大学に昇格・発展し、
現在の大阪市立大学および
市立天王寺商業高校の基礎となった。
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五代は、
明治維新の3年前の1865年に森有礼らを選抜し
、
7か月にわたって英仏を視察して産業や
学校・病院の仕組みを輸入し、
森は1875年に東京で商法講習所を開設した。
私立大阪商業講習所では、
簿記学、経済学、算術、習字、英語、
中国語を中心にカリキュラムが組まれた。
簿記学は必須で毎日2時間、
算術も必須で毎日1時間、
英語は英会話を中心に授業が行なわれていた。
中国語は、
支那学校と提携して授業を交換していた。
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当時の入学金は1円であり、五代は多額の寄付金、
創立費を出している。
『大阪市立大学100年史』によれば、
五代友厚と福沢諭吉の意を受けた加藤政之助が、
明治12年8月に五代がオーナーを務める大阪新報社に
「大阪に商業学校を設置する社説」を発表した、
と記述されている。
五代は近代国家の建設のためには、
商業学校は必須と考えていた。
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