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天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

角幡唯介『空白の五マイル』

2021-06-20 06:10:37 | 

2010年11月22日第1刷/集英社


内容(「BOOK」データベースより)
チベットの奥地、ツアンポー川流域に「空白の五マイル」と呼ばれる秘境があった。そこに眠るのは、これまで数々の冒険家たちのチャレンジを跳ね返し続けてきた伝説の谷、ツアンポー峡谷。人跡未踏といわれる峡谷の初踏査へと旅立った著者が、命の危険も顧みずに挑んだ単独行の果てに目にした光景とは―。第8回開高健ノンフィクション賞、第42回大宅壮一ノンフィクション賞、第1回梅棹忠夫・山と探検文学賞。



赤く囲ったところが本書のテーマの地域。

ヒマラヤ、チベット一帯はインド大陸をなすプレートがユーラシア大陸へ押し寄せて盛り上げた結果、水の流れる筋(峡谷)が尋常でない複雑さを持つに至っている。
ゆえに、ヤル・ツアンポー(正式名)はヒマラヤの峡谷で忽然と姿を消した後どこへ出るのか、インドであろうかビルマだろうか、長い間謎であった。アッサムでブラマプトラ川になってインド洋に流れ込むという説が主流であったがビルマでイワラジ川になるという主張もあった。
1880~84年ペマコチュンまで入ったキントゥプが500本の丸太を流した。それがブラマプトラ川へ流れ出ることを確かめる行為であったが下流で確認するのがずさんで丸太は流れてしまったらしい。
チベット仏教の桃源郷であるという伝説、地理的に大滝があるという伝説をまとったツアンポー峡谷を徹底解明するために著者は2度ここへ入った。

最初が2002~3年冬(26歳)。このとき北から入って、未踏であったツアンポー峡谷最深部をほぼ明らかにし(見ていない箇所は2キロほど)探検家としてその名声をとどろかせた。2003年朝日新聞に入社し記者として筆をふうるも満足感は風化していった。
たしかに空白の五マイルのほとんどを踏破したが、いったいそれがなんだというのだ。ジェヤンの家をベースに、ちょこちょこと山を越えて、峡谷の中を数日間もぞもぞと這いずり回っただけではないか。私はもっと深いところでツアンポー峡谷を理解してみたいと思うようになっていた。もっと奥深くに行って、どっぷりと浸かり、もっと逃げ場のない旅をしてみたい。
2008年朝日新聞社を辞め、2009年著者は中国公安の目を盗む形で再びツアンポー峡谷を探索する。2回目の過酷さは読んでいて心臓の鼓動がはやくなるほどであった。


水色がツアンポー、赤印が角幡が北へ行くのを断念したところ、そこから東のガンデンをめざす旅は過酷を極めた。
濃い青が「空白の五マイル」と呼ばれた地域。角幡は最初の旅で踏破している。


特に1924年、キングドン・ウォードが通った箇所を断念した1000mの衝立のような断崖。
角幡はキングドン・ウォードのときここに岩棚ないしそれに近いものがあったが地震と洪水で通る足場があとかたもなくなったと分析し、北へ行くのを諦めて東へ行く。
彼にパートナーがいたならば峰を越えて北へ行くことができたであろうがが同行者を拒むのが角幡の流儀である。
最後は食料が尽きて、1日1食1000カロリー採るのがやっとで、「この頃から私の身体の状態は疲労を通り越し、衰弱の域へ入っていたと思う。」としている。極限状態の生き様は何度読んでもハラハラする。



岩蔭で焚火する角幡。とにかく湿気の多いところでよく燃えたものである。

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どこかに行けばいいという時代は終わった。どんなに人が入ったことがない秘境だといっても、そこに行けば、すなわちそれが冒険になるという時代では今はない。

今の時代に探検や冒険をしようと思えば、先人たちの過去に対する自分の立ち位置をしっかりと見定めて、自分の行為の意味を見極めなければ価値を見いだすことは難しい。パソコンの画面を開きグーグル・アースをのぞきこめば、空白の五マイルといえどもリアルな3D画像となって再現される時代なのだ。

私は私のやり方にこだわった。衛星携帯電話といった外部と通信できる手段を放棄することが、私の旅では重要な要素だった。丸裸に近い状態で原初的混沌の中に身をさらさなければ、見えてこないこともある。


空から見たツアンポー峡谷
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