
藤山直樹『集中講義・精神分析』2008年10月30日/岩崎学術出版社

日本に30人ほどしかいない精神分析家、藤山直樹。鷹同人でもある
・1978年 東京大学医学部卒業、精神科医として研修開始。
・以後、帝京大学医学部助手、東京大学保健管理センター講師、日本女子大学人間社会学部教授を歴任。
・医学博士。
・1999年 神宮前に個人オフィスを開業。
・そのかたわら2001年4月より2019年3月まで上智大学教授(総合人間学部心理学科、総合人間科学研究科心理学専攻)。
・日本精神分析協会正会員、訓練分析家。
鷹8月号で巻頭を得た藤山直樹さんの
時間売る生業暗し百合ひらく
に対して主宰が
「藤山さんはフロイトが創設した国際精神分析学会に所属する日本では数少ない精神分析家だ。フロイトの時代そのままにカウチに横たわる患者の枕元に座って語らう。……」
と、彼の仕事を紹介したくだりに引き込まれた。
精神分析――フロイトという構図は知っていた。大学のころフロイトは読んだ。読んだがほとんど理解できなかった。『夢判断』なんてほんとうに夢みたに実体がなくてつかみどころがなかった。
けれど鷹という身近なところに生身の藤山さんがいらっしゃる。電話すれば話すことができる人である。2歳6ヶ月児と毎日言葉を交わしていて、否、先方からまだほとんど言葉が返らない状況で、会話ということと精神分析がビビッとぼくの心中で発火した。
藤山さんの精神分析を受けてみたいと思ったが、先方の事情がわからない。書いたものをまず読もう。ということで『集中講義・精神分析』上下を借りた。上智大学で教鞭をとっていた藤山さんが講義したものをまとめたものであり、口語調である。それがわかりやすい。
【精神分析―ひどく精神の状態が悪い金持ちのもの】
きさくな人で料金について、年収について金額を出さないものの想像できるように語っているのが気に入った。
ぼくは3万円使っていいから二三度彼の分析を受けたいと思って読みはじめて、「体験分析」、冷やかしのようなものは無理とわかった。
国際精神分析学会(IPA)の基準で、週4回以上、1回45分以上、これを相当長い間継続することとなっている。1セッション1万円で1年間やると192万円。これを惜しいと思わず、むしろ喜んで払う経済力がある人で、こころの問題でにっちもさっちもいかない人が彼のオフィスを訪ねてくるようだ。
【セラピストはもちこたえること】
カウチに患者を寝させて、セラピストは患者の見えないところに座る。
カウチに寝てもらった患者に、セラピストは、
「さあ、始めましょうか」でスタート。
「頭に浮かんだことをしゃべってくださればいいですよ」「頭に浮かんだことをしゃべりにくいかもしれませんが、しゃべってみるのがいいかもしれません」などと話す。
患者はたいてい苦しいが、彼に「たいへんですね。頑張りましょう」とか「じゃあこうしましょう」と言わない。患者の本当に苦しいことへのフォーカスをそらすような操作をしている。
セラピストは患者の後ろにいて、できるだけ沈黙を守って話題を変えない。患者についていく、助言しない、保証をしない、説教を垂れない。起っていることについて理解を伝えるのみ。侵略的でならないように。話し相手は居るのだが比較的居ない状況。何かがいずれ起るんだという希望を維持する力を持ち続ける。
フロイトいわく「シンプリー・リッスン(黙って聴け)」
考えられない患者さんが考えられる瞬間をもてるように援助できないか、逆に絶えず考えることしかできず、生き生きとした無媒介な世界に怯えてしまい、引き籠ってしまい、ただ考え続けている人には、もっと物を考えないでいきいきしていられるようになれないか、などと考える。
ビオン言う「精神分析はこころの性交」
無意識を意識して言葉にするとヒステリー症状はバタバタよくなる(ブロイエルのアンナ・Oの治療)
その人が出会っていない自分自身のいろいろな側面と出会う
さらに、それと深く交わる
これには苦痛が伴うが
それが終わったとき、その人のキャパシティが増大
こころに余裕ができる、という表現でもいい
そういうことを精神分析はめざすようである。
【フロイトとユング】
とにかく取っ付きやすい本である。「フロイトは天才的な人だがセラピストしては未熟」と指摘したのにはびっくりした。それは当然で、フロイトが精神分析の創始者ゆえ彼自身が分析を受けられる人がいなかった。藤山さんはほかのセラピストから数年にわたり分析を受けるという経験を経て分析家として認められているのである。
フロイトと並び称されるユングが患者(女性)と恋愛関係(体の関係)になったことがたびたびあったという指摘もおもしろい。個室で患者がセラピストが1対1になる。患者のセラピストへの信頼感が増していけば、俗にいう「言い寄られる」ということは多多起こるだろう。それに手をつけてしまったら治療どころではない。困った人だね、ユングさん。
ユングをフロイトは糾弾しなかったが、ドッグレースにおいて優勝犬にソーセージが与えられるというケースにおいてレースの途中にソーセージが投げ入れられたらレースどころではない、という露骨な比喩で揶揄したらしい。
そういう比喩をつかうフロイトが藤山さんは好きだとか。そのセンスはぼくもわかる。
分析を受けるのは無理でも句会の後の懇親会で話したい人である。
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