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天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

黒澤麻生子句集『金魚玉』を読む

2017-08-10 00:07:14 | 俳句


黒澤さんとは今年、去年、一昨年と俳句甲子園神奈川大会の審査員を一緒につとめた。
審査員ゆえ当然だが、明解に句評を述べる若くて溌剌とした方であった。どんな俳句を書くのか、俳句以外にどんな生活をなさっているかは知らなかった。

【黒澤麻生子(くろさわ・まきこ)略歴】
  昭和47年 千葉県生まれ
  平成11年 鍵和田秞子の「未来図」に入会
  平成16年 「未来図」新人賞受賞
  平成17年 「未来図」同人
  平成20年 俳人協会会員
  平成21年 藤田直子の「秋麗」創刊に参加
  平成25年 「秋麗」同人
 

句集を見はじめてすぐ次の句に目が釘付けとなった。

子授けの石胸に抱く浅き春
彼女の快活な立居振舞の裏にこういう切ない事情があったのか……そして結局、子供は授からなかったふうに思えて、衝撃を受けたのであった。
一冊の句集があまた所蔵するなかにその句集の命運にかかわる一句がある、というのがぼくの持論である。
読む方の立場からいうと、それは作者自身が代表句としたいというような句でないことが多い。作者の生き方の基盤になっている句、作者の根っこを感じさせる句がぼくを虜にする。
隠しておきたい事実をむき出しにする。これは表現活動に携わる全員ができるわけではない。これができる人がいっぱしの作家になれる。黒澤は身を挺して自分を書ける自由闊達な意思と覚悟を持っている。
ぼくはこの一句で黒澤を認め深く感じ入ったのである。
読み手が「石女」を連想するであろうことを黒澤が予想しないはずはない。女にとってこれ以上ない屈辱の針の蓆へ読み手を誘いこむところに作者の覚悟を見る。
それにしてもなぜ不遇の女性に石を抱かせるという酷い習慣がこの国に生き続けているのであろうか。抱いて霊力が得られるのなら八頭や大榾のほうがいい、と余計なことを思ったりする。


向日葵やアパート中の赤子泣く
ひとの子の思わぬ重さ春満月
手から手へ渡る赤子や涅槃の日
赤ん坊は水のかたまり十三夜

他人の子を詠んだ句がかなり目につく。彼女の境遇を知ると「アパート中の赤子泣く」は拷問のような辛さかと思うし、「ひとの子の思わぬ重さ」もよくわかる。
しかし身の上とは関係なく、手から手へ赤子が渡る涅槃はこの季語の本質を抉ったいい視点であろう。「水のかたまり」という赤子のとらえ方は自然であり自身の負の境遇に溺れないニュートラルの抒情性を保つ。


黒澤は無邪気といっていい自然体で物事に対している。
流れこむ真水つめたき磯遊び
枯野に立つ初めて海を見しごとく

海で遊んでいて海水と異なる真水(湧き水)で出会うことはままあるがここまであっさり一句にできない。構えてしまいがちだが黒澤にそれはない。
枯野という広い場所へ来たの私はじめて、五歳のときはじめて見た海みたい、となんの衒いもなく告白する。ふつう人は自分を幼いと感じてこんなにあっけんからんと振る舞えない。


こういう飾り気のない人の句は思わぬユーモアが出て人を楽しませる。
鎖骨出して歩くか雪の六本木
田草取る丈夫な足を沈ませて
冬の蜂昼から酔うてゐるような
秋刀魚食ふ江戸の大火を思ひつつ

六本木はモデルとか派手ななりの外国人女性だとかが色香を振りまくような街。じゃあ私も鎖骨くらい見せようじゃないの、と慎ましい作者がいうからおもしろい。しないでしょう、麻生子さん。
田草取りで丈夫な足が沈むとはアイロニーの極致といっていいし、冬の蜂は酔っているのではなくて体力が落ちて瀕死の状態なのに言葉で戯れる。
「秋刀魚食ふ」に江戸の大火を取り合わせると品川や落語を連想し、優雅な気分になるではないか。


物事に対して構えないことが彼女のふところを深く大きくしている。簡単に書きながら芸域の広さを見せる。
遥かなる宙に船長おぼろ月
あの大がかりの事業を「遥かなる宙に船長」と簡潔に切り取るうまさ。本質を突いてファンタジーを奏でる。

誰か手にとりし本買ふ春隣
さりげない視点で他人と共にこの季語を謳歌する。

語り部は立つても小さし蓮の花
語り部のたぶん老いた女性への目が利いていてその人生、業績を蓮の花で称える。

桜桃忌裾を濡らして帰りけり
太宰治は入水して死んだが作者は裾を濡らしただけで帰ったというユーモアが光る。

向日葵や少年ジャンプ廻し読む
この派手な季語に「少年ジャンプ廻し読む」を持ってきた明るさは秀逸。

スカートは帆のごと吹かれ水の秋
屈託のない晴れ晴れとした女性のスカートを狙って風が集まるのではないか、と錯覚させる。


桐下駄の軽さに慣れず終戦日
軽いのだがそれでつんのめったりしそう。危なかっしいよそ行き感覚と終戦日との絶妙な引き合い感覚。

まだ固き教科書めくる桜かな
小学校。新一年生の教室。教科書に慣れていない手つきと桜はいかにもういういしい。



十六夜やなに書くでなく墨磨つて
冬座敷空つぽとなり墨にほふ

墨の句、墨書の句が多いのは彼女の家庭は父か母がそういう仕事をしていたのではなかろうか。
上の句は自分自身のゆったりした時間を、下の句は父母のどちらかの亡くなったときのことではないか。どちらも付け焼き刃でない墨への愛着が見て取れる。



金魚玉むかしのことは生き生きと
題名としたこの句について黒澤はあとがきで次のように述べる。
「現在、私は在宅高齢者を支えるケアマネージャーとして勤務しており、日々訪問を繰り返す中で得た句です。どんなに高齢になっても昔のきらきらとした思い出を心の奥底に持ち続けているもの。少し前のことを忘れてしまったとしても、思い出という宝物を大切に、胸を張って今日を生きてほしい」

追伸:これだけ褒めたのだからデートを申し込んだら受けてくれるだろうか。それはともかく、楽しめて刺激をいただいた句集である。
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1 コメント

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はじめまして (さなえ)
2017-08-14 20:46:27
記事読まさせていただきました。とても良さそうな句集で読んで見たいなと思わせる句群ですね。
ただ、この記事を読んでおもったのは俳句とはノンフィクションなのでしょうか?
引用の1句目でノンフィクションだと決め付け、それを引きづりながら他の句を読んでいるのが気になりました。
詠者の背景を知ることでその句の意味を深く知ることが出来るということはあると思いますが、フィクションをノンフィクションだと思い込んでいるのだとすれば滑稽ですよね。
私は黒澤さんのことは存じ上げませんが、背景に引きづられずに1句1句大切に読む価値がありそうな句集だな、と思っただけに残念です。
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