
きのう宮中で行われた歌会始の次の作品に注目した。
彼等とのつきあひ方と人のごとく語られてゐる人工頭脳 内田しず江
これに関して今日の讀賣新聞の「編集手帳」が取りあげている。
病理学者の立川昭二氏は新しい言葉が文化として容認されるのはそれが新聞歌壇に出てきた時点である、という見方をしていること紹介している。
この見方にぼくは納得する。
ちなみに「電子辞書」が讀賣歌壇に出たのが13年前、「iPod」は10年前に出現したという。
俳句においても新語は新聞俳壇の取り上げることで普遍性を獲得すると考えていいが、その時期は短歌よりずっと遅れる。
「電子辞書」の句はいま俳壇でそうとうお目にかかるが、「iPod」はあまり知らない。たぶん作っている人はいてどこかへ出しているのだろうが一流俳人の選に入る可能性は低いだろう。「iPod」で秀句をものにする自身はぼくにはない。
電子機器の末端の道具に関しては「携帯電話」はむろんOKだが、「携帯」では持ち運ぶ意になって器具を表すことはできない。「ケータイ」と片仮名にすれば俳句に入って来られる。
最近、受講生の俳句の添削をしていて、「スカイプ」「ライン」があって往生した。
「メール」「写メール」ということならほぼ誰でもわかるのでこれに置き換えて添削したのだが、俳句は基本的に新語に対して短歌よりずっと遅れるし、永久に取り込むことのできないケースもある。
それは圧倒的に文字分量が少ないことによる。
短歌は31音の中で新語をチョコレートを溶かすように取り込めるが、17音の俳句では新語は突出してしまう。
短歌は調べと流れが魅力的な詩であり俳句はぶっきら棒の物言いをよしとするのであるが、一語一語のこなれ具合はむしろ俳句のほうが必要といえるかもしれない。
短歌において新語の「事柄性」を周囲の言葉で十分補うことができるが俳句では「事柄のまま」で機能しなくなってしまう。
本日の「編集手帳」は短歌と俳句の根本的違いを認識させてくれもした。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます