天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

振袖と俳句

2018-01-12 12:40:57 | 世相


1月8日、成人の日に予約していた振袖が借りられないという事件が起きた。
張本人のレンタル会社「はれのひ」は実にいい命名であるが経営の中身はひどかった。責任者が借金に追われて夜逃げ状態のようだ。詐欺同然の「はれのひ」は糾弾されるべきである。
振袖を再度調達して成人式をやりなおすという話が起こって、みんながその日は振袖を着なきゃあいけないのか、成人式は振袖を着る素人ファッションショーなのか、種々雑多な好きな衣服を着て個性を発揮したらどうなんだ、若いんだから、と思った。

しかし明日のひこばえ句会を前にして、振袖が成人式の定型になっているのなら、それを着られないことへの同情の念がやや増してきた。
振袖なんかどうでもいいじゃないかと言えば、どこからか俳句なんてどうでもいいじゃないか、というこだまが返ってくるような気がするのだ。
ぼくらは振袖を似たり寄ったりのきらきらしたきらびやかな着物と思うが、着る本人やそれを見る仲間はたぶん違うだろう。柄が鶴と牡丹ではまるで違うだろうし、色合いも青系と赤系、また桃色系では別世界なのだろう。

振袖の差異に鈍感ということは、世間の人が山頭火も高野素十も金子兜太もみんな俳句で一緒くたにひとまとめにしているのに通じる。外国人がこの3人のものを読んだとして差異に気づくのは研究者くらいだろう。
しかし山頭火と高野素十と金子兜太は違うのだ。そしてこの俺も彼らとは違うのだ。五・七・五という決まった形の中で違いを、新しさを出そうと七転天八倒している。

五・七・五そのものが変わらなければ個性もそう発揮できないでしょ、と詩を書く人はいうかもしれない。そういわれるのは理解できるが自由な形のない詩を書いていては仲間と交流できない。仲間ができにくい。
事実、さる有名詩人が詩の世界では仲間ができにくいといって、競艇の雑誌を作りそこで句会をやり俳句を掲載していたのを寄贈されたことがある。彼は作品を語る座を共有したかったようだ。

五・七・五という定型が座をなんなく作る。座が大事だと思うと成人式に振袖を着られない事態にますます同情してしまう。
好きなものを着て個性を発揮したら、と新成人たちに表向き筋の通ったことをいっていられなくなる。
日本人というのは成人式にしろ句会にしろ、きわめて微細な差異を感じ評価して喜ぶ人種なのだろう。
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