北方謙三が『チンギス紀7 虎落』で描く1202年のモンゴルの草原は、日本でいう関ヶ原の戦いとう感じである。モンゴルの天下分け目の決戦である。
テムジン率いるキャト氏とトオリルカンのケレイト王国連合軍と、タルグダイ率いるタイチウト族、ジャムカ率いるジャンダラン氏、アインガ率いるメルキト族がぶつかる。
テムジンは戦線の膠着を嫌ってヘルレン川流域のコイテンへ戦場を変える。これをきっかけに勝機を得ることになる。Wikipediaはこれを「クイテンの戦い」と記す。

ヘルレン川流域は、匈奴や鮮卑など、モンゴル草原の遊牧民族の多くが活動した地域である。チンギス・ハンは、その活動の初期にはヘルレン川一帯を活動範囲としており、伝説ではその墓所もヘルレン川の流域にあるとされる。(Wikipedia)

ヘルレン川の注ぐフルン・ノールには水の出口がないが、降水量の多い年には湖の北岸から水があふれて草原を30キロメートルほど流れ、アルグン川へと合流することがある。アルグン川は中露国境を944キロメートルにわたり流れ、シルカ川と合流してアムール川を形成する。ヘルレン川を含めた場合、アムール川水系は大きく西へ拡大し、ヘルレン川源流からアムール川河口までの長さは5,052キロメートルに達する。(Wikipedia)
こんな広い場所を何万頭という馬と人が駆けたのだがその光景に想像力がついて行かない。
白鵬の祖先は凄い連中だったと思うばかりである。
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