
面識はないが文通はある渡辺隆夫から『川柳 六福神』(角川学芸出版)が届いた。
いちばんいいと思ったのが
天皇や男一匹精の虫
である。この人の皇室揶揄川柳はむかしから大胆で見るべきものがあるが、〈穿ち〉が効いていてこれはおかしみとさびしさが同居していていい。「男一匹」でありたいと思ってもそうはいかない境遇に精虫をからめた技が光る。「天皇や」などという切字は川柳の伝統にはない俳句のものであり切れ味がある。
ほかには以下の句に好感を持った。
そやさかい若く明るい第二国歌を
ベッドから何度も落ちるまくわうり
さすが弁天日本一の大まんじゅう
マユミの実かたくて赤い未亡人
凶暴なペニスちょっきんちょっきんな
亀の子はタワシとなって売られけり
春駒は逃げ足速い芸者の子
ベッドから何度も落ちるまくわうり
さすが弁天日本一の大まんじゅう
マユミの実かたくて赤い未亡人
凶暴なペニスちょっきんちょっきんな
亀の子はタワシとなって売られけり
春駒は逃げ足速い芸者の子
「第二国歌」は「君が代」に代わるものでありこれは渡辺の持論。
まくわうりは爛熟した女体の隠喩。大まんじゅうも同様に女性器の隠喩。マユミの実も同様な味付けで未亡人の貞節を描いていておおらか。渡辺の自家薬篭中の嗜好である。
ペニスは阿部定事件を彷彿とさせ舌きり雀ふうに興じていて楽しい。
亀の子とタワシは言葉遊びだが誰でもついていける軽さがいい。
春駒と芸者はいかにも引き合い、逃げ足を出したところがうまい。
極楽の招き猫です曼珠沙華
季語を使った句ではこれはうまく川柳化させているが
次の句は俳句のでき損ねでは、と思ってしまう。
曼珠沙華オランダ坂を傘さして
「オランダ坂を傘さして」は描写であり、俳句をつくる基本姿勢としてまっとうだが川柳の手法としてはおもしろみに欠ける。ここへ何かこの情趣を支える季語をつけましょう、ということを俳句初心者に教える。つまり「取り合わせ」俳句の典型的な形である。
この句は曼珠沙華でなくても「萩咲くや」でも「春の灯や」でも成り立ってしまいますよ、それは中七下五の描写にさほど特徴がないからですよ、などと中級の俳人を指導する。
つまり俳句仕様であり川柳らしくないのだ。
死後の座敷に食べごろのメロン
春の月ざぶんと海に落ちたりせよ
古里とは父祖伝来の股火鉢
白粉の花にオシッコ掛けないで
芒原バサと人斬り出やせぬか
白梅の正面に立つ男前
秋草を手に手に降りるおばあさん
春の月ざぶんと海に落ちたりせよ
古里とは父祖伝来の股火鉢
白粉の花にオシッコ掛けないで
芒原バサと人斬り出やせぬか
白梅の正面に立つ男前
秋草を手に手に降りるおばあさん
以上の句に季語を安易に使った俳句の崩れた姿を見てしまう。
渡辺はあとがきに、「大磯に転居して以来、主に、横浜近辺の短詩や俳句の会に潜り込んでは、俳句のような川柳(川柳のような俳句)を作って来た」と述懐する。
わかっているのだ。
わかっているのなら川柳とも俳句ともつかぬ半端な路線をなぜ進むのか…。
〈穿ち〉という才能があるのだからこれを全面に押し立てた川柳に邁進してほしい。
われ一人古里を出てでくのぼう
人類の誰が最後に死ぬのでSHOW
人類の誰が最後に死ぬのでSHOW
これらを誰も俳句とは思わない。渡辺はきまじめである。きまじめな穿ち路線を進んでほしいとせつに思う。
ただし川柳の先鋭的な人たちは川柳をお笑いとするのが嫌で、詩であるとして追求しています。
ぼくら俳人からみると季語を使わない五七五は骨格がない案山子みたいに思います。
俳人から見て川柳は「穿ち」という裏へまわるセンスであってほしいと思っています。