
きのうの当ブログ「鷹2月号小川軽舟を読む」で取り上げた
棚から盆引く配膳車クリスマス 軽舟
について、読者のゆりんこさんから
専門家のお二人は八五五の珍しい破調について言及しないんですね。
という意見が届いた。
これに対して小生の相方の月読が
「棚から盆引く配膳車クリスマス」の句を八五五として捉えるのは、あまりにも意味に引っ張られた分節化では?
そうしたゆりんこさんの分節化でいけば、例えば「乱切に鳴る俎板や春仕度」の句は七五五と捉えることになりませんか。
もう少し音声中心主義的に分節化するのがナチュラルでは?
そうしたゆりんこさんの分節化でいけば、例えば「乱切に鳴る俎板や春仕度」の句は七五五と捉えることになりませんか。
もう少し音声中心主義的に分節化するのがナチュラルでは?
と反論した。
月読の反論を支持する。月読がきちんと俳句の韻律をとらえていてくれたことに安堵した。
さらに小生が「八五五ではありません 」という意見をゆりんこさんに提出した。以下のとおり。
棚から盆/引く配膳車/クリスマス
/で軽く切って読みます。したがってこれは八五五ではなくて、六七五ととらえます。まず、そこを思い違いせぬように。句跨りです。五七五文脈は、上五字余りはそうとう字余りでもなんとかなります。上五字余りで成立している句としてたびたび紹介される次の句。「凡そ天下に去来程の/小さき墓に/参りけり 高浜虚子」は上は何と十三音。つまり十三・七・五の構造ですが中七下五がしっかりしていることで持つ、とされています。実際、声に出して読んだ場合、五七五韻律にのっとっている感じがします。その感じが、体感が大事だと考えます。
/で軽く切って読みます。したがってこれは八五五ではなくて、六七五ととらえます。まず、そこを思い違いせぬように。句跨りです。五七五文脈は、上五字余りはそうとう字余りでもなんとかなります。上五字余りで成立している句としてたびたび紹介される次の句。「凡そ天下に去来程の/小さき墓に/参りけり 高浜虚子」は上は何と十三音。つまり十三・七・五の構造ですが中七下五がしっかりしていることで持つ、とされています。実際、声に出して読んだ場合、五七五韻律にのっとっている感じがします。その感じが、体感が大事だと考えます。
ゆりんこさんはたぶんかつてぼくの句会へいらっしゃた方だと思われる。熱心でいい句を書いていた記憶がある。しかし、残念ながら、結社とか主宰とかいった既存のものにえらく拒否反応があり、同好の友と句を楽しんでいるようである。
結社みたいなシステムでまともな教育を受けていない人は俳句のとらえ方に偏りが生じやすくなる。その一例が、「棚から盆引く配膳車クリスマス」を意味で読んで、八五五とみたことに現れている。
鷹という結社は湘子のときから韻律にはうるさく、句を意味で切って読むと怒られた。
たとえば、
鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし 三橋鷹女
を、鞦韆は漕ぐべし/愛は奪ふべし、と二つの文脈に切って読むと、すかさず湘子に注意された。鞦韆は/漕ぐべし愛は/奪ふべし、と読めと。句跨りの場合、そこを軽く切ってわたって行け、と指導された。
NHKテレビのアナウンサーの多くが、ゆりんこさんのように、意味で切って読んでいてがっかりする。誰かきちんと俳句を教えろよ、と思う。俳句が五七五韻律で読まれないことにぼくら鷹衆はイライラする。俳句って韻律だよ、といつも思う。
ゆりんこさんに言いたいのは、既存の態勢とかシステムにはじめから拒否反応を持たないこと。いったんは既存のシステムにどっぷりつかってその色に染まってみてもいい。だんだんやっていくうちに自分はそのシステムから何を学び、何を遠ざけたいかがわかるようになる。もっと基礎トレーニングをして欲しい。相撲でいう、四股、鉄砲といったような。
ぼくは鷹に入って、俳句の韻律を徹底的に叩き込まれたことだけでもよかったと思っている。
撮影:米倉八潮
「引く」が「棚から盆を引く」と「配膳車を引く」に二重に懸かっているのですね。
「クリスマス」の季語の着地で、盆に乗ったクリスマス用のお菓子やチキン、配膳する看護師さんはきっと男性でサンタの帽子ぐらいは被っている、、、とかの景が浮かび上がってきます。
とても好きな句です。
稚拙な意見ですが僕は、意味の上でも「棚から盆/引く配膳車/クリスマス」かと思いました。
食事のプレートが何枚も格納されている大きな配膳車をイメージしたのですが、それだとお盆は「引く」ではなく「抜く」のような気がします。(「引き出す」を「引く」としたとも考えられますが)
他方、配膳車は、ホテルのレストランで客席の間を運んだりルームサービスを運んだりするものは「押す」ですが、病院や学校、介護施設などの大きなものは「押す」と「引く」のセットで動かされ、どちらかというと「引く」の方が進行方向のコントロールの面で重要な気がします。
また、「棚から盆引く」であれば「棚の盆引く」で17文字に納められますが、字余りにしてまで「から」を使ったのは、「棚から盆」だけで抜き出す動きまでイメージさせたものでないかと思いました。
クリスマスにトナカイが引くサンタのソリのように引かれた配膳車からプレゼントのようにお盆が取り出されて配られる、そのお盆には小さなケーキものっている、そんな景色を想像して読ませていただきました。
天地わたるさんのブログでいつも勉強させていただいています。
特に「鷹〇月号小川軽舟を読む」は、主宰の句をどう読むのか、未熟な自分には本当に学びが多く感謝しています。
ありがとうございます。
この句、読む調子としてはわたるさんの意見に同意です。私も、読み上げる場合は「意味の切れ目で切る」事よりも「単語の切れ目や文節の切れ目がある場所で、極力五七五っぽく読めるように切って読む」事を重視し、「棚から盆/引く配膳車/クリスマス」と読みます。
で、同時に意味も深堀りしてみたのですが……「どこでどう切れるか」と「棚」「引く」の解釈で物凄く悩みました。「棚」は「配膳車の棚」か「それ以外の場所の棚」かで状況が分かれるし、「引く」は目的語(盆or配膳車)も動作主体(人or配膳車)も謎で、とても曖昧です。
実は、私の第一感の読みは「(厨房の)棚から盆(を)引く配膳車/クリスマス」で、「フルオートメーション化された配膳車が、食堂の棚に並んだ調理済のお膳を自分で引っ張って取り出し、自身の中に収納する(+食事を待つ人の所へ持って行く)」という読みでした。ちょっと荒唐無稽な読みだとは思いましたが、昨今のコロナ禍でオートメーション化が急に進み、レストランで無人の配膳ロボットが活躍する時代になったので、こういう配膳車がいてもおかしくないかなあと思って……(^_^;)こう読むと、「ちょっと無機質なクリスマスの図」になります。
この場合、この状況を確実に伝えるなら「引く」よりも「取る」の方が正解かも知れません。説明っぽいけど(-_-;)
なお余談ですが、「人が厨房の棚から盆を引っ張って取り出し、配膳車に乗せた」という場合は、素直に「棚から盆引き配膳車クリスマス」となるかと。
動詞が「出す」「取る」「抜く」等ではなく「引く」である事の必然性は、「配膳車を引く」という読みがある分、こちらの読みの方が上だとは思いますが……どうなのかなあ(*_*)
(※)の内容を全部伝えるのは難しい……「配膳車の棚から盆を引く」事を優先するなら「配膳車棚の盆引くクリスマス」みたいな感じになるし、「配膳車を引く」事を優先するなら「盆を引き配膳車引くクリスマス」みたいな感じになりそう。でも、前者は棚が不要そうだし、後者も上五にそんなに重さが無い……はてさて(-_-;)