天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

伊勢史朗くんブログをやりたまえ

2024-06-27 00:32:59 | 身辺雑記

多磨霊園のとある碑


小生のブログによくコメントを寄せてくれる人に伊勢史朗くんがいる。
彼とは10年来の友人である。小生が田無公民館で句会をやっていたとき突如やって来た。
道場破りを感じさせる物言いで向う気が強く、なかなかいい句を書いた。そのころから句について語るのも達者であった。褒めることも、ましてけなすことは厭いがちな日本人のなかで史朗くんはずばすば自分の意見を披露する。それは小生の行き方に合致していた。
あるとき句会後の懇親会で、話題がプロレスのアブドーラ・ザ・ブッチャーに及んだとき、一回り若いはずの彼が小生のブッチャー論に乗ってきたときは驚いた。ブッチャーのファイトには間合いがありそれは俳句における切れに通じるものである、という小生の持論に賛同しておおいに盛り上がった。
4年前の正月、田無で「俳句バトル」という「俳句甲子園」を真似した企画を一緒にしたのが最後で以後会っていない。
自分で句会を開いてやっているようで頼もしい。
しかし、小生のことが気になるらしく、たまたま天地わたるブログを訪れては何か挨拶めいたことを言ってくる。むかしは誰かわからぬ記号のような名前を使いコメントを書いた。
伊勢史朗という名はいい名前である。彼に出会って神のおいでになるあの由緒ある土地を感じるようになり、
東に赤らむ海や伊勢参
という句ができた。実際に伊勢参りもしたが。歴史の史、明朗の朗で「しろう」も良く、性と名が5音ぴったりにおさまる心地よさ。
せっかくいい名前を持つのだから変な仮名は使うな、どこでもこの名前で行け、とたしなめた結果、今はきちんと伊勢史朗を名乗る。それでいい。
ならば、他人のブログにいちゃもんみたいなコメントを書くこともやめて、自分自身がブログを開設して思うことを書いてみたらどうか。
どうしても書くコメントが野次の域を出ていないのである。声を上げて自分を認めてほしいという心理なのかもしれないがそれが野次であると自覚しないと……。
自分の名前を名乗ったのはいいがまだ生き方が半身である。
半身をやめて全身でぶつかっていってほしい。屈折して生きるな。句座をともにした者の願いである。天地ブログに記事に関するコメントを載せるのはいいがこれは俺のブログなのだ。君のブログへの関わり方を俳句にすると、
絡む蔓垂れ下がる蔓さみだるる
という感じなのだ。
幹に絡む蔓をやめて自分が幹として立つべきである。自分が主人公のブログを書くことである。何を書いてもいい。自由である。
いま日本のマラソンを指導する瀬古さんがよく「自分でレースをつくることができる走者になれ」と指令を出している。
自分でレースを組み立てることができる。外野から批判めいた野次を飛ばすのでなく、自らがマウンドに立って投げること。スタンドからの批判を受けもたじろがないこと。それをしてもいい時期にきていないか。自分を表現するグラウンドを自分で持つこと。自分が伸びる舞台を自分であつらえること。
表現することが好きならブログは無料でいつでも開設できる。
小生は、あるいは史朗くんの仲間たちは、君が今日何をして何を思ったかというようなことを知りたいのではないか。つまらないと思うことでも具体的にていねいに書かれたものは人の心に入っていく。結果、人を呼び込むかもしれない。
他人のことに首を突っ込むのではなく、自分自身をしかと立たせる。小文を書くことに挑んでみてはどうか。新しい世界が展けると思うのである。




コメント (4)
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